吉川英治に『宮本武蔵』後半のモチーフを指図した陸軍人は誰だ?

「シナ事変が自衛戦争であった」ことを戦前の日本政府がまともに説明できなかったのは何故なんでしょうか? これは、統制好き官僚たちの秘密主義が、真の宣伝の足を引っ張り、政府として闊達な主張を打てなくしたのでしょう。日本政府の情報統制によってシナ事変は「日本の侵略」になってしまったのではないかと思います。
 スペシャリストに過ぎぬ日本の官僚はいくら秀才であろうとも「宣伝」にだけは向いていません。否むしろその有能さが途方もなく見当外れな「自虐」の方向へ発揮され、日本人の近代精神をどんどん退行させて行くことがある。その事例は、近年の各政策分野にも見られましょうし、戦前には、かの吉川英治大先生の小説『宮本武蔵』という徒花を産んでいます。
 そもそも日本政府(なかんずく外務省)と日本陸軍のエリート官僚が対外・対内宣伝の必要に目覚めたのは、第一次大戦直後です。国際連盟には常任理事国として加入した、しかし尼港事件では世界の同情が集まらない、国内では普選が実施されて民間人の代議士が軍縮を決めてしまうかもしれない……そんな大正9年に、まず陸軍省内に「新聞班」が設けられました。これは世論工作機関で、今の小泉内閣のスピンドクターの先輩です。
 昭和11年7月、内務省がそれまでずっとしてきたような「検閲」中心の消極的情報統制ではなく、もっとアクティヴな情報操作に乗り出すべく、政府は「内閣情報委員会」を設けます。
 ついで昭和12年9月、つまりシナ事変の勃発を承けまして、この組織が「内閣情報部」に改まる。
 さらにドイツの電撃戦を承け、統制官僚たちのお御輿として発足した第二次近衛内閣は、15年12月にこれを「情報局」に改組。昭和18年7月に「一県一紙」を指導したのも、この情報局です。
 けれどもこれら組織の内部で終始一貫の活躍をしていたのは、やはり陸軍省の旧新聞班の系列だと思います。
 陸軍省新聞班が、キレる人材をしっかり集めていたことは、通州事件の際のエピソードからも窺えるように思います。通州事件というのは昭和12年7月、南京からの謀略放送に対して有効な手を打っていなかった陸軍の特務機関が、陸軍の軽爆の誤爆をきっかけに、飼い犬であった「冀東防共自治政府の保安隊」に寝返られた形で、けっきょく嬰児を含む邦人223名(うち半分は半島人)が虐殺されてしまった大不祥事件です。これに狼狽した支那派遣軍司令部の大佐や中佐たちは、出張してきた陸軍省新聞班の松村秀逸少佐に対して、間抜けにも、新聞に事件が載らぬようにしてくれ、と注文したといいます。松村は、すぐ近くの北京の外国人が見聞きして既に租界の無線で世界に通報されているはずだからダメだと撥ねつけ、激しい口論となりました。もちろん事件は内地の新聞で派手に報道され、国民の復仇心はかきたてられたのです。
 この、陸軍省新聞班の目立った活動は、満州事変の時から始まっているようです。一冊数十ページ(たまに数百ページ)の冊子の著述刊行でもって、国民に直接訴えようとした。たとえば古本屋のリストから拾えば、こんなタイトルが見つかるでしょう。
 『満州不安の実相』『満州事変に於ける嫩江河畔の戦闘に就て』『米国カリビアン政策と満蒙問題』『満蒙諸懸案に就て』(以上S6刊)。……アメリカもカリブ海で似たようなことやってるだろ、というパンチを繰り出したのでしょうか。
 『満州国の容相 正・続』『満蒙新建設に対する住民の意嚮』(以上S7)。
 『満州事変経過ノ概要』(S8)。
 『躍進日本と列強の重壓』(S9)。そう、この年でした。『國防の本義と其強化の提唱』という有名な「陸軍パンフレット」が日本中の図書館その他に撒かれ、統制好き官僚が文化や経済の領域にまで口を出すようになりましたのは。対国民の宣伝で、個人の「内面」をお上があからさまに指導しようとするんですから、共産党と変わりません。こんなのはまるで逆効果であろうと常識で考えられぬところに、今日までも変わり映えのせぬエリート官僚達の病弊があります。
 『満州国概観』(S10)。この頃には新聞班は、あの田河水泡に「のらくろ」の4コマ・バージョンを描かせて、兵隊向けの軍隊新聞『つわもの』に掲載していたということです。そして朝日新聞では吉川英治の新連載『宮本武蔵』が始まっています。これは「陸パン」とは大違いの顕著な効果がありましたけれども、昭和14年に完結したその効果の方向は「自虐」なのでした。
 『日露戦役の回顧と我等国民の覚悟』『支那共産軍に就いて』『陸軍軍備の充実と其の精神』『共産軍の山西侵入に就いて』(以上S11)。
 『空中国防の趨勢』(S12)。『事変と銃後』『北支経済及資源ニ関スル諸統計資料』(以上S13)。『支那事変下に再び陸軍記念日を迎へて』(S14)。
 あと新聞班の御仕事には「愛国歌」レコードのプロデュースもあります。つまらない歌を、東海林太郎や上原敏にSP版で熱唱させちゃうわけです。この国策音楽と、それから内地と満州の国策映画に関しては、どうも日本の陸軍省をはじめとする宣伝機関はパッとした仕事をしていません。とうぜんクリエイター頼みだったんですけれども、音楽界、映画界には「吉川英治」は居なかったようです。光っていたのは円谷英二の特撮だけでした。
 いや、写真本の『FRONT』(S17に第一号)などは良い仕事をしていたじゃないか──と思われる人がいるかもしれない。でも、量的に太宗を占めた報道写真はどうですか。
 わたくしは月刊『戦車マガジン』で毎月100点以上の写真をセレクトしていたことがあって、そのときあることに気付きました。シナ事変の初期の報道写真にはあまり修正の跡がありません。ところが事変が長引くことがハッキリした昭和13年から、戦車の大砲や機関銃がしばしば修正で消されてしまうようになったんです。これなど、まったく意味のない検閲です。情報の何が大事で何が大事でないかが、担当者に分かっていないと直感できました。この検閲をやっていたのも陸軍省の新聞班ですけども、組織の人数を増やしたことで却って宣伝下手になったのです。官僚化して「守り」に入ってしまったわけです。
 昭和13年7月に内閣情報部(内務省・外務省・陸軍省・海軍省から出向)は、軽薄なる日本国民が敵軍を軽くみて戦局や時局を楽観せぬよういましめること、かつまた国民には「長期持久」「堅忍不抜」の態度を植えつけていくこと、そして今のこの難局さえ突破すれば前途に光明がもたらされるんだと信じさせること、等の「新聞指導要領」をとりきめます。
 たちまちピンと来た人もいるのではないですか。これって、まるっきり吉川英治の新聞連載小説『宮本武蔵』の後半部、巌流島までのライトモチーフになってるのですよ。
 ではクロニクルを確認しましょう。
 吉川英治の『宮本武蔵』は、昭和10年8月23日から朝日新聞の夕刊の連載小説としてスタート。当初の著者の構想では全200回くらいの分量で、巌流島のラストシーンは早々に決めていたんだそうです。ところが新聞社の懇望によって、結局1013回もの大河小説になってしまう。こんな強引なリクエストに応えることのできた小説家の力量は、もう超人というしかないですよね。
 この間には休載期間が挟まっております。すなわち「風の巻」が終わった翌日の昭和12年5月21日から、「空の巻」が始まる前日の昭和12年12月31日までです。ちょうど折から、シナ事変が勃発し、蒋介石の首都南京も陥落した。しかし事変は決着しません。吉川英治は毎日新聞特派員として現地取材もさせられました。
 そして「円明の巻」の最終回が昭和14年7月11日に掲載されて、ついに大河小説は大団円になるんですけれども、なんと吉川英治は昭和13年にも「ペン部隊」として漢口作戦に従軍させられてるんです。「ペン部隊」というのはドイツのPK部隊に菊池寛がヒントを得たものでした。こうしたシナ体験が吉川版『三国志』に結実するんですね。後の話ですけど。
 ちょうどこの頃、新聞社には大きな事件がありました。昭和13年6月から「用紙統制」の脅しが始まっていたんです。それ以後、もう新聞は隅から隅まで、政府には決して盾つけなくなった。
 朝日新聞社は、昭和13年もしくは14年に、内閣情報部の陸軍人から「『宮本武蔵』の後半はこういうテイスト、展開にしなさい」と具体的詳細に指図をされ、それを小説の担当者がしかと承り、作者である吉川英治に巧みに取り次いでいたのではあるまいか。そして真面目な愛国者の吉川さんは体重を8kgも減らしつつ、それに見事に応えたのではなかったか──と、わたくしは疑います。
 ただし実際にはシナ事変はシナ側の侵略だったのですから、陸軍は事実を自由に調べさせて世界に明らかにしつつ、自衛の戦争と宣伝とをしぶとく展開していけばよかったんです。
 吉川英治氏に書かせる小説も、もっと他にふさわしい題材があった筈ですね。
 近代以前の禅に沈潜して己れ一人の決死の覚悟で局面を打開──。そんな求道的剣豪の謂わば自業自得と、近代的国際通義に立脚すべき現代の日本国を重ねられてはたまったものではないのです。この小説の直接の影響で多くの日本軍人が「政治」について思考停止しました。
 もし昭和前期にシナに関する調査や取材を陸軍が妨害・統制することがなければ、あの昭和15年の斎藤隆夫衆議院議員の寝惚けた質問演説なども、決してあり得なかったことでしょう。