強者に対する卑屈さ

 あまり関心がなかった山下奉文将軍の伝記を、福田和也氏の新刊で読んだ。
 以下雑感。
 高知県の杉村の大杉とは、拙著『日本の高塔』p.87に紹介した長岡郡大豊町のものと同一のものだろう。あれを調べた99年当時、高さ68m、さしわたし7mで日本一の杉だったが、これが山下将軍とゆかりがあったとは知らなんだ。
 山下のキャリアで最も興味深いのは2.26関連ではなくて、1940年7月から航空総監となり、同年12月にドイツに調査に行って、何を感じてきたかだ。
 シナ事変での海軍航空の万能ぶりをその目で見ているはずの山下は、「海軍主導の統一日本空軍」を是としていたのだろうか? それともあくまでドイツ流に、陸軍の補助兵科としての対地直協空軍しか考えていなかったか。そこが知りたい。
 これは防研に生史料も多いはずで、しかも兵頭が『日本海軍の爆弾』や『パールハーバーの真実』を書いていた頃には防研の所員が頻繁に読んでいる痕跡があったから、きっと防研の中の若手研究家が決定版を出してくれるに違いないと思って長年待っていたが、一向にそれが出てこない。
 海軍もこの調査団にはつきあった。それは陸軍主導の空軍構想を邪魔するためであったと思える。その抵抗はあっさりと成功し、WWIIを通じて陸海競合で、あまたの駄作機が研究され量産され、戦争資源がムダ使いされた。
 後智恵では、2式戦があれば雷電は要らず、疾風があれば紫電改は要らぬ。同様、海軍の艦爆があれば陸軍の軽爆など無用で、海軍の陸攻と陸軍の双発重爆も機種統一ができた。「統一空軍」の可能性は大きかった。
 ちなみに大西瀧次郎は、海軍主導の「空軍」構想を戦前から持っていて、シナ事変の陸戦サポートで大いにその実力を見せつけてやったものの、陸海の政治力の圧倒的な差から、最上層部に一度もまじめに検討してもらえずじまいだった。
 敗北の少し前になってようやく戦争指導部が本気になり、「軍需省」を創った。これが要するに「空軍省」のプロトタイプである。そして同省のもとに陸海の航空戦力は生産が一本化されるはず……だったのであるが、陸海軍の双頭制という明治憲法の遺制はここでも合理化努力を押しつぶし、大西は軍需省のナンバー2に甘んぜねばならず(ナンバー1は陸軍人)、終に何の見るべき成果も上がらなかったのである。
 果たして統制派ではなく皇道派の山下がどんな「空軍」を考えていたのか? 残念ながら福田氏の新著でも、それは分からぬ。
 乃木の殉死と山下の刑死を対比しようとすると、話はまとまりづらくなる。
 山下は刑死必至の情勢でなぜ自決を選べなかったのか。「出世レースをかちぬいてここまできた選民中の選民が、どうして自殺などせにゃならんのか」という主役意識であろう。エリートの陸幼組にはそれがあった。大将の次は首相が狙えたのだ。まして他の主役、たとえばライバルの東條が生きている間に、意地でも死ねたものではなかった。「東條ではなくオレに仕切らせてくれていたらこの戦争は負けなかったんだ」と口には出さなくとも陸幼出身の大将はみんな確信していた。そういう病人どもである。
 その東條は一度は位人臣をきわめていたから、満足してピストルの引き金を引けた(外れたが)。参謀総長にも陸相にもなっていない山下は、とうてい人生に未だあきたらなかったと思われる。
 欧米流の古典教養はエリートに何を与えるかというと、「世界はお前を中心に回ってないよ」という諭しである。「俺は所詮ギリシャ人を超えられないのだ」と、自己および現代世間を相対化し、限界を自覚しつつ生きることができて、はじめて世界史的な大事は成るのである。
 乃木には、日露戦争勃発の段階で、死に所は「大将」「軍司令官」ぐらいしか無いと読めていた。生きながら得ても首相はおろか、陸相にも絶対になれないのだと読めていた。それが彼を、天皇だけ見つめる「忠臣」にした。安藤大尉も年は若いがこの境地であった。
 本書で面白かったエピソードの一つは、徴用員としてシンガポールにいた井伏鱒二が、山下に「欠礼」をやらかして、「…無礼者。のそのそして、その態度は何だ」等とさんざん怒鳴られ叱られた、とのくだりだ。
 「のそのそ」というところが要マークである。のそのそしている奴を、軍隊では誰も同情しない。この感覚は、創設当時のフォードやクライスラーの工場ラインでも職工同士に共有されていた。なかなか現代のヒキコモリどもには説明をしても伝わらないところである。
 もうひとつは、敗戦後に収容所で日本兵捕虜が英軍将校から虐められたという話だ。あらためてこんな話を読めば、二度の大戦でのドイツ兵捕虜との違いを、厭でも考えずにいられなくなる。
 マッカーサーが東京市民をつくづくうちながめ、「日本人は勝者におもねる12歳のこども」と評したように、日本兵捕虜たちも勝者に対しては卑屈であった。それが、収容所の看守としてその卑屈さにつきあわねばならなかった英人の側にサディズムを誘発したのである。
 これをむずかしい言葉で説明すれば、日本人に「近代的自我」が無かったからである。
 小林源文氏がさいきん劇画を描いているのかどうか知らないのだが、彼には「近代的自我」があった。彼の劇画のインパクトはそこから来たものだ。これは、ナチ物でない世界を扱った作品で、より明瞭に確かめられると信ずる。
 豪州映画の『マッド・マックス』に日本のマンガ家がインパクトを受けたのも、じゃっかん20歳そこそこのメル・ギブソンの「近代的自我」に触れたからである。
 欧米人は近代的自我を有しているから、これらを見て特にショックを受けたり、作品世界を模倣しようとも思わない。
 これらにショックを受けて模倣しようとする日本人アーティストに近代的自我がない場合は、やはりその模倣はオリジナルに迫るインパクトを与えることができないのである。
 将軍山下は交換可能な将棋の駒にすぎず、シンガポール陥落が世界史的な大事件だったとしても、それを成し遂げたのは山下のキャラクターとはほとんど因果関係が無かったであろう。