遺族年金と遺族票と国民国家

 小泉総理大臣はシナに配慮して2005年元旦の靖国参拝を欠かしました。
 靖国神社は、維新前後は長州藩の団結の霊場であり、日清戦争前後は国民国家が攘夷の勝利を祈る場となったのでしたが、日露戦争後から陸海軍の私物宣伝施設のようになり、敗戦後は近代日本懺悔の場に変質させられつつあります。
 わたくしは何年も前から、靖国神社は近代的寺院(哀悼の場)ではなく近代的神社(国家のための個人の死を誓う場)であること、日清・日露戦争中に果たしていたその「場」の意義を重視すべきであり、敗戦記念日でしかない8月15日の靖国参拝は近代自由主義国民精神として大間違いであることを数度、力説して参りました。むしろ首相は元旦にこそ参拝するのが最も正しいのであると、複数の雑誌で主張したのです。
 そして以前、小泉総理はまさにそれを実行してくれました。
 あの調子のままであったなら、去年のようにシナになめられることはなくなっていたはずですが、なぜか小泉氏はここ一、二年、フラフラしているのです。
 ところでわたくしが、古来の日本の政治権力と社寺の関係、そして靖国問題を最も長々と論じておりますのは、『武道通信』vol.19 に掲載した「武士道と宗教と靖国」という一文です。この号は2002年10月の刊行(通信販売開始)でした。そしてそれ以後、わたくしはあまり紙媒体上でこれに関連しての発言の機会がありません。本人はもう「靖国問題は語りつくした」と思っているわけです。
 しかしながら『武道通信』は何を書きましても残念なことにほとんど日本国民の目に触れることがない媒体ですので、プロの評論家の方々も含め、大半の人は、兵頭二十八の社寺論も靖国論もご存知ないのだろうと思います。
 そこで、この機会に、ごく簡略に語り直してみようと思います。なお、このお話の参考資料や、いろいろな「出典」等に興味のある方は、『武道通信』十九の巻をご覧になれば判明しましょう。
 お守りで有名な成田山「新勝寺」は、平将門の乱を平定したことを記念して造営された寺院で、したがって「神田明神」とは仇関係にあることは興味深いと思います。日本では神社もお寺も、特定の政治勢力の政治的=軍事的勝利を祈願する「場」でした。
 源頼朝が登場しますまでは、朝廷=国家でしたから、天皇および天皇派の貴族が祈る寺社が、国家勝利を祈願する場でした。
 そこに源将軍が登場します。源頼朝は天台宗の法華経の信者で、観音像と念珠を帯びて石橋山に出陣しました。そして幕府を開くや、それまでは天皇の仕事であった「鎮護国家」「敗死者の怨霊しずめ」の場の面倒を、幕府もまた対抗的に全面的に見るという先例が開かれたのです。さらに「味方の戦死者の遺族の慰め」にも大名は関心を払いました。
 南北朝時代の安国寺や利生塔、室町時代の相国寺は、不特定多数の戦死者を弔うことにより、「将軍家が日本の政治を担当して日本国の平和を実現する」との意志を広宣したものでしょう。
 幕末から明治末にかけ、攘夷と開国のどちらにも対応できる宗教として神道が注目されます。「廃仏」はすなわち倒幕運動でした。そして坊主がそれにほとんど抵抗しなかったことは、江戸時代の宗教がいかに世俗化し堕落していたかの証左です。
 明治神道は、近代天皇制の普及にも都合がよく、さらに未曾有の対外国戦争に全国民を団結させるためにも便利でした。
 東京招魂社の大祭日は、当初は勅祭日といい、伏見で戊辰戦争の第一弾が放たれた旧暦1月3日、上野の彰義隊が敗走した5月15日、会津が降伏した9月23日、函館戦争が終った5月18日と決められていました。明治2年の神祇官は、この1月3日を「御一新の基」をさだめた大祭日として特に勅使を立てるのがふさわしかろうと提言していますが、政府は年に1回では不満だったようで、同意しなかった。わたくしには、そこから靖国神社の意義上の混乱が始まったように思われます。
 明治6年2月に、太陰暦から太陽暦への切り換えがあります。このときどうやら例祭日の計算ミスをしたらしく、年内に再び「推歩改定」といって5〜12日の日程の小修正が発表されています。すなわち新暦カレンダー上では1月31日になるとしていた鳥羽伏見開戦記念日は1月27日に。6月9日としていた上野戦争勝利記念日は7月4日に。11月12日としていた会津降伏記念日(政府はこの日のみ例大祭として勅使を仰ぐことに)は11月6日に、それぞれ直されました。
 じつは、会津降伏の旧暦9月22日がちょうど明治帝の誕生日に一致していたため、神社では当初遠慮をして9月21日に例祭日をずらしたのですけれども、後に政府からの指示で旧暦9月23日にずらし直されていました。また、旧暦5月18日であった函館降伏記念祭は、明治5年の政府の達で、旧暦5月15日の彰義隊敗走の日に合併されてもいました。
 想像しますに、こういった経緯の複雑さのため、太陽暦変換するときに、いったい旧暦の何日を基準に計算するのかに関係者の間で思い違いが生じ、その計算違いが、3つの例祭日すべてに及んだのかもしれません。
 明治10年12月、大祭日がまたひとつ加わりました。西南役平定を記念する9月24日です。
 しかしこのようにして固有の戦役と大祭日を結び付けて増加していけば、おのずと1回ごとの行事はおろそかとなり、趣旨的にも混乱を呼ぶことになると予測されたため、明治12年に「東京招魂社」が靖国神社と改名されるのに合わせて、大祭は11月6日を重んじて、その他は大祭としては廃止し、さりながら、1年1回では物足りないので、ちょうど半年ずらした5月6日を新設し、年2回に整理したのです。
 ここには仏寺の「お彼岸」の発想があり、特に現行の例大祭はまるっきりそうです。わたくしは現行の例大祭は尊重しません。
 明治45年12月に、この大祭日がまたもや変更されました。ポーツマス講和の後に行なわれた、海軍凱旋観艦式(10月23日)と、陸軍凱旋観兵式(4月30日)を記念することになったのです。この決めごとが、昭和の終戦まで続きます。なお日露戦争を境に、戦死者は「英霊」と呼ばれます。
 幕末からのロシアの巨大な脅威を、武士ではなかった国民が将士となって退けた日露戦争は、「攘夷」のビッグイベントであることは疑いもありません。ですが、日本という国民国家には、未来にも大苦戦や大勝利があります。
 そう考えますれば、特定の戦役の勝利を記念した大祭日を当座に定めてしまったのは不見識でした。どうも靖国神社は、明治45年を以て、国民国家の神社から、帝国陸海軍の私物の神社に逆戻りしてしまったように、わたくしには疑われるのです。国家指導者層、特に官僚出身者の歴史観が浅薄になったのでしょう。
 わたくしには、靖国神社の大祭として永遠にふさわしくあり続けるのは、伏見開戦の日か、さもなくば正月元日だけだと思えます。
 さて、戦前は、靖国神社の「例大祭」と「臨時大祭」は、旗日でした。
 臨時大祭は、合祀の儀式です。合祀を正式にせぬ限り、戦死者の霊は遺骨のある菩提寺の墓地に居るばかりで分霊されたことにならず、招魂社(靖国神社)には顔は出せない状態に置かれている。
 明治12年に朝野に信じられたことは「もう内戦はあり得ない」でした。そこで東京招魂社は靖国神社と名が変わり、同時に「維新政府の装置」から「日本国の装置」になった。
 大正4年の第39回合祀以降は、青島戦に続きシベリア出兵が長引いたせいか、毎年4月の例大祭直前に必ず臨時大祭を行なうようになる。さらに第53回(昭和13年)合祀より以後は、4月と10月の毎年2度に増えます。これはシナ事変が泥沼化したのに対応していました。
 とはいえ戦前・戦中の合祀はあくまで招魂であって「慰霊」の意味合いは薄かったのです。昭和12年11月18日に、シナ事変に関する最初の戦没者慰霊祭が政府によって行なわれましたが、それは靖国神社が中心のイベントではありませんでした。
 靖国神社の戦後の性格をすっかりゆがめてしまったのは、軍人恩給問題です。
 1945年のGHQ覚書にもとづき、日本政府は46年、軍人恩給を停止しました。
 軍人恩給とは、旧軍人が俸給から1%づつを積み立てていた年金で、ある年数以上勤務した軍人は、退職時月給の1/3が、月々支給されたのです。
 この軍人恩給は、戦死した場合には遺族年金になりました。たとえば2等兵で戦死して、死後2階級特進して上等兵になった場合であれば、1等兵の月給を基準に、遺族に年金が支給されたのです。
 GHQは、さすがに傷夷軍人手当だけは残したのですが、この遺族年金と、退役軍人本人の年金を、軍国主義の温床であったとして、理不尽にも打ち切らせたのです。当然、多くの人が、たちまち家計に窮しました。
 ここから、現在まで続いている「8・15と靖国の一致的強調」が始まるのです。
 ポツダム宣言、無条件降伏、東京裁判、およびマッカーサー憲法に日本国民が誰も異議を唱えないとすれば、日本近代の戦死者は全員、悪人になります(本当は、シナとソ連に関しては、向こうから侵略してきたものですから、名誉ある国民としてポツダム宣言を受け入れることなどできないのですが、国体護持を最優先したのです)。
 さすれば、新憲法下の政府には、遺族年金も恩給も支払う筋はない。しかし、一家の稼ぎ手を失った遺族と、老齢の元軍人は、戦後の食糧難とインフレの混乱期を、それでは生きていけませんから、やむなく彼等は「自分達は戦前政府の犠牲者だ」というポーズをとり、軍人恩給の復活運動を進める外になかったんです。
 靖国神社では、昭和47年くらいまでは社頭での8・15の仰々しいイベントには抵抗した痕がある。しかし日本遺族会や旧帝国在郷軍人会/戦友会の何百万もの票をあてにした政治家のマスコミ・パフォーマンスのせいで、次第に靖国と8・15とは大衆の意識上に重ねられます。
 国民の団結と国家の勝利を祈念し士気を高揚させる場だったものが、あたかも国家の「歴史反省」の場のようになっていったんです。小泉首相も靖国に絡めてシナ人に対して反省的な言辞を弄していますが、とんでもない暴言でしょう。官僚も党人も、あまりに歴史に無知なのです。
 日本遺族会の規約には「本連盟は、……平和日本の建設に邁進すると共に、戦争の防止と、世界恒久の平和の確立を期し、以て全人類の福祉に貢献することを目的とする」と謳われています。マック憲法の枠組み内で「犠牲者」「被害者」のスタンスをとってるんですね。おそろしくもあわれなことです。
 昭和25年の参院選全国区で、遺族会は大票田ぶりを誇示しました。が、占領下であるため思うような恩給復活の法律はなかなかできなかった。
 そこで昭和26年2月には、皇居に近い一ツ橋の共立講堂で「第1回全国遺族代表者大会」を開くなどしてアピールを重ねた結果、やっと昭和27年に、遺族年金などを支給する通称“遺族援護法”が成立し、軍人恩給は7年ぶりに部分復活しました(金額が少ないため、すぐに増額運動も始まります)。しかしいくら占領下とはいえこの7年間の政府の無為は、国民感情を致命的に不健全化したのです。
 たとえば、政府主催の全国戦没者追悼式は、昭和27年5月に新宿御苑にて両陛下の御親臨を仰いだのが戦後初でしたが、遺族会は、そうしたイベントを靖国神社で開催するように希望しました(じっさい第2回の全国戦没者遺族大会は、渋る神社側を押し切って境内の大村銅像下で行なっています)。「靖国」「8・15」をマスコミを通じて国民に想起させることが、遺族への世論の同情を集め、恩給の増額や確実な生涯保障を要求する政治圧力を高める上でいちばん効果的だと学んだからです。
 昭和31年、遺族会は次のように要求しました。──靖国神社は「国事に殉じた人々」の「みたま」を祭神とし、「その遺徳を顕彰し慰霊するものであること」と。
 おそらく、昭和34年に完成予定の千鳥ガ淵墓苑(ここには無名戦没者の骨がある)を意識しているのでしょうが、このあたりから、本来、国民国家の神社であるものを、遺族が私物化しようとする意図が露骨化していきます。
 遺族会と利益を共にする「日本戦友団体連合会」(のち日本郷友連盟)も、昭和30年8月14日に、終戦時の自決烈士の顕彰慰霊祭を、また昭和31年8月14日には、殉国諸霊顕彰慰霊祭を、昭和32年8月15日には大東亞戦争殉国英霊顕彰慰霊祭を、それぞれ靖国神社内に執り行ない、昭和33年8月15日には同慰霊祭を九段会館で実施しています。(その前には、昭和27年8月16日に陸軍の終戦時自決者の慰霊祭が、また30年8月14日に陸海軍の終戦時自決者の慰霊祭が靖国神社で行なわれましたが、これは命日にちなんでの関係者だけのもの。)
 こうした運動にあおられる形で、遂に政府の全国戦没者追悼式も、昭和38年からは、日比谷公会堂や、靖国神社のすぐ隣りの武道館で、8月15日に開くことが恒例化していきました。
 けれども1975年に、遺族年金の根拠を磐石にする“靖国神社法案”が最終的に断念されたのは、軍人と遺族への国家の援護はもう十分な水準を回復したと国会議員の大方が判断したからでしょう。
 にもかかわらず遺族会とその票を頼む代議士が「8・15公式参拝」に力点を置きかえて運動を続けたのは、いったん獲得した政治家への影響力を保とうと図ったからです。三木、福田、鈴木と歴代総理はこれに乗りますが、中共が中曾根総理にそれを中止させるという「外交上の大勝利」を上げたことから、今日まで続く不毛な論争を生じています。
 日清戦争中、靖国神社では、月毎に「戦勝祈願祭」を催行していました。これが本来の靖国神社の存在意義であると兵頭は確信します。対米開戦直後の歌『進め一億火の玉だ』の二番の詞:「靖国神社のおん前に/柏手打ってぬかづけば/父子兄弟夫らが/今だ頼むと声がする」──これが靖国神社の存在意義のすべてです。