RMAパラドックス

2004年を振り返りますと、年の後半になって、わたくしが95年に書いた核武装エッセイの内容が、ようやく世間に知られてきたらしいと気付かされた。これが、ひとつの驚きだったと申せましょうか。
 古手の慷慨家の方々に思い出して欲しいんですが、わたくしは95年に彗星の如く論壇デビューしたのではありません。80年代の大学学部生時代から月刊『自由』や『THIS IS』や『世界日報』に度々、核抑止のテーマで投稿をしておりました(本名でとは限らないことは「ファン・サイト」のインタビューで明らかにしてましたよね)。
 それら投稿文の内容は「95年エッセイ」とそんなに変わった話ではないわけです。さらに引き続きまして『戦車マガジン』時代にも、編集部内原稿として中欧核軍縮問題を何度か論じております。
 そして、これらをちゃんと読んだ人は沈黙しました(反論を寄せず)。反論できないけど持論もまげたくないっていう人々は、それらの文章の存在をスルーしました。文字通り、ひとつのレスポンドもなかったんです。
 95年の『諸君!』エッセイも、数年間は、岡田斗司夫さん以外は、誰もこれに論及した人はいなかったように思います。並み居る大先生方がほとんど沈黙をしておられた。その中に、このエッセイの記憶が早く世間から風化してなくなってくれればいい、とひたすら念じておられた方がいらっしゃったのかどうかは存じません。
 ですから、04年1月の『ニッポン核武装再論』(並木書房)すら手に取らずに、またもちろん99年の『「日本有事」って何だ?』、01年の『「新しい戦争」を日本はどう生き抜くか』、02年の『学校で教えない現代戦争学』…etc.もスルーして、04年になってとうとう無視できなくなったわたくしの95年エッセイを批判しておられる、学究的に怠惰もしくは怯懦な方々が目立つことには、いまさら格別の驚きを覚えないのです。
 信用される知識人は、軽々に人を批判しないでしょう。軽々に人を批判する方々が、まじめにその人の主著を読んでない、というのは昔から常態のことでした。それらの人々は日々、「信用力の無いこと」の自己証明を続けておられるのであります。
 さて、04年に世界が凝視したのは、「米国のイラク統治は、1945年の米軍の日本進駐のようにうまくいくわけがない」と、米国人を除いては誰もが予測したことのなりゆきについてです。
 かつて「IT革命」にもかかわらず生産性が向上しないことを「生産性パラドックス」と呼ぶ人がいました。では、RMAにもかかわらず反進駐軍のゲリラを少人数で効率的に根絶のできない、目下のイラクの状況はどのように解すべきでしょうか。
 おそらく米軍の効率的統治を非効率化するように、テロリズムの方も進化し革新されたのではないですか? たとえば「ハルツームのビンラディン・キャンプ」に実体はあったでしょうか?
 レーダーの世界で、敵に被探知を悟られないように、また、妨害を簡単に受けないように、マルチ・スペクトラムに発射側波長を分散する、あるいは波長を不規則にホップさせ続ける、という技法があります。
 イスラムのテロリストも、「拠点」を持たない営業形態に転換したんです。「目標」を敵に与えなくなった。そんな改革を成し遂げた者の名を一つ挙げるとしたら、ビンラディンでしょう。彼以後のイスラミック反米ゲリラ活動には、ストックがなくなり、フローとネットワークと全体意志だけがある。
 余談ですが、ドンキホーテの放火について、社長か誰かが「放火テロ」と言ったそうですね。放火がテロであることを、わたくしは今年、ドンキ事件のずっと前に、村松剛氏のご自宅の例を挙げ、紙媒体で書きました。「世界の貧乏人をなくせばテロもなくなる」などと語っているあきめくらの人々は自らの理性を疑うべきでしょう。
 ちなみに民主党のO代議士はかつてその著作の中で、「争いが起きるのはすべて貧困、貧しさがその根本にある。日本の役割の9割9分は、われわれがたまたま享受できた豊かさを、世界の他の諸国、つまり地球全体が少しでも安定した生活ができるように、一生懸命尽くすことです」とお書きになってましたっけ。
 次に半島です。03末にワシントン周辺から、「沖縄の海兵隊基地をグァムに移す」という噂が立ち上りました。兵頭は、これは当時の米政権がシナと取り引きをしようとしていた、その反映ではないかと疑っております。つまりシナは「北鮮の核武装は止めてみせるよ」と米国に対し安請け合いをし、「で、その代わりに何をしてくれますか?」とワシントンに迫ったんでしょう。
 この裏談合に金正日が猛然と抵抗したというのが04年であったと思います。その抵抗の結果、シナは何も出来ず、米国はすっかりシナに失望し、シナに対する評価を下げた。そして再び、あきらめかけていた日本の真の再武装に期待をかけ始めた年だったと、兵頭は思います。江沢民から胡錦濤への権力転移の背景、胡錦濤のランボーぶりの背景は、これでしょう。兎も角日本はこれについても「ラッキー!」と叫ぶべきかもしれません。
 たぶん、金正日に面子を潰された北京政権は、米国からの評価を再獲得するため、05年に北鮮に軍事的強圧をかける可能性がある。これまた日本には「ラッキー!」となるかもしれません。
 この運勢に乗じて日本は核武装できると思います。
 肝要なことは、近代人として譲れない一線を堅持することです。その一線を越えた働きかけを外国からモロに受けたとき、「事と場合によっちゃ、アメともやるぜ」というガッツも示せないヘタレが他方で露助やニー公と戦いますと言ったって、誰も信じやしません。「精神のクレディビリティ」がゼロでしょう。
 さいわい、米国人と日本人の基本的人権についての見解はほとんど一致します。しかし民主主義の恐ろしいところとして、選挙一発の偶然により、とんでもない政権が生まれ、とんでもない政策が発動されることがあるでしょう。かつて米国政権は侵略者の蒋介石に請われるまま、フライングタイガースへパイロットを供給しました。フライングタイガースは日本本土爆撃まで計画していたのです。また80年代のシナには、戦闘機用アビオニクスや長距離砲兵用のハイテク砲弾や、戦車、ヘリコプター、魚雷等の技術を売り渡そうとしました。さらにクリントン政権時代には衛星と大型ロケットの技術改善に関してコラボレイト関係をもっています。こうした事態よりももっと悪い事態が将来いつか起きないとは誰も言えないはずです。「ロシアの核弾頭はシナの核弾頭より多いから日本の主敵はロシアだ」と仰る先生がいるんですが、だったらFDRの再来みたいな大統領が将来ホワイトハウスに居付いたら、その日から主敵はアメリカ合衆国にならねばならないでしょう。
 その場合、日本はアメリカとは決して戦争しません、などとは決して宣誓しないことが、逆に米国の指導者層からは信用されることになるのです。これが分からぬのは、その人がまだ近代的自我を持ち得ていないからではないでしょうか。
 「精神のクレディビリティ」が希薄で脆弱であれば、どんな兵器で武装しようと、抑止力にも何にもなりません。
 さいわい、95年当時やそれ以前とは違って、これがすぐ分かる日本人も増えてきたと感じます。日本国の運勢は好転しています。