つまりユーロが弱ってきたということ。
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記事「Beginning of the Kurile Air War」。
WWII中に米軍機が千島列島を武装偵察した最初は、1943-7-10のこと。8機のB-24と10機のB-25による。占守島のカタオカ海軍基地がターゲット。
途中で海軍のカタリナが、アッツ島の南で4隻の日本の輸送船がキスカへ向っているのを発見した。B-24はそっちに指向された。5機のB-25はアムチトカからこれに加勢。
B-25が1隻撃沈したのは確実。
当初の10機のB-25は占守島に達した。何の迎撃もなし。しかし島は雲に覆われていた。山頂だけが見えた。32発の500ポンド爆弾を投下。高度3000mから。時刻は東京時間の5時45分。パラムシル海峡の艦船を狙ったが全弾、はずれた。占守島からは東に9kmの海面。
これが、陸上基地を発進した米軍機による最初の、日本列島への空襲であった。
B-24は雲のため爆撃をあきらめて基地に戻っている。
その日の夕刻、1機のカタリナがカシワバラ湾をレーダー爆撃している。
そのころのB-24は500ポンド爆弾を6発積んで北千島を空襲できた。
7月20日、アダック基地を発進したB-24×6機が、パラムシル島と占守島を爆撃。3機が500ポンド爆弾を艦船を狙って12発投下。他の3機は18発の500ポンド爆弾を滑走路に投弾。
滑走路は5000フィートあった。他に未成の滑走路が1本。
セメントがないため、滑走路の赤土が春に泥濘化する。そこでパラシムルの設定隊は、製材を敷き詰めた。滑走路は幅30m×長さ1000mだった。
7月20日に、帯広から隼が23機(または33機)、パラムシルの北の台飛行場に移駐してきた。洋上航法は「キ-21」(九七重爆)が先導した。
7-11の空襲では2機のB-24を落としている。何によって落としたかは不明。AAは主に船舶に据えつけてあった。
1機のB-24はエンジンが2基ダメになり、ペトロパヴロフスク郊外の湿地へ不時着した。
不時着時に胴体横の機関銃が外れて機内のクルーを薙ぎ倒した。
治療されたが助からなかった者を除き、クルーは、マガダン、ハバロフスク、ウラジオストック経由でタシケントへ9-5に空輸された。※なんでウラジオなんて通す必要がある?
第二回のパラムシル空襲は1943-8-11に決行された。
零戦の21型と32型、二式水戦、隼がお出迎えした。
戦闘機がB-24に食い付くときは、後方の7時もしくは5時の角度から行く。双尾翼が、防禦MGの射界を邪魔してくれるので。
三回目の空襲は8-12だった。
B-24×9機が夜にアダックを離陸。アッツで燃料補給。
占守の「ベットビ」湖からは「零観」(複葉・複座・単舟)が飛び立った。
第四回空襲は1943-9月11~12日だった。
8機のB-24と12機のB-25。
アプローチのコースは、まずカムチャツカ半島の海岸線まで西行し、その海岸線沿いに占守島まで南下する。
ここでエンジンのオイル漏れからオーバーヒートになり2発が停止すると、もうアッツにも戻れないので、ペトロパヴロフスクの近くに不時着する。
B-24×1機、B-25×3機が撃墜された。カムチャツカに不時着したクルーは51人。
この空襲時、「横崎二郎」中尉(2階級特進)が隼でB-24に後方から体当たりしている。
日本軍機はソ連領空まで深追いできないので、米軍機は北へ逃げればよかった。