60年代核戦争映画をぜんぶ見直さなくては!

 わたくしが未見の映画『フェイル・セイフ』のセリフを動画から全部拾ってトランスクリプトしている物好きな人がいて、その英文ウェブサイトを読んでみたのですが、打ちのめされた。シナリオ読んだだけで手に汗握るという体験を初めてしました。凄すぎる。
 驚いたのは、この映画でウォルター・マッソーが演じていたのは、例のフォン・ノイマンじゃないですか! 原作者と脚本家は、彼の「ゲーム理論」を攻撃しているのです。ノイマンは理解されていなかった。
 実説の彼が「アメリカが今のうちにソ連を先制攻撃すればアメリカはワンサイドゲームで勝てる。今それをやらなければアメリカは将来苦労する」と語ったのは、ソ連崩壊後の今になって米国人の身に染みているでしょう。
 またこの映画の格好よすぎるショート・センテンスの会話(ゲームの勝者がいない、等々)からスピンアウトしているのがディズニーの『ウォー・ゲーム』だったのだと、おそまきながら悟ることができました。
 そしてこれも今更にして漸く分かりましたのは、『フェイル・セイフ』のマッソーはノイマン風のノイマンであったのに対して、『ドクター・ストレンジラブ』は、キッシンジャー風のノイマンにして、キャラをひねっていたわけだ。つまりキューブリックは、ノイマン風のノイマンでは面白くないと判断したのでしょう。
 電話先のロシア人指導者の声の調子から、相手が自分を信用しているのかどうか判別するノウハウがあったようにも書かれています。「バウリンガル」は、突然出てきた技術なんかじゃないのでしょう。
 以下また、摘録とコメントです。
▼『別冊歴史読本 20 武士と天皇』2005-8pub.
 10世紀後半から11世紀前半、「非職之輩」は弓箭を佩帯してはならぬ、とする「兵杖禁止令」が頻繁に出された。
 上皇を警備する武士すら特別許可なしに弓を持てないという厳密さ。
 『嘉吉物語』によれば、将軍義教の右手を赤松則繁がおさえ、左手は教康が押さえて、その首を刎ねた。
 管領・細川持之は、殺害の場から這って逃げたことで、威令を失った。
 名前の「通字」。北条家は「時」。足利は「義」。徳川は「家」。嫡男はこれらの字が上につく。庶子の弟たちは、嫡子の下の字を「系字」として、それが自分の名前の上につく。
 徳川家光の長男は家綱である。その家綱の弟はすべて「綱○」と名づけられる。
 清和源氏の通字は、とちゅうで頼から義に変わっている。
 北条氏の「時」の字は、上下のどちらにも用いた。
 三浦氏が義の字を使い続けたのは祖先の八幡太郎義家とのつながりを強調するためか。
 合戦における兵の死因の第二位が、馬に踏み潰されたことによるもの。
 富士川の戦いに平家は4000人が出た。これが、見たこともなき大軍といわれた。
 相模の三浦氏、伊豆の伊東氏クラスでも300騎くらいしか出せなかった。北条氏は40騎であった。
 有力守護の畠山義就は応仁の乱の生きるか死ぬかの動員で、騎兵350、歩兵2000を集めることができた。当時の日本の総人口は1500万くらい。
 諸葛亮は文官である。しかるに日本では大江広元の息子までが武士になってしまう(毛利季光)。そうでなかったら人はついてこなかった。
 三成に人望がなかったのも文化の違いだ。※部下と運命をともにしない奴と思われたのである。
 『吾妻鏡』の三浦氏滅亡の記述はいいわけじみており、史実は北条氏にとって特別に弁解が必要な、寝覚めの悪い経過であったことを暗示している。
 禅宗の特徴は弟子になるのに出自を限定しないこと。道元は叡山の女人結界をも批判した。
 鎌倉幕府は六波羅探題にも最後まで司法権を分け与えず、全国の御家人を直接支配しようとしたが、室町幕府は一転して守護(大名)の分権を追認し、各探題にはほとんど自治権を与えた。
 御家人と非御家人の階層を分離固定化し、さらに御家人のなかの少数有力門閥が排他的に徴税支配権を握り続けようとしたシステムが全国の武士から悪まれて、鎌倉幕府は滅んだ。
 足利尊氏は師直の命日に直義を毒殺した。直義の下についていた時氏は山陰の鉄資源のおかげでしばらく強勢を保った。
 『太平記』を見れば、神器は複数あって入り乱れ、どれがホンモノかはすでに分からなくなっていた。
 1393に室町幕府は酒屋土倉に毎月定額課税した。地頭御家人ではなく、都市に基盤を変えた。
 天皇の代がわりにともなう諸儀式はかなりの物入りだった。それで戦国期には天皇が望んでも手元資金が無いので譲位不可能となり、しかたなしに終身在位した。即位礼すら断絶する可能性があった。
 信長が三職任官を断ったのは、すでにシナ皇帝となる野心があって、日本の朝廷の官位では縛られまいとしたのだろう。
 秀吉は小牧長久手で家康に敗北すると軍事一辺倒の方針を転換した。諸大名を朝廷に叙任推挙してやる。そのとき天皇の面前で従一位関白の秀吉は他の大名の誰よりも座次と礼服格式が高いことが厭でも確認される。
 ※天皇家から距離を置く将軍ではなく、天皇家に最も近い「第二の藤原氏」になろうとしたのだろう。
 定信の「大政委任論」……日本の国土と人民は将軍が天皇から預けられたものである。しかしそうだとすれば将軍家は天皇家を大切にすべきであるから復古調の御所造営に大金を投じなければならなかった。
 諡号[しごう]制……清朝までのシナの制度で、前代の王を名前によって評価し、支配の正統性を宣伝する。日本では易姓革命が起きなかったので光孝天皇で途絶え、以後は日本独特の「追号」に変わった。追号には顕彰賛美の意味がなく、在所や陵地にちなむ。この追号と「○○院」の尊号の始まりとは重なる。
※公武は対立していたのか、相互補完だったのか、という、視野の狭い学説争いが日本史学界にはあるらしい。キリスト教会と欧州の地上権は対立していたのか、相互補完だったのか? どちらかがなくて済む話か?
▼林盈六[えいろく]『力士を診る』S54年pub.
 得俵は土俵内のごみを掃き出すためにある。
 大正15年時点で大阪相撲の実力は、その横綱が東京相撲の前頭と互角。
 維新でなぜ力士の髷だけは断髪されずに済んだか。西郷、板垣ら、相撲好きの元勲がいたので。
 明治42年の旧国技館の建設により、「晴天10日・雨天順延」の必然性がなくなった。
 一般に母親が大型だと、その男子は大きくなる傾向がある(p.23)。
 身長がまだ伸びている途中かどうかは、レントゲンで大腿骨の骨端をみると簡単に分かる。成長中の骨端は柔らかい。
 明治時代の入門者の選別ポイント。両股を真一文字に開き、上体をゆっくり前傾させて顔が土俵につくか。また、正座して両踵のあいだに尻を入れ、上体をゆっくり後傾させて後頭部と背中が土俵にぴたりとつくか。
 また、手・足が大きいかどうか。そこが大きいものは上背が伸びてくる。耳たぶがゆたかかどうか。ゆたかな者は筋肉がつく。
 幕下にならないと羽織は×。
 相撲部屋の平日は朝6時から11時まで稽古。朝飯は抜きである。
 二子山部屋だと15組が土俵におりるので一人当たりの稽古量は正味20分だ。番付上位から入浴し、昼飯のちゃんこは11時すぎから始まる。が、これまた番付上位からの順番なので、最下位が席につくまでに1時間半かかる。
 ちゃんこのあと、2時間の昼寝。体を動かすと口から食べたものが出るくらい詰め込んでいるので、仰向けのまま。目が覚めると手の指がパンパンに脹っていて、指が曲がらないくらい。育ち盛りだと、昼寝の後で体重が午前より5kg増えているが、午後の稽古でまた元に戻る。
 この「飢餓運動ストレス」の繰り返しが、摂食時の脂肪のためこみを細胞にうながし、太った体をつくっていく。ただし中卒入門時に肥満していない者は、脂肪細胞の数がふつうであるので、引退後に元に戻る。
 ちゃんこ当番は、その日の稽古は休みである。昼でもビールも出る。
 双葉山はけっしてマッタをしなかったから偉大。「後の先」で勝てた。
 名古屋場所は梅雨から夏にかけてで日々の気温の変動が激しく、体調が乱れがちなので、できれば東北か北海道にしてほしいと力士は思っている。
 場所数が増えたことにより若い有力者の番付上昇は3倍早くなった。
 そのかわり、病気や怪我をすると治す暇がない。
 「無事これ名馬」は力士も同じ。
 相撲で「かいなぢから」というのは世間で想像する静的な筋力のことではなく、技をかけるときの動的な威力。特に握力だけ測定すれば、ドクターの著者より弱い大関はいくらでもいるのだ。握力は、押し相撲とも四つ相撲とも関係がないのだ。
 昔、崎陽(長崎)でシナの鍋をチャンクォといった。これがちゃんこの語源であろう。 大正初期の角聖・常陸山の出羽の海部屋があまり入門者が多くなったので、ちゃんこ料理が発明された。
 本書の時点で約30の相撲部屋があるが、やはり親方の出身県の者が自然に集まる。二子山親方のもとには青森県出身者。
 井筒部屋は鹿児島。
 昭和30年代まで四足獣の肉はちゃんこに入れなかった。土俵に手がつくというのでゲンが悪い。
 WWII中、ワインが配給制になったフランスで肝硬変が激減した。1週間に1リットルの割り当てであった。
 日本でも戦中~終戦直後は肝硬変が少なかった。
 アイクが心筋梗塞で倒れたとき、主治医は規則正しい運動とウィスキー飲用を勧めている。
 アルコール分解にはビタミンB1 が必要で、それが足りなくなると脚気心臓の症状が出る。
 糖尿病治療中にアルコールを飲んだら、むしろ多めに飯をたべないと死の危険がある。アルコールはカロリーはあるが低血糖をもたらすので、血糖値が低くなりすぎてしまう。脳に栄養がいかなくなれば、廃人になる。
 1日5合以上も飲んでいれば、かならず膵臓がやられる。
 力士の急性膵炎は千秋楽の晩に多い。それも名古屋場所か秋場所。疲労とアルコールと冷たい氷水の組み合わせが引き金になるらしい。
 ストレスに対抗するホルモンは午前10時ごろが最高で、夕方から夜にかけて弱くなる。 アルコール分解能力は逆に夕方から夜に活性化し、朝は最も低い。
 北の湖はノンスモーカーだったが、貴ノ花はチェインスモーカーだった。輪島もスモーカーだ。
 水入りの大相撲で先に息があがるのは決まってスモーカーの方だ。持久戦ではデブの方が先にスタミナ切れするのは常識なのだが、北の湖にはその弱点はない。やはり喫煙しないからだ。
 大正の関脇・玉椿憲太郎は、身長が158センチしかなかった。
 昭和の大関・大ノ里万助は、体重が75キロしかなかった。しかしさすがに昭和30年以降の記録では、幕内の最軽量でも95キロである。
 昭和前期、大相撲は年に20日で、1月場所と5月場所しかなかった。だから優れた力士は37歳まで現役でいられたのだ。
 人体は脂肪以外の組織からカリウム放射線をつねに発散しているので、この全体量を測定すると、体重との兼ね合いで、脂肪の全量が判明する。
 男子平均で10~15%だが、この脂肪量は偶然にも上腕と背中の皮下脂肪の厚さに比例していることが判明している。
 肥満は短命であると世間に知らせたのは、アメリカの生命保険会社。
 力士の体重差は20kgまでは押し合いに影響がないが、30kgの差があると、押される感じがまるで違う。
 力士で頻脈を訴える者は多い。頻脈の反対は徐脈。
 戦前の力士に性病と脚気はあっても、糖尿病はなかった。
 糖尿病は血管の内壁を具合悪くするので、脳の血管がやられれば脳卒中となり、眼にくれば網膜症や白内障になる。腎臓がやられるのも、血管から。
 片足のアンクルにサポーターを巻いているのは、痛風。軽い捻挫を起こしたところに尿酸結晶が集まるので。
 親方になるとストレスから潰瘍になる。
 人間の歯の型をみれば、本来、肉食でない動物であるのはあきらかだ。
 親方はちゃんこの後、昼寝しない方がよい。肥満しないため。
 帯状疱疹(ヘルペス)が出たら癌検診をうけたほうがよい。
 突っ張りを得意とする力士、または入門当初の力士は手関節を捻挫する。一度傷めると、治ったあとも土俵上では不安防止のためテーピングで庇うようになる。
 千代の富士は最初の肩脱臼のとき仲間が力まかせに整復したので無理が生じ、しかも完治しないうちから稽古を再開したので、長く尾を引いて苦しめている。
 力士の骨折で最も多いのは肋骨で35%、ついで鎖骨の25%である。一般成人では前腕骨が19%、肋骨が16%である。
 力士で上腕骨骨折する者はまずいない。
 60人入門者がいて、十両以上になれるのは1人。横綱は300人に1人。
 腰椎の痛みに副腎皮質ホルモン剤を痛み止めとして投与する医者はよくない。劇的に効くが、副作用があり、薬を中止すると痛みが前よりひどくなる。
 行きずりの医者がよくやる。
 風邪薬はレスタミン系物質のためどうしても催眠性がある。そしてこれは筋力を発揮させない作用もある。