1915年のインド兵の反乱

 大川周明か誰かの戦前の著作中に、1915年にシンガポールでインド兵が叛乱を起こし、それを英国政府の要請によって日本海軍の第三艦隊が急行して鎮圧したのは、あたかも日本が英国の東洋の犬になったようではないかという短い批判が挿入されていて、わたくしはこれがずっと引っかかっていました。
 最近、急に思い立って、これに関連する資料は無いかとウェブで探したら、所在は簡単に分かるんですね。まず桑島昭という方が『大阪外国語大学学報・69・文化編』(1985-3-30)に「第一次世界大戦とアジア──シンガポールにおけるインド兵の反乱(1915)」という論文を収めておられる。その次に、軍事史論文の量産家で有名な平間洋一さんが『史学雑誌』(1991-6)上に「対華21ヶ条の要求と日英関係──シンガポール駐屯インド兵の反乱を軸として」を載せておられると知れました。
 これらの学会誌バックナンバーが函館にいて簡単に閲覧できれば良いのですが、年末で北海道教育大学の図書館も利用できないだろうし、出掛けたところでサーチ・コストの無駄になる虞れは大であると判断し、先日の上京のついでに、広尾の都立中央図書館で有り難く読んで参りました。
 で、いきなり余談なんですが、このインターネット時代に『学会誌』とか『紀要』って、どういう意味が残ってるんでしょうか? 何か工夫があっても良さそうに思います。たとえば今回拝読した平間論文には、それに6年先行する桑島論文を参照したというしるしがありません。つまり桑島さんは、論文をせっかく冊子に印刷してもらったが、それを同志の研究者にも読んでもらえてないわけです。こんな調子じゃ、日本の学問がのびのびと発展できませんよね。みなさん文部省公認の肩書きや所属研究機関名を名乗って対社会的な信用を強調されておられる以上は、アクセス容易な主要同テーマ文献に目ぐらい通し、役に立たなかったとしても「これは読んであります」と挨拶を書きのこして前に進んでいくのが「学問的誠実さ」ってやつじゃないんですか。いや、まったく自分のオリジナルの知見しか書いておりません、先行して存在する無名人のオリジナルの話にところどころ似ているのはすべて偶然です、と言い張っても許される超有名な大先生の方は別でしょうけどね。それは知らずに所論を採用された無名人にとってもたぶん嬉しいでしょう。
 さてこのご両所の論文から分かったところでは、1915年2月15日に発生したシンガポールのインド兵反乱とは概略、次のようなものだったらしいです。
 叛乱の主部隊は1914前半にシンガポールに移駐した「第五軽歩兵連隊」。これはほとんど回教インド人からなる部隊で、宗主国の英国に頤使されていたのは無論です。桑島氏によれば、WWI初めにインドには15万人の軍隊があった。それがWWI勃発後に80万のインド兵と40万のインド人軍属がインド内外に展開したんだそうです。青島作戦にも1個シーク中隊が参加してたんですね。
 ところが1914-11に英国とトルコが交戦状態に入った。これで多種多様なインド人部隊のうち、シークおよびムスリムからなる「コミュナル」編成部隊が不穏化しました。
 シークってのはパキスタンに近いところが本拠地で、イスラムの影響を強く受けた一神教徒集団です。『イングリッシュ・ペイシェント』という映画に出てきた、ターバンを巻いて髭を剃っていたインド人大尉(キャプテン)がシークという設定でしたよね。ただし、桑島論文によりますれば、当時のインド人の大尉は「スベダール」と称され、白人の「キャプテン」とは区別されていたようなのですね。この辺が英国流でしょう。
 英国にとって困ったことには、もともとシンガポールにいた部隊はすべて他方面に抽出してしまっていて、1915-2の時点では「5th歩Rn」が当地における主力守備隊であった。その主力に叛乱を起こされたので、英軍も自力では鎮圧できなかったのです。
 叛乱のきっかけは2月16日の香港転進命令だったようです。かのジェンキンズが脱走する気になったのもベトナム転進を嫌ったからでしたが、共通の心理があったんじゃないでしょうか。
 叛乱に先立つ2月14日から16日まではシナ歴の正月で休日。そして15日に弾薬を貨物列車に積み終わり、英人が午後3時から午睡をとるのを見計らった
 インド人たちには一つのあてがありました。それは、軽巡『エムデン』の捕虜など300人のドイツ人男子をシンガポールの収容所から解放して、そのドイツ軍人に叛乱の指揮をとってもらおうというものです。ちなみに後備役にもなりそうもないドイツ民間人は開戦直後にパロール(宣誓釈放)済みでした。
 このあてが外れます。解放されたドイツ軍人は叛乱インド兵とは組もうとはしなかったんですね。彼らは独自に収容所からトンネルを掘っていました。それで、自分たちだけで脱走する計画を邪魔されたと思ったんです。けっきょく十数人のドイツ捕虜が、中立オランダ領のスマトラまで逃げたそうです。
 平間論文によれば、叛乱兵は在シンガポールの英国白人男女をみさかいなく殺そうとしたので、民間人は商船に避難しました。
 16日、英国は現地の日本領事館に、民間の居留日本人からなる「義勇隊」の編成を要請し、これは実行されます。武器弾薬食糧は英軍から提供され、日本の会社支配人になっていた予備中尉が指揮をとり、市街の警備にあたりました。「からゆきさん」がらみの商売人を含む、かなり雑多な民間人集団であったようですが、英国民間人からなるやたらに無秩序な義勇隊とは異なり、終始規律正しく行動したとのことです。彼らは中央病院を襲った暴徒を撃退し、捕虜数十名を捕らえ、患者に感謝されました。
 なお、現地のすべてのインド人が叛乱したわけでもなく、英人警部の指揮するインド人巡査たちは銃剣を以て日本人の生命財産を守りました。
 当時から「物資の需給関係に於て支那人の天地」であった南洋において、シナ人たちがどう行動したかは、詳しく分からぬようです。
 17日、英国からの要請によって駆けつけてきたフランス巡洋艦『モンカルム』と日本の巡洋艦『音羽』が陸戦隊を上陸させます。日本の陸戦隊は18日には英軍とともに兵営を奪回し、なんとシンガポール島のどまんなかに日章旗をぶち立てた。18日にはロシア巡洋艦『オリヨール』、19日には巡洋艦『対馬』の陸戦隊も加わり、事態はすっかり掃蕩モードに入りました。
 ただし第三艦隊司令官の土屋光金少将は、日本がインド人から不必要な恨みを買うことがないよう、射殺ではなく、極力捕虜をとる方針を指達していました。
 平間論文によれば、戦闘で日本人が殺したインド人はいなかったが、英人は50名を射殺しました。桑島論文によれば、日本の陸戦隊はつごう22名の捕虜をとり、英軍に引き渡しました。英軍は2-23に叛乱将兵を軍法会議にかけ、2人のインド人将校を含む47人が死刑になります。うち1人が絞首刑、残り46人は銃殺ですが、なんと1890年以来の、監獄外での公開処刑であったので、回々教徒は怒ったそうです。
 1915-2-25に『音羽』と『対馬』の陸戦隊の任務は解かれました。
 この騒動以後、英人は「表面のみにても吾々に敬意を払ふやうになつた。支那人や、馬来人の態度も変わつた。総ての人種が日本人の前には道を譲つた」と土屋少将が報告しています。また平間論文によりますと、グレーに Buldozer Tactics だと評された加藤高明の強気の背景に、このシンガポール鎮圧があったろうということです。
 以下、兵頭のコメントです。この事件も、大川のようなレトリックで紹介されれば、「大アジア主義」の燃料になったわけです。しかし詳しく史実にあたってみれば、日英同盟の健全な発揮であり、且つその強化に役立っただけのできごとであったと知られる。そして昔から今までちっとも変わりばえのせぬことながら、こうした外交力の資産を、日本の役人あがりの首相も、はたまた党人である首相も、ぜんぜん活かすことができないのです。それは、誰が悪いのでしょうか?