よいちばなし

『北の発言』で連載しているわたくしの記事のための取材として昨日は余市の防備隊のOB、四名の方にインタビューして参りました。日本最後の「魚雷艇乗り」の方々です。
 なにしろこうした自衛隊「神代記」の逸話は地元の民間史家でも記録してくれませんし部隊内での引継ぎもありはしませんから、わたくしのような者が今のうちに聞き歩くしかないのです。さすがに全国までは手が回りませんけれども……。
 魚雷による戦闘法、および、壮絶な苦労話のハイライトは、ひとつ『北の発言』次号を読んでいただくとしまして、二、三、周辺的な「余話」をご紹介しましょう。
 65式長魚雷は電池式なのですが、「過酸化水素」も入っていると説明されて、わたくしはその場で混乱してしまいました。あとで調べてみると、過酸化水素は液体電池の起電を維持するために必要な素材なんですね。これをいぶかしんでいたために深い質問に進めずじまいであったのが残念です。
 水に入ると「しゃ板」が倒され、駆動がアクティブになったそうです。
 また、大湊で調整された水雷が、ふだんは××の×××××に貯蔵されていたとはまったく知りませんでした。ミグ25事件のときは、魚雷は搭載しないで出動していたんだそうです。そして40ミリは、航走中は使えるもんじゃないそうです。
 また12号艇以前と13号艇以降では魚雷のサイバネティクスが違っていたようです。後期型にはマイコンチップが入っていて、発射前のプリプログラミング入力が簡単で、したがって訓練で射った魚雷が行方不明になることはほとんどなかったが、それ以前の魚雷では行方不明になってヘリで捜索したことが一再ならずあったそうです。
 ちなみに魚雷はすべてホーミングではなく、爆発尖はインパクト・フューズのみだったということです。ミグ25事件のときはソ連が潜水艦でコマンドー部隊を函館に送り込むといわれていたんですが、ほんとうにそうなったら沖合いの魚雷艇は何もなし得なかった蓋然性があったようです。
 まあ、それよりショックだったのは、魚雷艇は冬の間は余市には居らず、大湊に引き篭もっていたという事実でしたが……。
 10号艇(英国からの輸入品)にはソナー・マンが乗っていましたが、それ以後の艇はASWとは全く無縁になりました。
 10号艇は、火薬カートリッヂでエンジンをかける「飛べフェニックス」方式でしたが、横須賀から回航するとき犬吠埼沖でエンジン1基がダメになったそうです。その部品をとりよせるのに途方も無い日数がかかったそうです。
 アメリカの魚雷艇の場合、彼らは航空機用の軽量ガスタービンの経験があったわけです。しかし戦後の日本はいきなり舶用の重いガスタービンを作って魚雷艇に搭載しました。
 それを搭載した試作艇はたいへんなスピードを出してくれましたが、あるときタービンブレードが吹っ飛び、けっきょく量産されませんでした。
 三菱のW型2サイクル・ディーゼルは要所をアルミで造ってあり、こっちは戦前からの蓄積もあったので、モノになったようです。
 最後の15号艇が除籍されるときに、なぜ海保にくれてやらなかったのかとお尋ねしましたら、海保は機関の「油さし」しかできないからだ、というお話でした。海自のような本格的な「機関科」を内部で育てていないということでしょう。
 魚雷艇は一航海ごとにアルミ構造が破損しますために、その都度、自前で熔接し直す必要があったのだそうです。これは外注頼みの海保ではできない芸当でしょう。むしろ海保は最初から自前で魚雷艇を持つべきだったんでしょう。
 頑丈なアルミ構造すら破損するとすれば、7Gの衝撃を受け続ける中の人はどうなるのか? 次回の『北の発言』でお確かめください。聞くも涙ですぜ。
 15号艇を保存したいという自治体が、ふたつあったそうです。富山の魚津と、天塩の鏡沼海浜公園(キャンプ場)です。
 そういう用途廃止後の民間保存は法律的には単純な手続きで問題はなく、最大のネックは、現地までの輸送費用なんだそうです。そのため、いずれの保存希望も、ついに実現はしませんでした。
 たとえば余市の魚雷艇は本籍が大湊ですので、大湊で除籍となるわけです。引き取る人は、そこから自腹で輸送しなければなりません。この費用を日通に見積もらせたところ、とんでもない額になったそうです。自重100トンですからね。
 あと、15号艇を払い下げてもらって自分で走らせて使いたい、と申し出てきた個人がいらしたそうです。「でも、燃料が航空燃料だったりで、取得はなんとかなっても、維持は大変ですよ」と説明したら、最後は諦めたそうです。その個人とは石原慎太郎さんだそうです。