第一次大戦中、北米大陸から欧州へ軍需品を送り出していた諸港湾では、ドイツ側の工作員が船倉に時限爆弾を仕掛けているという風聞が絶えませんでしたが、この一件にかぎれば、爆発原因についての疑いは特に持たれなかったようです。
原題は『The Halifax Catastrophe』で、発行者は「Royal Print & Litho Limited」となっています。当時のカナダは、英国とほぼ一体の国体でした。
12月上旬に発生した事件についての冊子を、多数の写真付きで同年内に出版しているらしいのはすごい。
前例のない災害の規模が、誰にとっても衝撃的でしたので、情報統制が求められがちな戦時下ではありましたけれども、真相を過不足なく世間に速報しておく必要を、関係する複数の政府が感じたからでしょう。
例によって、プロジェクト・グーテンベルグさま等、各位に謹んで御礼をもうしあげます。
図版はすべて略しました。
以下、本篇です。(抄訳です)
大爆発は、1917年12月6日(木曜日)に起きた。
現時点でこの事故を凌ぐような人災は、過去に記録されたことがない。
ハリファクス港は、ベドフォード湾にある。
その日、フランス船籍の汽船『モンブラン』の上甲板には貨物としてベンジンが、下甲板には、三千数百トンの「ニトロ・グリセリン」と「TNT」が積まれていたが、ハリファクス港になお用事があって、まさに入港せんとしていた。
もう1隻、ノルウェー船籍の『Imo』号は、湾の北部からゆっくりと遠ざかろうとしていた。その荷物は、戦場になって疲弊しているベルギーの住民を救恤するための援助品であった。 ※ノルウェー政府はWWIでは中立を保った。
2隻はゆっくりとヘッドオンで行き違おうとした。
ベドフォード湾がハリファクス港にきりかわるあたりは海面が狭くなっており、「Narrows」と呼ばれている。
そこで、ノルウェー船が、『モンブラン』に衝突してしまう。
まず、上甲板のベンジンに火災が生じた。そして数分後の「午前9時5分」、3000トンの爆薬は轟爆した。
港町のハリファクス市に、強烈な暴風が襲いかかった。「ノース・エンド」地区の、殊に2平方マイルが、燃え上がって廃墟となった。ウォーター・フロントの陸上建築物は、衝撃波と爆風で粉々になった。全市の建物が、損害を被った。割れずに無傷で残った窓は1枚もなかった。
※ところが写真を見ると、割れないで残ったガラスもあることが、容易に確認できます。特に屋根庇直下の最上部の窓列。
死者1200名。負傷者2000名が、いちどに生じた。6000名が、住む場所を失った。
被害総額は、4000万ドルと5000万ドルのあいだだろう。
せめてもの救いは、海軍と陸軍がすぐに救難活動を始めてくれたことであった。同港は、欧州の連合軍に対する後方兵站拠点の一つだったので。
合衆国はボストンから列車で医療部隊を送り込んでくれた。マサチューセッツ州が全面協力。
以下、写真に添えられた解説文。
爆発で市街上空に沸き起こった煙雲が、市の北端にたなびいている。45分間以上、この雲(キノコ雲という表現は当時は無い)はハリファックス市の全域から望み見ることができた。
瓦礫の運び出しに、無害貨車の列車が活躍している。
「Chebucto Road School」に安置されている犠牲者の確認をするために、縁者が殺到している。
「Alexander McKay School」は、あたかもフランダース戦線で砲撃の的になった家屋のように見える。
煉瓦積みの煙突は、爆風衝撃を耐えたとしても、土台ががたがたになっており、とつじょ、崩れるケースが頻発。その建物内に臨時に所在した負傷者や死者の頭上に、瓦礫が降り注いだ。
急設の軍病院にトラックで運ばれる負傷者たち。
爆心から2マイル離れていた郵便局と税関事務所も、ダメージを蒙った。
学校の地階部分で、死者の探索活動が続く。
身元が特定されぬ屍体約100の棺桶が集積されて、学校敷地での合同葬儀を待つ。
布製テントで夜を過ごす、にわかホームレスたち。 ※切妻屋根型ではなく、インディアンのTOPI様の、円錐に近い外形の、数名用の幕舎が多数。
つながれていた荷車から爆風で引きちぎられて即死している馬たち。
「ノース・ストリート駅」の列車入線部分はガレキと化し、駅舎の屋根はまるごと吹き飛んでいる。
爆心から2マイル以上離れていた新聞社のビルは残ったが窓がことごとく割れ、印刷工場にそのガラスと窓枠の破片が吹き込んだことで、大損害を受けている。
リッチモンド区では、ただ2軒のみが、残っている。
某プロテスタント教会はその墓地に、100体近い身元不明遺体の埋葬を受け入れた。
カトリック教会も同様である。
《完》