もしロシアが「アルバニア化」したら?

 英文ウィキペディアの「Bunkers in Albania」を抄訳すると、こんな感じ……。

 バルカン半島のアルバニアには今でも、冷戦中に建設された鉄筋コンクリート製のトーチカを、1平方キロメートルあたり5.7個、見出すことができる。もはや同国の観光風物と化している。

 1967年から86年にかけて、アルバニア全国土には、17万3371個も、同様のトーチカが造られたのであった。アルバニアのホッジャ政権はスターリン主義を標榜した。これらの軍備はすべて、フルシチョフ以後の、非スターリン化した「対ソ」用、兼、対米用であった。

 これらトーチカのことを、アルバニア語では「ブンケレート」と呼ぶ。バンカーだ。

 全土を文字通りにトーチカ化するというのが、ホッジャのスローガンだった。山道脇から、街路脇にまで、トーチカが築かれた。
 この建設のためにおびただしい資源が投入された。あおりを喰って、国民の住宅と道路は、貧相なままでも仕方ないとされた。

 1992に共産政権が消滅すると、トーチカは放置状態に。
 一部は、動物のシェルターや、ホームレスのねぐらになっている。

 ホッジャはWWII終了と同時にアルバニアの権力を握り、1985-4に死ぬまで独裁した。スターリニズムを信奉したが、トーチカ建設には毛沢東主義の臭いが強かった。

 ソ連の指導者がフルシチョフに変わるやホッジャはソ連に背を向け、1968のソ連軍のチェコスロヴァキア進駐を見て、ワルシャワ条約機構からも脱退した。さらに1972にニクソンが訪中すると、こんどは中共とも縁を切った。

 アルバニアは、隣国のギリシャ(NATO加盟国である)とは正式に戦争(WWII)を終結させていないという立場を1987まで堅持した。
 またおなじくユーゴスラビア(非同盟)のチトーをも「反マルクシスト」だとして攻撃した。

 ほとんど鎖国路線であったが、非NATOであるオーストリー、スウェーデン、およびアドリア海の対岸にあるイタリアとだけは例外的に通商を維持した。

 1973頃よりもうホッジャの頭は古すぎてダメだと国内で見られるようになると、反発したホッジャは粛清で逆襲した。そして1976に改憲を行い、事実上、外世界からアルバニアを完全遮断。鎖国に入った。

 1967に建設を開始したトーチカ群は、海岸から山、葡萄畑から、最上級ホテルの中庭にまで、設けられた。

 ホッジャの頭の中では、ユーゴスラビア(非同盟)とNATOとワルシャワ条約機構軍が、11個空挺師団をともなう侵略を、同時にアルバニアに対して仕掛けてくる公算があった。

 ホッジャはWWII中はパルチザンの頭目だった。戦後のアルバニア防衛構想も、まったくレジスタンス流の延長といえる「人民戦争」方式であった。

 現役国軍の75%と、予備・後備役の97%は、歩兵であった。

 彼のパルチザン戦術とは、山岳地を根城とし、敵(占領軍)の警戒の手薄なところを見定め、里まで降りてはヒット&ランを繰り返すというものである。

 しかしこの方式では、都市部は初盤でぜんぶ敵の手に渡すことになる。そこに傀儡分離政権を作られてしまうかもしれない。それではいけないというので、里ではトーチカで頑強に抵抗することにしたのだ。

 トーチカには大小があった。指揮中枢である大トーチカから、放射状に、小トーチカが点々と並ぶ。兵員が常駐しているのは大トーチカだけで、小トーチカは平時には兵隊は置かない。

 小トーチカと大トーチカの間は、視覚信号で命令や報告をやりとりする。大トーチカと上級部隊の間の通信には、無線機が使われることになっていた。

 アルバニアの総人口は300万人くらい。そのうち80万人に、なんらかの軍事的な職責を負わせていた。学生部隊もあった。

 国内外の「敵」を発見する軍事教育は、3歳から始められた。

 12歳になると、住所の最寄りのトーチカに入って防戦する訓練を受けねばならなかった。

 党の地方支部には、平時は無人である小トーチカの清掃や維持補修の責任が課せられた。
 毎月2回、市民防衛演習があり、その1回の訓練召集は3日も続くのであった。兵役適齢市民は男女ともにライフルを支給されており、それをもって訓練に集まる。ただし弾薬は、支給されてはいなかった。

 青年工兵部隊は、樹木の頂部に尖った槍を縛り付けるという練習をした。これで、降下してきた敵の空挺部隊員は、身体を突き刺されてしまうのである。

 小トーチカは、サイズ的には、中に、1~2名が入ることができた。立射壕である。
 地上には銃眼がある。大部分は地下なので、核シェルターともなるはずであった。

 多くは鉄筋コンクリートのプレハブ成形方式で量産され、それを、据えつける場所まで運んだ。

 トーチカの壁は二重構造で、中間部分に土を充填する。

 海岸部のトーチカ群は、地下の交通壕(やはりプレハブ・コンクリート製のトンネル)によって相互に結ばれる場合があった。

 ドーム部分の径始は、テキトーに考えたものではなくて、ヨシフ・ザガリという元パルチザンが戦後すぐソ連で勉強して、砲弾や爆弾をやりすごせる最適のシェイプを決定したものであった。

 このザガリも1974にホッジャによって投獄されてしまうのだが、その経験談は冷戦後に『Kolonel Bunker』というアルバニア映画にされている。

 司令部用の大トーチカは、重さにすると350トン以上の資材を使っていた。コンクリートの一括流し込みではなく、コンクリートのパネルをたくさん合わせて組み立てた。

 アルバニアのトーチカ群を合計すると、戦間期のフランスの「マジノ要塞線」の2倍の建築費が使われたという。使用されたコンクリートで比較すると、マジノ線の3倍になっているという。

 ザガリの証言するところでは、小トーチカを20個建造するコストは、道路を1km舗装する予算と同額だった。

 1974年、こんなトーチカ政策は軍事的にはまったくカネの無駄だと批判したバルーク将軍(国防大臣)は、ホッジャから「中共の手先」だとされて、処刑された。

 海岸沿いのトーチカは、その周囲が波で掘られて深くなるため、夏の海水浴客を危険にさらすようになった。そこで現在のアルバニア政府は、海浜部の廃トーチカの撤去を進めている。他は、コストがかかるので、放置だ。