摘録と偶懐──『原爆を投下するまで日本を降伏させるな』

 鳥居民氏の最新刊です。
 まず摘録です。
 ソ連の諜報機関がゾルゲやフックスその他からあつめた情報は、参本など他の機関を迂回して、直接にスターリンの執務室に届けられることになっていた。
 だからバルバロッサ作戦にしろ、原爆の開発にしろ、早くからほとんどの情報は上がっていたのだが、単にスターリンの「これは敵の陰謀だろう」という猜疑心ゆえに、金庫に放り込まれたまま、眠っていた。
 オリンピック作戦の人的損害予測は小さなものだった。
 マーシャルは、最初の30日の損害は、ルソン島作戦の死傷31000人を越えないと述べた。統合参謀本部議長のレーヒーは、沖縄の戦死傷率35%をあてはめれば、その倍の6万になるのではないかといった。
 キングはその中間を予測した。そして米海軍が九州作戦を嫌っていたことは事実である。
 しかし、所要14個師団のうち12個を出すことになる陸軍では大乗り気だった。
 「100万人を救った」説は、スチムソンが親分トルーマンの道義的苦悩を軽くするために1947年の『ハーパーズ・マガジン』1月号に寄稿して流布させた無根拠な数字である。
 日本陸軍は、みずからの内部の戦争犯罪人を自覚するがゆえに、米国に降伏を申し入れることができずに、ソ連などに和平仲介を求めさせようとした。近衛と吉田は、それでは陸軍人たちの身の安全と引き換えにとてもつない譲歩をすることになるであろうと怖れた。
 重臣たちは、かつてドイツのウィルヘルム2世が亡命することとなり、過酷な賠償を科せられたきっかけが迂闊な休戦提案にあったのだと記憶し、皇室抹殺の可能性があったがゆえに、天皇に終戦のことは助言できなかった。
 小磯国昭が南京政府の繆斌に期待した工作は、成功するはずはなかった。なぜなら重慶の狙いは、日本と延安(中共ゲリラ)の連携を防止することにあったので。
 昭和20年6月下旬以降、天皇が得たいちばん貴重な助言は、高木八尺と南原繁によるものだろう。その内容はおそらく「米軍に出血を強いれば米国は皇室維持の問題で譲歩する、との天皇の判断は今後は適正でない。なぜなら3月以降のB-29爆撃は都市部の住民を丸裸にしていくものであり、このまま冬に向かえば必ず国民が、何の手も打てぬ天皇を恨むようになる。その民心離反の実情を米国が知るところとなったら、米政権内での親日派で皇室擁護論者のジョセフ・グルーの影響力が無になろう。その結果、戦後、皇室は潰されてしまう」であったろう。
 FDRの急死で大統領に繰り上がったトルーマンは大学も出ておらず、政府内外の一流人たちから軽輩と見られていることを意識せざるをえず、さらにソ連のモロトフからも侮られたと思った。
 4月25日に初めて、自分が原爆という切り札を手にしていることを知らされたトルーマンは、唯一の相談相手のジェームズ・バーンズと、その最もトルーマンの権威を確立する役に立つ使い方を、謀る。
 こんな兵器が完成直前の段階にあるのならソ連の参戦はもはや無用だがソ連が今後どうするかはスターリンの意志のままであり、やめろと言っても止められるものではない。
 とすればソ連の参戦前に日本の都市に新兵器を落とし、それで以て日本を降伏させて、スターリンに見せ付けてやるのが将来的にベストだ。これでトルーマンも偉大な男になれる。
 この演出を完全に興行してみせるためには日本を原爆投下前に絶対に降伏させてはならない。
 また、ソ連の対日戦への参加日をスターリンまたはモロトフから聞き出す必要が是非にもある。
 なぜならプルトニウム原爆の実験と、二つの爆弾の日本に対する投下準備には、まだなお、手間隙を要したからである。
 このためスターリンが最も恩義を感じている特使ホプキンズを再派した。ホプキンスは、東欧で最大の人口を有し、英国内に亡命政権が存在し、米国内にも移民が多いポーランドを敢えてソ連にくれてやるという約束をしてスターリンを喜ばせた。その代わりに参戦日を聞き出したのだろう。つまりポーランドはトルーマンとバーンズの原爆の演出のために、切り捨てられたのだ。
 トルーマンの日記(と妻への手紙)に、ソ連参戦に関連して「これでジャップはお終いだ」と書かれている。あたかもソ連参戦を喜んでいたようだが、それは歴史家の甚だしい読み間違いなのだ。じつはトルーマンは、ソ連参戦の日が、原爆使用準備完了の日よりもずっと遅くなることを知らされたので、自分のために大喜びしていただけである。
 スチムソンはポツダム宣言の中に、日本の国体護持保証の文言を入れさせようとした。が、トルーマン=バーンズが削除させた。また回答期限も盛り込まなかった。さらに外交ルートでなく、放送だけで日本に届くようにした。これでは鈴木貫太郎も「黙殺」するしかないように、彼らはわざと仕向けたのである。
 アメリカが原爆を独占し、あるいはソ連に圧倒的な差をつけていた1953年までにどうしてトルーマンはソビエトに核攻撃しなかったのだろうか。それは最初の二発の原爆使用が道義的に問題があったと悩んでいたからかもしれない。
 以上が勝手な摘録ですが、今月発売の『諸君!』で中西先生が紹介している1999年の本には、トルーマンは戦後の国連創設の際にもポーランドに関してスターリンに対して大譲歩をしていた、とあるようです。
 対日参戦日を知るためだけにポーランドを捨てたのだという鳥居先生の仮説は不自然でしょう。
 ソ連軍を西ドイツの国境に(緩衝国家ぬきで)直接に対峙させておくことが、戦後のヨーロッパ経営のために有利であると判断したのではないでしょうか。
 あるいはトルーマンにはポーランド人に対する個人的な不快感のようなものが、何かあったのが理由だったかもしれぬと、わたくしには想像できるばかりです。
 それと、マリノフスキーの極東軍はどうしてBTにT-26などという旧式戦車ばかりを揃えて1945年夏に満州に侵攻してきたかの理由は、やはり単純だったのでしょう。スターリンは米国の原爆投下に焦りまくり、異常な見切り発車を命令したのです。それでもあんな怒涛の急襲ができてしまったのです。