マスク紐と耳隠しガーゼが一体になったマスクを、匿名取材インタビュアーは用意するべきだろう。

 顔隠しインタビューをしているときに、その人の耳がハッキリと映し出されては、本人はすぐに同定されてしまう。

 耳全体をガーゼでカバーする「マスクの耳紐」が必要なのだ。それによって、相手の耳の露出を防ぐ。耳の形で個人が識別されるから。

 耳全体をガーゼ袋で包む新方式なら、紐で耳が痛くなることもなくなるかもしれない。冬の寒冷地には、特に向いていると思う。

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 The Maritime Executive の2022-3-23記事「Weather Takes Out Key Oil Terminal on Russia’s Black Sea Coast」。
   悪天候のため、黒海に面した原油の積み出し港が損害を受けた。このため、カザフスタン産の原油を圧送するメインのパイプラインが数ヵ月、止められる見通し。
 カザフ原油は、世界の原油生産の1%である。これが市場からしばらく消える。

 この港は、ノヴォロシスクの近くのCPC港である。ロシアが支配している。
 カザフには海がないので、ロシアがここからタンカーに積ませてやっている。

 嵐は、3基ある「積み込みブイ」のうち2基を破壊したという。
 3月22日の風速は、65ノット以上だったと。

 だがじつはこれが「自然災害事故」かどうかには疑惑がある。ロシア政府が強風にかこつけて、わざと工作しているのではないかとエネルギー専門家は言う。

 ひとつ確かなことは、これが天災であろうと人災であろうと、再開日を決定する権限はロシアにある。

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 SOFREP の2022-3-23記事「Russian Troops Retreating From Key Areas, Troops Said to Be Suffering From Frostbite」。
   末端部隊レベルで「捕虜交換」が勝手に行なわれている。

 露軍の半長靴に大きな問題があるらしい。「コールド&ウェット」環境から足を守れないのだ。それで露兵たちは、ウクライナ兵の戦死者からブーツを脱がせてじぶんで使っている。写真の証拠多数あり。

 未確認情報。露軍の兵隊は、民間用の「ゴム長靴」を兵舎で支給されているのではないかという疑いがある。
※もし路上を歩くだけなら、ゴム長靴だったら完全防水だから、ウールの靴下を重ね履きして隙間に新聞紙でも詰めたら、むしろ蒸れもせず、使い物になる。わたしは若いときに真冬の鳥居峠(旧真田領)を深夜に上田駅まで歩いて実験したことがあるから間違いない。ただしゴム長は1箇所でも穴が開いたらアウトだ。北海道だと千島笹の切り株ですぐに穴が開いちまう。戦場では、小さな無数のスチール片のために、穴が開くだろう。もし穴から浸水したら、それを排水しようとせず、ひたすら歩き続けると、凍傷にはならないと聞く。

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 Tibi Puiu 記者による2022-1-30記事「How the ancient Romans built roads to last thousands of years」。
 ローマ道はなぜ長持ちなのか。
  ローマ道のネットが極大化したのは211年で、西はウラル山地、南はサハラ砂漠まで達していた。
 一部の舗装は、今日までも壊れずに、道として機能している。

 極大時の総延長は40万kmであった。そのうち8万kmは、石畳舗装がなされていた。

 この道路網のおかげで、支配圏内の物流が高速化し、辺境の治安維持のために辺境に大部隊を貼り付けておく無駄も省かれた。つまり商業的にもローマを強くし、軍事的にもローマを強くするインフラが「ローマ道」であったから、その建設と維持は、高度な戦略にして、帝国政策そのものだったわけである。

 ウルピアヌスによると、ローマ道はいくつかのタイプに分類できる。

 公道。主要幹線であり、国費で建設され、また保守された。帝国内の主要都市間をつなぐ。利用は無料ではなかった。橋、および、都市の入り口で、通行税が集められた。

 軍道。土工の作法は公道に準じていたが、その建設費用とメンテナンス費用は、軍事予算から割かれていた。それを建設した労働力は、レギオンの将兵である。町人がこの軍道を利用することは禁じられていた。

 私道。市民がカネを出して建設した道で、ほとんどが非舗装。舗装するためにはカネと技術の両方が必要だが、民間にはそんなものはなかったのである。

 ローマ道のうちでいちばん有名なのは、「アッピア街道」だ。ローマとカプアの間をつなぎ、長さは196kmある。
 もとの自然地形に頓着せずにできるだけ直線を保たせようとした。特にローマからテラキナの間の90kmの区間は、まっすぐな一本棒になっている。

 街道の総監督はケンソル(監察官)であった。それで、すべての街道には、担当したケンソルの名がついている。アッピウス・クラウディウス・カエクスという男が建設を始めさせたから、アッピア街道なのだ。

 荷物を満載した荷車は、道路の傾斜が8度以上あったら、登坂通行は不可能だ。この「8度未満」を守りつつ、なおかつ、極力一直線に道路を通そうとするからには、事前の測量が大仕事であった。
 ローマの技師は、溝を刻んだ長さ6mの物指しを用い、その溝を水が流れ下るかどうかで水平を確認していた。

 ローマ道はいっぱんに、その起点と終点から、同時に敷設工事を始め、ルートの中間点で、工事は完成した。

 昔の技師も失敗はあったらしく、発掘されたローマ道が、途中で微妙に方位角を変えているところがあったりする。その場合は、すれ違う荷車同士がつっかえぬように、曲がる前後の道幅をやや広くしていた。

 ローマ道の平均幅員は、6mである。

 1世紀の記録によると、ローマ公道は以下の多層から成っていた。
 まず、基礎の地盤。土は搗き固められ、砂かモルタルでカバーされる。

 その上に、大きい砕石の層。25~60センチ厚。

 その上に、径5センチの細かい砕石を混ぜたセメントの層。20センチ厚。

 その上に、セメント、砂、砂利を混ぜたコンクリートの基礎。30センチ厚。

 最上層は、厚さ15cmの敷石である。ただしそれは高コストなので重要都市の内部のみ。その他は大半、最上層に、細かい砂、砂利、土砂を用いた。

 ローマ近郊では、玄武岩の丸石が、最上表面に敷かれた。

 舗装面は、センターラインが少し高く、側縁部ほど低い。これによって雨水が排水側溝へすぐに流れ去り、道路上には泥が残らない。

 ローマ道の保守責任者は区間ごとに定まっていた。

 ローマ軍は、1日に25kmから50km、行軍することができた。これはローマ道のおかげで可能だった。どこかで反乱が起きたら、すぐに軍勢を差し向けられるのだ。

 辺境の砦には、平時は最小限の守備隊だけ常駐させればいい。ローマからの援軍は数週間でやってくると期待ができた。

 ローマの郵便は、馬による速達の場合、1日で80km先まで届けられた。もちろん、途中で何回も馬をとりかえてリレーするのである。

 ローマ道の脇には、点々と、巨大な路程の標識柱が植立されていた。マイルストーンである。高さは4m。重さが2トンの石だった。

 その始まりは、紀元前20年、ローマ市内に、カエサル・アングストゥスが、大理石を真鍮で装飾した起点の標柱を建てたことに始まる。それゆえ「すべての道はローマに通ず」と言われるのである。

 ローマ公道の15kmから20kmごとに、馬を取り替えられる駅が設けられていた。必然的にそこが中核となって、小さな町の機能を纏うに至った。

 公道の警備隊も巡回していた。ところどころには見張りの塔もあった。盗賊の取り締まりの他、通行税の徴収にも任じた。

 ローマ道の左右の植生は広く伐採され、良好な見通しを保つようにした。これも盗賊避けであった。

 ローマ公道の技術は、19世紀にベルギー人化学者がアスファルト舗装を実用化して北米NJ州ニューアーク市市庁舎前を舗装するまで、誰にも超えられなかった。

 ※マリウポリなど完全破壊された都市の再建にはとりあえず「クォンセット・ハウス」(WWII中のベニヤ製の米軍カマボコ兵舎を、頑丈で軽量なアーチ状の輪切りスチールパネルによって洗練したもの。重機が要らず、人力だけで組み立てられる)が大量に必要だ。最初はこれを仮設住宅としてもらい、本建築が完成したら、物置に使ってもらえばよい。移設も人力で簡単にできるから。

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 Vera Bergengruen 記者による2022-3-21記事「How Telegram Became the Digital Battlefield in the Russia-Ukraine War」。
  いまウクライナから双方の兵隊がスマホで情報をUpするプラットフォームとして「テレグラム」が大活躍している。

 もともとこのアプリを作ったのはロシア人の兄弟で、2013年のことだった。
 そして、ISやQAnonのような非主流のユーザーが、「テレグラム」を愛用してきた。

 とにかく制約がない。
 だから、プロパガンダ合戦のバーチャルな主戦場にもなる。

 ゼレンスキーの側近は「テレグラム」で選挙運動を組織化して2019の大統領選挙に勝利した。

 ※雑報。キエフ北郊の露軍兵士たちが、民間車両を奪って、てんでにベラルーシへ逃げ戻っている。スウェーデンは追加で、カールグスタフ無反動砲×5000門を援助する。ついでに、ヘルメットと防弾ヴェストも。ドイツは追加で、パンツァーファウスト3×2000個を援助する。