摘録とメモ──『沢木耕太郎ノンフィクション VII  1960』04-6

 著者は学部は経済系だがスポーツノンフィクションがキャリアの芯にある。20代で渡米経験。70年代末の、三人称で「シーン」を提示する米式ニュージャーナリズムを摂取した。
 本書は「危機の宰相」と「テロルの決算」の合冊で、ともに大幅加筆されている。前篇は1977-7の文藝春秋本誌に掲載されて以降、これまで単行本になったことがない。
 1960年モノの第三弾としては、全学連元委員長の唐牛健太郎について書こうと構想されていたが、どうやら作品にはならぬらしい。「未完の六月」というタイトルだけ決まっていた。6月とは安保条約が自然承認された1960-6を指す。
 1945年の流行語は「一億総懺悔」。47は不逞の輩。48は斜陽。50はレッド・パージ、51は逆コース、53は家庭の事情、55はノイローゼ、57はよろめき、59はカミナリ族。そして60年代は「アンポ」に明け、バイゾーに暮れた。
 1950年代の政経のテーマは「復興」。60年代は「成長」だ。
 戦争に頼らずにほぼ完全雇用が実現したのが池田時代。
 佐藤栄作の「安定成長」も、池田の「所得倍増」の末葉である。
 池田勇人は吉田学校である。福田赳夫は岸信介と行動を共にする道を選んでいる。岸は反吉田であった。だから池田と福田赳夫は敵対関係である。
 福田は池田より4年後輩だが昭電疑獄で逮捕され、無罪になったものの次官の椅子を逃し、政界に転じた。
 池田の派閥後継者が大平である。大平と福田をくっつけたのは、ブンヤから池田の秘書になった伊藤昌哉。同じく池田の秘書の田中六助も元新聞記者。※米国のように政治家のスターティングキャリアとしての弁護士は一般的でなく、しかも途中腰掛職としてのシンクタンクや大学ポストもない日本では、番記者から大臣秘書を経て国会議員というパターンが、官僚スピンアウトと並ぶ成りあがりコースなのか。
 大平は高松高商時代にクリスチャンになった。※だから大平は首相時代に靖国に参拝していないのか。
 財界浪人・矢次一夫は、岸のラインにつながる韓国・台湾ロビイストだった。
 池田の経済ブレーンの下村治には『経済大国日本の選択』という大著がある。本編の主人公で1989に没。
 下村が生まれた明治の佐賀には「尽忠報国」の気風が強かった。金儲け否定である。
 下村に「自分語り」の文章がほとんどないのは、下村が佐賀の『葉隠』士族のダンディズムを受け継いでいるからだ。p.51
 下村はシナ事変中の大蔵省で、理財局金融課長の迫水久常の下、会社活動統制の諸法令をつくった。配当、資金、設備投資、賃金、経理のすべてに網をかぶせた。
 満州事変以前の大学では、マルクスの言う「剰余価値」の源泉はなにも労働だけではないだろうと論じ、投稿。当時は「生産性」という概念が経済学にまだ無かった。
 とにかく現行の経済学はまるで役に立たないと理解して、昭和9年に入省。大蔵官僚としてケインズを独習。加うるに、ハロッドとアレン。昭和27年に経済危機が去るまで、不十分な統計をもとに、インフレなき立ち直りの方法を、待ったなしで模索し続けた。そして肺病で3年、職務を離れている。
 本人が本当に読んだと言うのは5冊。ケインズ『貨幣論』『一般理論』、ハロッドの『動態経済学序説』、ジョーン・ロビンソン『不完全競争の経済学』、エドワード・チェンバリン『独占的競争の理論』。加えておそらくマルクス『資本論』、シュンペーター『経済発展の理論』。
 明治維新から1945まで日本の年平均成長率は4.5%だった。他国に比べればはるかに高率。そして1945から1955にかけては9%であった。これがさらに維持できるとは思わなかったのが普通のエコノミスト。
 ベビーブーマーが中学卒業するのは1963だから、政府はそこから先の完全雇用を図れなければ、暴動もありえた。
 ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』の中核をなすものは、「有効需要の原理」と「流動性選好の理論」。
 完全雇用が達成できるかどうかは有効需要の大きさによる。したがって失業をなくしたければ、有効需要を創出しろという。
 ところが昭和25年時点でも池田らの世代は「消費は悪、節約・貯蓄こそ美徳」としか思ってなかった。国内の消費を増大させることが完全雇用につながると理解できる者は稀少であった。
 またケインズは、投資家が幅をきかす英国ならではの着想で、利子とは、流動性を放棄することについての対価であると。
 さらにケインズは、一の投資が短期的に一以上の需要を誘発する「投資の乗数効果」を指摘。しかし、投資が生産能力を増加させる長期の「生産力効果」までは思い至らず。
 ハロッドとドーマーがこの穴を埋めた。彼らはさらに、投資による生産力増大を吸収するだけの「需要」が必要であること、それには経済が「成長」していなくてはならぬことを明らかにした。
 下村は、その投資をさらに二種類に分けた。ひとつは、超過利潤の存在を嗅ぎ付けて機会主義的に便乗せんとする投資。もうひとつは、企業家の創造的な発意による投資で、この後者こそが経済の長期的な発展の動力であると見た。前者は景気変動の主因である。
 またさらに下村は、道路や住宅や病院といった固定資本への投資は、翌年の国民総生産をそんなに増すと決まってはいない。数ある投資の中でも、主として民間の製造業の設備投資が、産業を高度化して経済の成長をもたらすと結論づけした。民間設備投資額が多いほど、経済の成長率は高くなる。
 これが当たっているとすれば、ハロッドやドーマーの数式以上に日本経済は飛躍するはずだ。なぜなら日本では1955年から民間に設備投資意欲が漲っているから。また日本の投資は貯蓄率によって制約されていない。民間設備投資は賢明な企業家が決心しており、日本の労働者には最新の生産設備を使いこなす能力もある。
 下村の文章は時論的であり独創的だが修飾が無く、実証的。そして非妥協的な立論態度で予言を的中させていった。下村いわく、面白い話にはどこか飛躍が必要である。しかし自分は順を追わないと話はできない。また役所のペーパーは、何をするのか、なぜそうするのか、そうすればどうなるのかを簡潔に書かねばならないのだと。
 下村は、経済企画庁のエース・大来佐武郎や、米国ニューレフト仕込の学者・都留重人ら著名理論家と筆鋒するどく論争する。多くのエコノミストは、日本はまだ復興期で総需要抑制が必要だと言っているなか、下村だけが55年を境に勃興期に入ったとし、供給力に需要を追いつかせればよいと主張。
 結局下村が正しかったわけだから、当時の大物たちの下村批難は、後からの下村賛辞と等価だ。
 所得倍増は不可能だ、と言っていた口舌の徒は、自らを批判することなく、こんどは高度成長の「ひずみ」論に軸を変え、相変わらず日本国民に対して無責任に生きた。都留のように「永遠の正論」に身を寄せて現実を批判する安逸を下村は選ばず。
 1960に下村いわく、計画は、計画以外の可能性を否定しがちである。常に成長率が一定であるべきだと考える役人どもの発想は日本人の経済活動をダメにすると。福田赳夫はこの役人どもに賛成の人。同じ宏池会の大平、宮沢も、高度成長論には否定的だった。それはかれらが所詮は官僚だったから。池田は偶然に大蔵事務次官になったようなもので、考え方は役人の型通りではない。
 下村は、政府の役人が経済成長を統制して決定するのではなく、政府は成長を「予測」すればいいんだという構え。
 下村いわく、マルクスの考える資本主義とは、人口の増加率と比べてみると成長が無いに等しい、Goldの存在量が制約する資本主義で、リアルじゃないと。
 後進国市場にモノを売るしか能の無い日本が自由化すれば米国商品に席捲されるだけ、つまり自由化は第二の黒船だ、と考えていた者が多かった1950年代末に下村いわく、自由化とは国際的にも国内的にも、非効率産業を再編成して高能率産業に資源を集中することである。経済成長の意味はまさに自由化であり、自由化なき経済成長こそいびつだと。
 1971に下村いわく、経済の成長は生産性の向上による。生産性の向上は技術革新による。日本と欧米の技術格差が大きく、石油価格も安定していたがゆえに、これまでは高度成長は容易だった、と。
 池田は大蔵キャリアの途中で難病の皮膚病に罹り、5年間寝たきりとなり、妻は看病疲れで死ぬ。治る前に札所をまわり、一生嘘をつかないと願をかけた。
 前尾繁三郎も病気で、大蔵省の三等の赤切符組。やがて形影相伴う人生を歩むことに。
 林房雄の『随筆池田勇人』によれば、もし戦争に負けたら、地下に潜ってゲリラになろうと、昭和20年に前尾と話し合っていたと。つまり彼らのレベルの大蔵官僚は8.15まで敗戦情報を知らず、その点では庶民と同じだった。
 前尾いわく「強制によって計画的に事をはこべば最も能率的であるかのように錯覚する」のは「本末転倒で、逆に非能率」。だが、それが「真の政治とまちがえられている」と。
 「直税部長」には酒の配給権があり、また遺産相続の税金相談を受けることがあり、選挙出馬の下準備をするには好都合であった。
 S24初当選で、第三次吉田内閣の大蔵大臣になる。※元鉄道官僚の佐藤もそうだが昔の高級役人は破格の待遇で政権に迎えられている。
 すぐにドッジ・ラインを履行。補助金、補給金を打ち切って均衡予算を達成。これは国民から見れば耐乏予算。救ったのは翌年の朝鮮戦争。
 池田内閣時代に「金鵄勲章年金」「国防省昇格」などの右派の法案要求が自民党内にあったが、池田は斥けた。※池田の軍隊嫌いと安保音痴は別に論じなければならない。
 大蔵省出身の池田は身内にカネをごまかされるのをとても嫌がる。大蔵キャリアは税務署からスタートするので自然、カネにうるさいわけ。
 宏池会(池田の後援団体)のカネを管理したのが田村敏雄。しかし田村は気分上は首相池田と対等であり続けたので宏池会内部で浮いてしまった。田村は下村より早く死ぬ。田村は池田の弔辞では「両腕」にたとえられていた。それが機関誌に印刷されたときに「片腕」に直されたのは派閥内の某小者の策動。
 池田は自分では文章を書かず、田村などがすべて代筆していた。下村のリアル理論をロマンティスト田村が通訳することで政治家池田は理解した。
 田村は大蔵入省後、満州国官僚になる。語学の達人だったが、昭和15年のドイツ派遣予定はWWIIでキャンセルとなる。夢は、満州を、病院、刑務所、兵営の必要がない天国にすること。だが敗戦で文民なのにシベリアに抑留、その間に妻の死。さらに帰国後は公職追放。なんとか大蔵省の外郭団体に。やがて池田を総理にすることでかつての理念を実現しようと考える。
 戦前、田村が若いころ、大学で経済学の名に値するのはマルクスだけであった。田村もドイツ語原書でそれに通暁。
 1963に田村は、実験できない社会科学をソ連がやってくれて、社会主義は不平等を解消しないことを立証してくれたと書く。
 田村もまた口舌の徒・都留重人を攻撃していわく、現代において均しからざるを解消しようとすれば、それは経済の成長しかないのだ。金持ちの所得をすべて奪って分配しても国民一人あたり数百円にしかならぬ、と。
 池田内閣時代は、田村は、池本喜三夫の日本農業革命論に傾倒した。すなわち、1町分区画に農地を整理し、30馬力以上のトラクターで三倍深耕すれば、日本の全農地面積が倍増したのと同じことになる。かつ、畜産との混合農業にすれば、化学肥料は買わずに済む。結果、農産物価格は半値になり、農民の一人当たり所得は7倍になる、というもの。
 昭和33年の旧一万円札は、戦前の猪の図柄の「十円札」より手の届かない感覚であった。
 宮沢喜一いわく、子供のころにジョン・スチュアート・ミルを読まされた。そこには、トレランス=寛容という言葉がよく出てくる、と。
 司馬遷は呉起をすぐれた能力は持っているものの人の信頼を得にくい人物として、また田文を自分が特別な能力をもっていないことをよく知っている人物として描いている。
 ※前篇についてのコメント。地味な文献調査に労力を注いでいること、短時間で読ませる文章にまとめていること、これをなしとげてしまった年齢、いずれも脱帽の他はありません。
 後編。
 赤尾敏はもともと左翼運動から入ったが、大正末に獄中でイタリアのファシズムに感心して国家主義に回心。反東條なので、翼賛政治会からは、中野正剛、鳩山一郎らとともに除名された。それでも戦後はS26まで追放されていた。
 昭和27年の講和は、タブーであった右翼活動を公然化させた。※旧軍肯定、旧軍擁護を出版物で堂々と語れるようになったのがS27である。ナチス・グッズもその流れ。
 この頃、ナチスのアイテムは少しもタブー視されず、右翼活動でその旗や類似した制服を持ち出す者が普通にいた。※ナチズムと日本の戦前軍国主義は根っから別物だという今日の常識はまだ誰にもなかった。
 周恩来は昭和30年から日本の右翼に注目。昭和32年の岸内閣の成立は、右翼団体をさらに元気づけた。34年には李承晩もやりたい放題だった。
 赤尾敏は、講和後、国会内に自由に出入りできる「前議員待遇」を停止された第一号。赤尾の愛国党本部には明治天皇とキリストの肖像が掲げられていた。教育勅語を指導原理としていた。また街宣では日章旗と星条旗をともに掲げ、反米右翼は右翼小児病だと言っていた。
 経団連は社会党にも献金を続けていた。
 明治末、三宅島に医師はゼロだった。戸籍で「庶子」となっていた浅沼稲次郎は、士官学校や兵学校の入試成績がよくても、入学は不可能だった。軍人も医者もいやなら慶応の理財に行って実業家になれと言われた。
 早稲田の雄弁会はおのずから最も先鋭な政治意識をもつ学生の集まりとなっていた。
 大正12年に、軍事教練の早稲田導入に反対して、壮士学生に殴られる。※WWIから10年経とうというのにまだ日本ではROTCが無く、シナ事変では帝大卒の勤め人が二等兵として前線に送られるわけである。民主主義後進国。
 戦前は、国会議員と地方議会議員を兼任することが許されていた。
 戦前は、東京帝大出身の法学士は無試験で弁護士になることができた。
 斎藤隆夫の反軍演説は、シナ事変は聖戦なのかと、否定的に質問したもの。それにより議員除名。※明白に自衛戦争である事情の説明が政府によってなされなかったのは何故なのか?
 浅沼が親とも仰いだ麻生久は、陸軍省新聞班の昭和9年の「陸パン」は資本主義精神を否定しているから賛成だと。日本での社会変革の担い手は、軍隊と無産階級の合体したものだと。麻生は満州事変には反対を唱えたが、シナ事変には賛成。
 大杉栄が殺されたとき、浅沼も近衛連隊のターゲットリストに載っていた。
 翼賛選挙に推薦されず、非推薦でも立候補しなかったことで、戦後の追放を免れ、戦後の社会党の大幹部に。
 終戦直後では、「社会民主党」という党名は、ドイツにおける裏切りというイメージをインテリに与えるものだった。
 戦後の浅沼は、結論が出てはじめて動く、大勢がほとんど決しかけたとき、はじめて口を開くという態度におちつく。
 党活動への精進ぶりは誰も真似ができないもので、そのストイシズムは、どこかで自己を罰したいという潜在的な欲求に支えられていた。
 昭和32年の訪中で浅沼を団長とする社会党訪中団は大歓迎を受けた。ところが34年の第二回目は冷淡だった。これはシナの作戦だったが社会党左派は分からない。浅沼は第一回目の感動を忘れられなかった。北朝鮮人の黄方秀が過激演説をすれば中共の態度は変わると示唆した。その結果、「台湾は中国の一部であり、沖縄は日本の一部であ」るが、それが「それぞれの本土から分離されているのはアメリカ帝国主義のため」であるから「アメリカ帝国主義についておたがいは共同の敵とみなして闘わなければならない」との池田の演説になった。この演説の全文が翌日の人民日報に掲載された。※つまり事前に原稿の内容が編集幹部に渡されていたと疑えよう。
 池田は共同通信の記者にも原稿のサワリを、本番三日前に見せている。それが載った毎日新聞のベタ記事に「米国は日中共同の敵」と要約されたフレーズあり。自民党幹事長の福田赳夫はそれを見逃さず、浅沼に抗議電報を打った。かくして要約フレーズが知れ渡り、社会党の過激性、卑屈性が世間に印象づけられた。※記事を発見したのは福田の秘書か誰かだろうが、それを効果的宣伝に結びつけたのは福田の手柄である。福田が8.15靖国参拝もやっていないのは三木より常識人の証拠である。しかし国債濫発とテロリスト釈放は大失政となった。
 浅沼には「支那事変は日本民族が飛躍するためのひとつの仕事」とおべんちゃらを述べた過去がある。そうした自己の軽薄さへの負い目から、第一回訪中と第二回訪中の間の、戦争中のことについての「反省」ぶりは誰より真剣であった。それをシナではしっかり評価していた。さらにまたシナ政府の要人は、そのような浅沼評価が公けにされれば「内政干渉」になるかもしれないとも理解をしていた。p.356
 羽田空港でシナの工人帽をかぶってタラップを降りてきた軽薄さがまた右翼の反発を買った。
 浅沼は、マッカーサー元帥感謝決議案に賛成の演説もやっていた。要するに庶民感覚と一緒。しかし彼には人並みのHomeはあったためしがない。庶子として育ち、結婚後も党務第一に暮らし、実子はいなかった。だから孤独であり、大勢の中に居ることを望んでいた。
 安保に倦んだ国民は池田の所得倍増論を歓迎していた。なのに浅沼は演説で安保のことをしきりに取り上げるので社会党議員も困っていた。
 山口二矢の精神的独立は中2から。父親がインテリで一喝主義のため、反抗期の見られない少年だった。
 当時の右翼の典型は、文学を軟弱と断じ、武道がすべて。
 玉川学園の小原国芳いわく、子供がいったん学校をやめると、再び学校をやり直すことはできない。
 韓国で学生が李承晩を倒したのが、日本の反岸運動を煽った。
 二矢によると、自民党では河野一郎と石橋湛山が容共派でゆるせんと。さらに暗殺候補リストに三笠宮祟仁まであり。
 一度は愛国党に属した山口は、口先ばかりで警察と狎[な]れ合っている右翼には左翼革命は止められないと絶望した。しかし彼にも、殺人の結果として係累にも迷惑が及ぶとの予想が、単独実行の抑止力として働いていた。ところが、昭和16年刊の谷口雅春著『天皇絶対論とその影響』を人から貸されて読んだところ、家族の迷惑を考えることは「私」であり、天皇を絶対唯一神として信仰するならば、無私の忠を実行せねばならないと確信する。
 さらに『明治天皇御製読本』を古書店で買い求め、決行までその本だけを読んでいた。「末とほくかかげさせてむ国のため命をすてし人のすがたは」などは暗誦していた。
 昭和35年に山口二矢が浅沼委員長を刺殺した凶器は、刃渡り1尺1寸、幅8分、鍔なし。短刀というより脇差サイズ。強盗対策として自宅に置かれていた古道具であった。
 山口は、刀剣では斬るのではなく刺さなければだめだという知識を、周囲の人から十分に仕入れていた。心臓ではなく腹でも死ぬという知識もあった。刀身が十分に長いために、武道のトレーニングを受けていない青年が、柄を腹に押し当てたままぶつかったとき、浅沼の巨躯は深く貫かれた。山口には刺したまま抉るという知識はなかったらしい。
 浅沼は第一撃で背骨前の大動脈が切断され、内出血ですぐ意識を失い、死亡。山口の第二撃は左胸を狙ったが、ごく浅手。※これは刃を縦にして腕だけで心臓を刺そうとして肋骨でブロックされたのだろう。
 偶然の重なりから、警備がガラ空きになった瞬間だった。しかし第三撃および自決は刑事が阻止した。
 主催者の意向に従い、私服警官だけを配したことが、テロ抑止力を薄めさせたと反省されている。すでに多くの政治家が刺されていたときに、ずいぶん寝惚けた警備をやっていた。
 警視庁からは、右翼の「面通し」ができる公安の警備課の刑事たちが応援に来ていたが、現場の丸の内署長の掌握下に入っていなかった。
 山口は17歳なので死刑にはならない。だが少年鑑別所(一種の診断センター)に移された最初の夜の8時前に首吊り自殺した。シーツを細長く裂いて80cmの紐に縒り、裸電球の金網カバーにひっかけて。
 党の顔で、象徴的まとめ役であった浅沼の死の直後から、イタリア共産党わたりの「構造改革」路線か、それとも極左暴力革命かという路線論争が社会党内で発生。「構革」は当初、日共内で研究が進み、一時は異端の烙印を押されたが、のちには「密教」として日共に採用される。
 ※本編も最近の初見でした。記憶では、「山口に続け」とか相変わらず言行不一致を恥じない様子のバカ右翼が80年代末まで棲息していました。しかし、青年山口はまるっきり異星人でそこらの乞食文盲とは生きる世界が違っていたことがよく分かるノンフィクションでしょう。児玉邸に軽飛行機が突っ込んだあたりから自称右翼団体は大衆を指導するどころか、蔑まれる者におちぶれていきました。朝鮮ヤクザとフュージョンしてしまった今では尚更でしょう。その後、狡猾な共産主義者は非暴力を装ったグラムシ戦術で日本社会の伝統破壊に成功しつつありますが、頭の悪い人の多い「2ch保守」ではとうていこの狡猾さには対抗できそうにありません。歴史からはもっと靭強な政治のロゴスが引き出されなければなりません。