道義の軽重について

 国民がその政府に委託している第一の仕事は、国民全体の権力(=飢餓と不慮死の可能性からの遠さ)を維持・増進することです。このとき、特定の一人の国民の利害と、国の正しい仕事は、バッティングすることがあるでしょう。
 たとえばここにある社員Aがいて、戦争の役に立つとても優れたある技術を敵性隣国、たとえばシナに売らないと自分の女房を養えないという事情があったとする。Aはシナに技術を売ることで自分の権力のためになると思い込みます。そして輸出契約を結んでしまったとしましょう。Aは、これも自由貿易だ、商売の自由だと考えている。
 しかし日本国としてはAにそんなことをされたら日本国民全体の権力が減殺されてしまいます。日本とシナとでは「基本的人権」についての価値観が一致しません。シナ軍を強化することは、ひいてはA個人の安全保障のためにもなりません。だから日本国はAの行為を知ったらすぐに禁じなければならず、それは「日本国対A」の道義にも悖[もと]りません。
 当然しかしこれはシナの国益には反しますから、シナは日本国政府に文句を言ってくるかもしれない。それはシナの正義です。Aも文句を言うかもしれないが、Aは日本国籍を脱していない以上、日本国の安全を損なう行為は許されません。Aに正義はありません。
 このように、道義には軽重があり、契約(社会契約)にも軽重があります。何を最も重んずべきかは契約主体の立場によってほぼ決まるものです。
 1939年9月にドイツは、ポーランド国境でポ軍側から挑発があったとラジオで作り話の宣伝をしてから独軍を挙げてポーランド領内になだれこませ、これにかねて密約のあったソ連が東側国境から呼応して、ついにポーランドを独ソで分割占領してしまいました。ドイツのラジオ宣伝の意味は「これはパリ不戦条約で禁じられた侵略ではなく、自衛反撃ですよ」と一応の体面を取り繕おうとしたものに他なりません。
 しかし、ヒトラーのダンツィヒ割譲要求(3月)→英仏対ポーランド相互援助条約(4月)→ヒトラーの独ポ不可侵条約破棄(4月)→独ポ開戦と事態が推移しているとき、9月の事態を「ドイツの侵略」で無いと信じた英仏国民はいなかった。事実、ドイツがまずパリ不戦条約を破ったのです。
 言ったことは実行せぬと、将来の言葉による抑止も無効になってしまいますから、英仏両政府は、約束に従い、ドイツに宣戦布告しました。しかしこれは、ドイツが先にポーランドに侵略していることが前提ですので、パリ不戦条約の精神に背馳しないのです。仮りにもしもドイツのラジオの宣伝のように、ポーランド軍が先にドイツ領内に攻め込んだのであれば、英仏のポーランドへの軍事的左袒は、そもそも発動されません。したがいまして、英仏対ポの相互援助条約も、パリ不戦条約とはいささかも矛盾せぬのです。さらにまたもしこの相互援助条約が結ばれていなかったとしましても、英仏は「侵略者」と認定されたドイツに、後から経済制裁を加えたり宣戦布告することは全く合法で、パリ不戦条約も国際連盟もそれを禁じてはおりません。
 ここで日本人がつまづきますのは、では英仏はどうしてポーランド分割の共犯者であるソ連にもすぐ宣戦布告をせず、それどころか後では同盟を結んでいるのか、との道義問題かもしれません。
 パリ不戦条約および戦間期の国際連盟は、侵略者を第三国が直ちにこぞって懲罰し原状に強制的に戻させるというようなスキームではありませんでした。特に当時の大国がパリ不戦条約を破った場合、これを止めさせるには、他の大国の連合による、あらたな世界戦争の覚悟が必要だったのです。
 米国は戦間期にも南米諸国へ何度も軍隊を送り込み、パリ不戦条約の精神には明白に違反をしておりましたけれども、だからといって英仏が米国と戦争をしてまで南米諸国の主権を護持してやる価値は、南米諸国政府には無かったでしょう。同じことがフィンランドやバルト三国政府についても該当しました。フィンランドのケースでは、国際連盟がソ連を除名しました(11月)。しかし英仏にとってフィンランド政府とソ連政府とどちらが大事だったかといえば、ドイツと戦争中の当時としては、あきらかにソ連の方だったのです。ソ連軍を味方につければ、ドイツ軍の対仏攻勢に対抗できそうでしたから。
 ところで、ポーランド分割の直前には、第二次ノモンハン事件が起きています。これはスターリンには、絶対に勝ち負けを譲ることのできない紛争でした。というのは、スターリンはポーランド分割後の、独ソ両大国の直接対峙の後に起こることについて、当然の心配をしていたからです。スターリンは英仏との軍事同盟を切望していました。
 つまりこのとき、関東軍は「日本軍がシナ大陸へもっと討って出ても、ソ連はチョッカイなど出してこない。ソ連に対する北の防備は万全じゃから。ホレ、それを証明しちゃる」と内地の省部の方を向いて「威力偵察」をやっていたつもりだったのですが、モスクワは、あくまで英仏2政府の方を向いていた。
 そして、「英仏のみなさん、見ていてください。ソ連軍はモンゴルのあんな不利な辺地でも日本軍の最強部隊に完勝できます。ですからわが国を味方にすればきっとお得ですよ。ドイツを共通の敵にしてもいいですからね(だから多少の領土拡張や領民虐殺にも目をつぶってくださいね)」と訴えていたんです。
 もしソ連軍がノモンハンで負けたと海外に報道されたら、英仏政府は「ソ連を反独の同盟者としてたのんでも無駄だな」と思ってしまいます。「もともとあんな外道の国に援助を送る必要はない。将来ドイツと勝手に戦争をやって共倒れになってくれたら万々歳だ」と思うだけだったでしょう。
 だからスターリンは必死でした。遊び半分に手を出してきた関東軍には圧勝しておく必要があったのです。「ソ連が日本の出先軍に負けた。赤軍はまだ粛清で弱体化したままのようだ」と宣伝されてしまったら、それでソ連は英仏から見放され、ヒトラーと単独で対峙しなければならず、それはスターリンにとってソ連の終わりを意味したんです。
 日ソ両軍のこの「本気度」の違いが、弾薬の集積量の違いになりました。極東ソ連軍にとって、あれだけの弾薬と水と燃料を集めて、鉄道の通じていないモンゴルの前線まではるばる運搬するのは、容易なことではなかったんです。弾薬と燃料は、それこそシベリアじゅうから掻き集めてきたのです。
 こうして強さを証明できた国には、正義があとからついてくることが、国際社会ではよくあります。逆に言うと、一国の政府は、正義において自国とバッティングする隣国に、強さを証明させてはいけない。
 さいきん、シナ軍や朝鮮人のために異常な便宜を図ったり、米国から言われるままにMDに大金を拠出し核武装をあきらめることが、国民の負託をすっかり裏切る社会契約違反であるとも分からぬ、そんな道義の軽重を覚れぬ高級官僚ばかり増えておりますのは、日本の近代がまだ発展途上である証左でしょう。