みなさんタイヤは換えましたかい?

 コロラドエンサイクロペディアの記事「Columbine Mine Massacre」。

   1927年11月21日、コロラド州の民兵隊が、ウェルド郡のセレン町にて、炭坑夫のストライキ集団に向けて銃を発砲。6人を殺し、20人を負傷せしめた。
 コロンバイン虐殺事件と呼ぶ。

 合衆国ではその13年前に、ルドロウ虐殺事件というのがあったが、労使対立の構造はその頃から変わっていなかった。

 コロラド開発の初期には、山師たちは金銀などの貴金属鉱脈を捜し歩いた。しかし19世紀後半になると、鉱山所有者に最大の富をもたらす鉱物は、石炭となっていた。

 石炭が近代産業の基本燃料だった。それなくして、金属鉱物の精錬もできないし、鉄道レールの鋳造もできない。

 またデンヴァーのような都市部では、石炭が冬の暖房を成り立たせていた。

 東部とは事情が異なって、コロラドの炭鉱業は、少数の企業だけで寡占していた。代表的な2社は、「コロラド燃料&製鉄社」と、「ロッキー山地燃料社」である。

 坑夫の仕事はキツくて危険だった。1920年代といえば、もう労働運動の長年の成果もあがっていて、坑夫の労働環境は相当に改善されてはいたのだが、それでも、1日の労働時間は12時間であり、週休は1日のみであった。

 坑内の炭塵は坑夫たちを肺病に罹らせた。「黒肺病」と呼ばれた。
 落盤や出水事故、坑内火災もザラであった。

 炭層からたちのぼり、坑内に充満するガスも危険だった。だから毎日、操業を開始する前には、坑内の空気が点検された。
 点検がいいかげんだと、炭鉱ガス爆発が起きる。
 1884年のジョーカーヴィル炭鉱の坑内爆発事故、それから1896年から1918年にかけて三回大爆発事故を起こしたヴァルカン炭鉱も有名だ。

 20世紀前半、この危険な職場で労働組合が結成されたのは自然な流れだった。
 ルドロウ炭鉱には1914年にUMWAという産別組合が定着したのだが、揮わず、1920年代には撤退した。代わってIWWという過激なユニオンが入り込む。IWWは共産主義を理想視していたので、1910年代後半から20年代にかけて、新聞や州政府と敵対する。

 1927年8月23日、マサチューセッツでサッコとヴァンゼッティが死刑に処された。この2人はイタリア移民で無政府主義者だったが、殺人犯容疑に関しては無実だった。

 この件に、移民の組合員が多いIWWが反応し、コロラド州では炭鉱ストを打った。サッコとヴァンゼッティへの連帯をあらわすストだという。まる1日の職場放棄に1万人が参加。

 その後、IWWの要求は、日給6ドルを7ドル50セントに賃上げすること、各坑夫の掘り出し作業量を計量する係としてユニオンの者を雇うこと、労使合議委員会を置くことなどにあらたまる。

 10月時点でコロラド州全土で8400人の坑夫がストライキを続行していた。知事のアダムズはIWWを認めず、ストは違法であると宣言した。

 コロンバイン炭鉱では、数百人の組合員のかわりに、150人の「スト破り」を雇い入れることで、かろうじて操業を維持していた。
 この炭鉱は1919年に「ロッキー山地燃料社」が開発したが、1923年には出炭量で州最大となり、それにつれて坑内の死亡事故が増えていた。

 IWWは扇動者を派出して「スト破り」労働者を攻撃させようとするので、会社が雇っている武装警備員は炭鉱城下町のセレンを要塞化して、扇動者を締め出し、「スト破り」たちの身体を保護しようとした。
 冬の石炭需要期が迫り、労使間の緊張は高まった。

 11月21日、組合員炭坑夫とその妻ら500人がセレンのゲートに向かい、行進。スト破りの坑夫たちが坑口へ出勤するのを阻止しようとした。

 アダムズ知事は、会社の武装警備隊の応援として、コロラド州兵(テキサスレンジャーズに倣ってコロラドレンジャーズと称していた。志願制の警察軍)を現地に派遣していた。

 デモ隊が町の入り口ゲートを強行突破しようとし、コロラドレンジャーズは催涙ガス弾を発射した。
 デモ隊の前衛は投石に加えてナイフで立ち向かってきた。デモ隊の後衛には、銃器を持った一団がいたが、先頭には立っていない。

 ついに警察軍は、デモ隊前衛に向けて銃器を発砲。
 デモ隊側にいわせると、それは「機関銃〔たぶんトンプソンSMG〕の十字砲火」だったという。

 2名がその場で即死。4名は負傷後に死亡。他に20名以上が被弾負傷した。
 会社警備員と警察軍側にも負傷者が出た。

 その後も州政府はIWWを認めなかったが、その要求した坑夫待遇の改善には同意した。
 コロラド州でのスト騒動が終焉したのは1928年5月である。

 「ロッキー山地燃料社」の新社長は女性で、週給を7ドルに上げてやり、UMWAを会社の公認組合とした。