摘録とコメント(※)

▼大木雅夫『日本人の法観念』1983
 キケロの法律論はまったく対話形式で展開されている。
 中世の大学の法学テキストは完成されていてはならず、教授法は口語の討論形式によるべきであった。
 論理的討論術が批判的精神と体系的懐疑心を発展させ、西洋哲学を近代科学にした。
 シナの科挙は唐代では「進士」(詩文)を重視し、宋代では「明経」(儒家古典)を重視した。
 大憲章の大は「長大な特許状」の意味。
 シェークスピアは若いときにマキャベリに心酔して、リチャード3世の年代記を書いた。絶対王政賛美の彼の劇が世間に受けたのはそれはイコール国民の福祉だったから。
 ジェイムズ1世は、王権の根拠は契約ではなく征服だと言い放ち、アンチ・ノルマニストのクックがそれに反発した。クックはベーコンの政敵で、近代科学からは遠かった。
 クックは11巻の判例集を編纂し、先例引用を一般化させた功労者。
 クロムウェルのチャールズ1世処刑は熱狂的に行なわれたわけではなく、裁判委員の半数は関与を拒否し、処刑の瞬間には数千の群集からうめき声が湧き上がった。そこでミルトンは革命を鼓舞する詩を書かねばならず、ロックは理論的基礎づけをせねばならなかった。
 過ちを刑するに大臣を避けず、善を賞するに匹夫を遺れず/韓非子
 1919の賄選憲法第12条には、中華民国人民は、孔子を尊崇し、および宗教を信仰する自由を有し、法律にあらざれば制限を受けず、と規定した。
 シナではついぞ、民事訴訟法は発展しなかった。1911の清末にようやく草案起草。
 すべて刑法であった。所有権などは刑法の枠で考えられた。だから私人間の権利義務など意義が認められず。そもそもシナ語の概念に「権利」も「義務」も無かったのだ。
 刑事訴訟法としては、断獄律があった。
 儒教では子が親の犯罪を証言することはあり得ないはずだが、謀叛と大逆については律令は子孫も親を告発せねばならないとしていた。
 律令時代とくらべると鎌倉時代は司法国家。式目51ヶ条のうち訴訟関係は17ヶ条。つまり裁判規範を示していた。
 鎌倉時代の民事では攻撃側が「訴人」、防禦側が「論人」。
 織田も豊臣も徳政をやった。江戸幕府と諸藩は、徳政こそ号令しなかったが、棄捐令は発している。
 喧嘩両成敗の喧嘩口論とは私戦のことである。堪忍した側は私戦を避けたのだから無罪になり、攻撃者だけが「一方成敗」される。松の廊下は喧嘩ではなかったわけ。
 しかしこの慣習法の結果、ならぬ堪忍するが堪忍の処世術が瀰漫し、日本人の正義感は著しくゆがめられてしまった。
 甲陽軍鑑ではハッキリと批判している。
 幕府の年貢収納高は、幕末に至るまで減少し続けた。
 鎖国は宗教問題よりも、幕府による外国貿易独占という財政政策だった。
 武士の軽輩は内職どこか、大工や佐官までした。
 本多利明によれば江戸後期の下級武士は半知以上の借り上げに遭って主を怨むこと敵の如くであった。
 江戸時代の百姓は訴訟のプロだった。少なくない醵金をあつめて江戸まで出て来ているので必死でもあった。裁判官は大声で叱り続け、引き下がらせようとするが、もしお上に対して「御理解承知した」などと白州で言えば「まけ」なので、うつむき黙るか、「へいへい」と言い続けるか、不利な場合は「日延べ願い」を提出した。
 「内済」の決着が誘導されたのは、幕府の裁判資源がパンクしたため。訴訟を請け負う公事師は村方にまで出現した。
 奉行所法廷では、最上段に坐すのが奉行。民事で御目見え資格のある町人以上は縁頬に、由緒ある浪人と御用達町人は板縁に、それ以外の百姓町人浪人は最下段の白州に坐らされた。
 江戸幕府の裁判機関としては、老中、若年寄、評定所、三奉行、道中奉行などがあった。
 新井白石にいわせると老中とは大名の子で、古今の何も知らず、政務の本末を弁じ得ず、ただ上様の意を下に達しているだけ。
 三奉行のうち寺社奉行は30歳代の若い譜代大名。町奉行と勘定奉行は中級旗本出身だが、役方の出世コースの終着駅であるからたいていは老人。かれらは裁判の開始に「一通吟味」はするものの、その後の「追々吟味」はすべて部下の書記「留役」がした。中期以降は与力も裁判員になり、代わりに奉行の関与はほとんど形だけに減った。
 奉行裁判の形骸化と留役に対する賄賂の横行は吉宗時代前にすでにあったので、吉宗は三奉行裁判に臨席した。また目明しの利用を禁止させ、拷問を制限し、縁坐制を原則廃止した。
 孔子の、民は之を由ら使む可きであるが、之を知ら使むことは不可である、の意味は、大衆を法令に従わせることはできるが、その立法理由を理解させることはできない、と嘆いたのである。
 吉宗は罪刑法定主義を目指し、「をしへざる民を罪するな」と言い、最新の法度書を寺子屋の教材にさせている。また過去の判例を整備させた。そのひとつが公事方御定書だが、これは奉行所の役人のための準則だから、民間に公開されない。※しかし公事宿にはなぜか私的なコピーが隠し置かれていた。
 10両盗めば死罪と決まっているが、裁判役人は「どうしてくりょう三分二朱」といって、盗んだ額が10両に足らなかったことにしてくれた。
 また、火事のとき親を見捨てて逃げれば死罪と決まっているが、いっしょに立ち退いたあとで群集にまぎれて見失い、行方不明になったことにしてくれた。
 イギリス(クック流)の「法の支配」を日本人は過大評価するな。これは貴族議会による王の制圧、諸侯が議会を名として王に代わっての専制をめざしたモットーだったのだから。
 コリント人への第一の手紙の中にある「正しくない人」「教会で軽んじられている人」とは、法律家のこと。紛争処理は聖職者に任せろ、と言っていた。これをルターが分離した。救いと法は別世界だと。これによって法には宗教的権威はなくなった。
 日本の裁判官の数は少なすぎる。はやくなんとかしろ。権利を具体的に実現する装置が不完全だということだ。
 日本人はプライバシーを言うくせに家に表札をかけている。表札を出している家は米国にはほとんどない。
▼井上昌次郎『動物たちはなぜ眠るのか』H8
 豪州イリエワニが現存爬虫類の最大かつ最重。淡水だけでなく海岸にも棲む。
 待ち伏せ型の動物だから、寝ていると思って近づいてはいけない。
 コウモリは野生で20年も生きられる。同体重のネズミを飼育管理しても数年が限度なのに。
 夜行性のイヌは決して熟睡することはない。浅い眠りをしょっちゅう繰り返す。
 ライオンが仰臥位で昼寝するのは耐熱のため。
 延髄にある、レム睡眠中に運動命令伝達を遮断しているる機能に細工を加えると、猫も熟睡中に夢を見ていることが、その運動から確認できる。
 冬眠はじつは断眠状態なのではないかというのが最近の知見。
▼神坂次郎『元禄御畳奉行の日記──尾張藩士の見た浮世』S59年
 1718に没した朝日文左衛門、知行100石、役料40俵の8863日の日記『鸚鵡籠中記』の解説。代々の家職は御城代組同心。
 ※役付きの武士が日記を残したのは、男が公務を長年続ければ必ず「訴訟」や「疑惑の噂」や讒言中傷事件などのトラブルに巻き込まれると予期せねばならないので、そのときに日付正確な弁明書などを提出できる備えとしていたのである。だから金銭出納はつまらぬものでも細かく記す。そうした日記をつけない役人の方が稀であった。日記の残存するものが少ないのは、ほとんどの日記は本人の万一の備忘にすぎず、本人が死亡すれば用も価値もなくなったからである。こうした解説が無いのは不審だ。
 ありきたりの町人が三度のメシを食うようになったのが元禄時代。
 江戸でふつうに外食が可能になったのも元禄時代。
 庶民の家に畳が普及。また着物の左が上と決まったのもこの頃。
 大振袖の袖口は鯨の鬚で形をつくった。
 文左衛門は18歳で武芸を習い始め、その科目は槍であった。元禄4年。
 3ヶ月後に弓。さらに据物斬り、柔術にも入門。
 19歳でためしものを見物。広小路にさらされていた罪人3人の胴体。これを弓術師範の星野勘左衛門の下屋敷にひきとり、そこで師匠らが切る。文左衛門も股の肉を切り落とした。
 ところがその夕刻の酒席で出てきた刺し身皿をみるや罪人の足の断面を思い出し、手が震え、気分悪く、舌はこわばりうまく話せなくなり、以後二度とやらない。
 やわら(柔術)は入門から1年未満で印可[しるし]の巻物に判を据えたものが貰えた。元禄6年。※ようするに武術道場は当時すでにカネと引き換え商売。
 翌元禄7年に「軍法」の弟子入門。次に居合術に入門し、印可は元禄8年に貰った。
 元禄8年に鉄砲場へ行き、玉ぐすりを貰って射ったのが面白く、鉄砲の弟子入門。これは長く続いたが、十三発打つも皆はずれ、などの記載が目立つ。※当然だがこれは10匁クラスの火縄銃(p.102)で、そう簡単に当たらないから流派が立つわけである。6匁~3匁クラスの足軽鉄砲と同一視はできない。
 元禄9年、兵法(剣術)の弟子。
 小給の者が、何カ村にもわかれた知行所を管理するのは負担であり、いきおい酷税にもなってしまう。それで元禄ころから諸藩は高知(高禄)者いがいの家臣の知行地を廃して、蔵米取り(サラリー)制にきりかえた。
 武士が茶店に太刀を忘れると、それは道中奉行に届けられる。忘れた者が仕官の身であれば、もはや逐電するしかない。
 芝居小屋に武士が刀を置き忘れ、持ち主がすぐ判明しないときは、藩の評定所が詮索を始める。けっきょくバレる。士道不覚悟のゆえをもって、御暇。
 文左衛門は辻で猿若舞をみている隙に脇差の中身だけ掏り盗られた。盗まれた場合はモノが公に曝されるわけではないので、問題がない。
 武士の芝居見物は決して堂々とは出来ず、茶店に袴を預け、編み笠で顔を隠して潜り込む。
 大都市の芝居小屋は、左右に床を高くしつらえた桟敷があるが、中央は土間で、そこに薄縁・うすべり(半畳)を敷いて見物する。
 名古屋ではまだ菰張り、葦簾がこい。雨の日は、演らない。
 『太平記評判』は1両1分10匁もする本だが、文左衛門はそれを購入した。
 綱吉時代、燕を殺した足軽が小塚原で斬罪になっている。蚊を叩いた小姓は流罪。井戸に猫が落ちたのに気付かなかった江戸城台所頭は八丈島流し。
 ※これらの史料を無批判に例示しているが、ほとんどは軽輩であったことに注意すべきである。仲間小姓クラスは無学で独りを慎むことはできず、放恣にわたれば振舞いはごろつきと変わらず、その野卑さを嫌う階層が増えていた。またエネルギッシュなリーダーの下では点数稼ぎに出精する役人が活動するものである。同輩を陥れるための讒言濫訴も疑うべきである。
 ボラは一寸から成長して一尺で成魚。最後は三尺におよぶ。これをトドという。「トドの詰り」。
 元禄13年、27歳で御畳奉行とされ、御役料40俵を貰えることに。実務は部下の手代や御畳蔵番たちがやってくれる。
 もともとの知行100石は白米にすると35石、約100俵でしかないから、大きい。
 100石の知行にともなう軍役は槍1本。つまり、槍持ちと中間を1人づつ雇えば良い。
 貞享年間の『豊年税書』によると、コメ18石は小判18両で、大人3人と子供1人が1年で12両の食費だと。
 当時の武士社会は外泊が許されないので妾は居宅に置くことになる。
 武士の公務旅行では槍持ちの中間が1人、草履取りが1人、供につく。「槍持ちをはじめて連れて振り返り」
 元禄5年、ある武士が芝居小屋で、酔った牢浪中の中小姓(足軽身分)に鞘を踏まれて絡まれた。やむをえずその中小姓の刀で横ざまに払ったが「刀鈍くして傷つくに及ばず」。地に倒したところをまた振り上げて首に切りつけたが、すこしひきやぶれただけ。
 滅多打ちに殺したが、中小姓の刀は切れずして鍋弦のごとくになった。
 博奕場を捕手に急襲されると、武士の多くは刀を捨てて逃げた。
 罰の「御追放」は、「士外の仰せ」なので大小をとりあげてしまう。
 滝沢馬琴は名古屋の家婦の密通は日本で一番多いと報告している。
 鞘ごとの刀を掴み合いの奪い合いになると、簡単に鞘は壊れてしまう。
 枯れ葉かきを木抓[こまざらえ]という。
 1715に名古屋城の小天守御金蔵に侵入した盗賊は、照明用に硫黄を燃やしていた。点火には火打ち箱を使用か。
 侵入形跡を面倒と思って報告しなかった御番士は、脇指を咽へ横ざまに突き通し、前へつと掻き切りて死。
 財政難の藩は「簡略奉行」に華美を取り締まらせた。この配下の「お改め」を騙って商品等を略取する者が多発。
 元禄7年の罪人死骸のためし物で、御道具(刀)の9振りのうち4振りは切れなかった。
 晴れた日のある屋根に泥鰌が20匹も撥ねていたことがある。これは鵜の仕業だろう。
 丑の刻参りは『太平記』に活写されているが、庶民の間には元禄期に普及した。近松が広めたのだとも。
 元禄15年暮れの赤穂浪士の一件は名古屋ではほとんど話題にならなかった。元禄16年に芝居化した「曙曾我夜討」は上演3日で禁止された。人気を全国版にした竹田出雲の「仮名手本忠臣蔵」は事件から45年後の作。
 元禄10年に百姓が剃刀で首を切り廻し、自殺。
▼村上兵衛『昨日の歴史』2000
 江戸時代から富山の漁村は不漁が続くときまって騒ぎを起こした。貯蓄観念がない。明治になっても四年に一度は義捐米にありついていた。
 このローカル恒例だった富山の米騒動を大正7年に全国区に拡大させたのはジャーナリズムであった。
 17歳の大宅壮一は大阪でこの波及暴動を見た。そして中学でこの焼き討ちを賞賛する演説をして退校になった。「マスコミ」という日本語は大宅が造った。
 西洋のテキストなら何でも翻訳して「円本」としてインテリに売れたのが昭和初年で、大宅は翻訳印税で吉祥寺に家を建てた。
 その前の下宿には徳田球一が上海からピストル30梃を運び込んだこともある。
 徳田らを応援する陸軍将校は、かなりいた。
 大杉栄は甘粕の幼年学校の先輩で、扼殺の動機は近親憎悪ではないか。
 WWⅠ後、日本の11年間不況。そして昭和7年から15年までは明治開国以来の経済好況。
 大宅いわく、火野文学は、国民が戦争を知りたかった気持ちと、前線将兵への感謝の念から、人気が出たものだ。
 対米戦争中は日本国内にカネがダブついた。そのため競馬の全盛時代であった。
 三島は、書かなくなった直哉がいつまでものうのうと生きていることに我慢がならなかった。
 三島は学習院で貴族から何を学んだか。社会や政治にたいしてあれほど無責任でありながら、平然として生きていられる神経の傲岸さ。
 三島じしんのキャラは世間に対して小心で律儀で礼儀正しい。
 三島の、学者家系の母の倭文重が終始、三島の創作の第一読者であり、もっとも信頼する批評家であった。『豊饒の海』の最後の百数十枚いがいは、すべて三島の母の感想によって書き直されているはずだ。
 昭和20年2月。都会のインテリ家庭では、20歳になる息子の本籍地を田舎に移していた。田舎では都会人の体格だと徴兵検査後に召集されない確率が高いからだ。三島家もそうした。ところが加古川での徴兵検査で、第二乙種合格ながら召集されてしまった。家族も本人もショック。
 しかし入営時に風邪をひいていて、聯隊の軍医がラッセル音を肺炎と誤診し、即日帰郷となった。
 このような三島が、戦後、『きけわだつみのこえ』の映画のアホらしさから、戦後の精神状況を徹底的に嫌うようになった。
 昭和25年の娑婆には兵隊帰りの若者が多く、職場では上司を屁とも思わない活気があった。
 文藝春秋は、中央公論や改造とちがって戦中に解散させられることはなかったのだが、用紙と資金難は戦後も続き、菊池寛は投げ出した。そこで本社が大阪から東京銀座に移った。
 三島は歌舞伎と能を幼児から見ている。父方の祖母が歌舞伎のファン、母方の祖母が能好きであった。
 三島は昭和26年に太平洋廻りでギリシャまで旅行すると、古代ギリシャには肉体と知性の均衡だけがあり、精神などはキリスト教のいまわしい発明だった、と確信する。
 大宅は清水幾太郎を、如是閑を新しくしたようなと評し、さらに、基地反対の平和主義の講演行脚について、平和主義は誰でも欲しがるチョコレートで、思想ではないと。ジャーナリズムは無思想の別名だが、強い個性と人格がなければ、すぐに他の強そうな思想にひきずりこまれ、溺れるのだと。
 大宅いわく、スターリンはすべての芸術の理解者であり、よって検閲官になったと。昭和30年代のソ連について「ソ連ほど保守的空気の強い国はない」。
 三島が軍隊を知らないことは『憂国』の輜重兵の呼称を見ればわかる。数日間の市街戦で輜重兵の出る幕はない。
 夜間に静かに移動すべき叛乱部隊が集合喇叭を吹くわけがない。
 軍装で帰宅した中尉の妻はまず軍刀を受け取って刀架に立て懸けるのが家庭作法。その前に玄関外で外套を脱がすなどあり得ない。軍刀を抱いて茶の間に行く軍人の妻もあり得ない。
 村上は『憂国』を戦争文学とは認めない。これは大岡昇平も同意見であった。
 三島はそのエッセイの中で「いい作品が書けているときの作家は、死からいっとう遠いところにいる」という意味のことを述べている。
 戦後、蘇峰くらい悪口をいわれながら、その研究業績を黙って歴史学者に盗用された者はいまい。
 国民新聞は長閥の御用新聞と思われていたのに、それが乃木遺書の全文すっぱぬきをやったのは、蘇峰にもジャーナリストの意地があったのだ。
 三島は『英霊の声』以外は一気には書いてはいない。一晩に4~5枚を毎晩続ける銀行家タイプ。
 三島の天皇描写「勇武にして仁慈にましますわれらの頭首、大元帥陛下である」「今日よりは朕の親政によって民草を安からしめ、必ずその方たちの赤心を生かすであろう。心安く死ね。その方たちはただちに死なねばならぬ」。
 三島は自衛隊も旧軍のように法学士が半年ほど入隊して訓練を受ければ三尉になれると思っていた。
 村上は三島の『葉隠入門』(S42年)の書評を同年に東京新聞に書いている。村上は、武士道の精華は、主人を「頼うだるひと」と言った室町以前の精神契約にあり、徳川以降の武士道は契約相手が不在の形骸で、真の死生観は葉隠を一関こえたところに探すべきだと考える。三島はいかなる死が犬死にかは誰にもわからないので、死後をおそれない決断が人間行動の自由を保障すると解した。
 S44年10月21日読売朝刊での、村上vs三島対談。
 村上いわく、陸続きでない日本には市民の直接戦争体験がない。だから民兵組織は国民に理解不能なのではないか。
 三島いわく、戦えるヤツをつくることが課題。
 村上いわく、文士の道楽と思われないか。
 三島いわく、人がどう思おうと意に介さない。会の意義が生じるとすれば、今ではなくてこれからだと思う。ノンポリにも全共闘にも属せない学生は居所を探している。
 村上いわく、制服は人間を画一にさせる。
 三島いわく、全共闘どもの格好こそ画一的だ。しかも薄汚くむさ苦しい。
 村上いわく、70年安保で国民は国防についての決断を迫られている。だから楯の会も拒絶されなくなった。
 グァムは日本統治時代の方がよかった、と最晩年の大宅。
 体験小説『憲兵』の作者である宮崎清隆に、三島は、死にたい理由を語った。第一に、書けなくなった。二番目に、川端が媒酌人になっている妻との仲。離婚すれば文壇から抹殺されるだろうと。
 平和主義、暴力否定、conformity が日本では尊敬されるが、三島はそれが大間違いだと。
 エセ知識人。思想に自分の身の安全を保障させる輩。思想を守るために命は懸けない。
 そうではなく、知識人とは、あらゆる順応主義に疑問を抱き、むしろ危険な生き方をすべしと考えた。
 ※「優雅と武士の伝統の幸福な一致」など求めていたら、国内戦は戦えても、外国には勝てないだろう。
 村上いわく、東部軍の軍司令官が民間人に縄でしばられてなんの抵抗も示さなかったとは、そんな軍隊があるかと。それは平和主義ではない。腰抜けだ。
 幕僚の三好秀男は戦中にフィリピンゲリラと国際法の通用しない戦いを体験している。彼は事件当日出張中だったが、もし居合わせたら絶対に縛られなかったと。
 士官学校の区隊長として21歳で敗戦を聞いた村上は、沓掛から東京に向かう列車車内で見知らぬ人同士が「これから、日本はどうなるんでしょうなあ」という科白を百遍も聞いた。
 WWII前の英国を旅行したツヴァイクは、英国人がまるでヒトラーを警戒していなかったと。周辺ドイツ人を統合したあとはヨーロッパ人に対する感謝のしるしとしてボルシェビズムを根絶するだろうと、語られていたと。
 村上じしんは、文学者の自殺は「事故」と呼ぶのがいちばん近い、と。
 江藤淳の死は文学者の自殺というより一社会人の死だから論ずるものではないと。
▼高木彬光『古代天皇の秘密』S61年
 奈良の大仏を造ったときの銅は、福岡県の遠賀川に近い香春岳[かわらだけ]で大半が鋳造された。和銅元年よりも何百年も前から香春神社のあたりでは銅をつくっていて、その宝鏡が宇佐八幡に納められている。
 玄界灘は冬は強い北東風が吹くので、魏使は夏にやって来たはずだ。そして遠賀河口近く、神湊ふきんに上陸しただろう。邪馬台国は宇佐にあったのだろう。魏志の百里は15kmだろう。
 『隋書』の「琉球伝」には、沖縄住民が男女みな、白紵の縄を以て髪をまとい、うなじの後よりめぐらして額に至る、とある。『万葉集』に「ひたいがみゆへる」と見える肥人は熊襲で、かれらは沖縄人と同族だったのだろう。
 熊襲は、今の熊本に住んだのが熊、大隈の「そお郡」に住んだのが襲。そして、襲=隼人だろう。
 隼人は海人族で、名前の頭に「ア」音がつくことが多い。あずみ、あまべ、あら、みな同じ。
 カンボジアのクメール、久米島、熊襲(=狗奴)も、みな同じで、大伴氏は熊襲の出だ。
▼雄山閣 ed.『文武抗争史』S8年6月
 戦争後は文官が台頭する。頼朝は大江広元を用い、三善康信を招いた。梶原景時も文臣だといえよう。
 足利尊氏は、高師直や上杉憲顕に政務を委ねた。
 信長は、朝山日乗、村井貞勝を重用。
 家康は本多正信、正純、板倉勝重を信任。
 源義経、範頼、畠山、和田、足利直義、直冬、福島正則、加藤忠広などはみな、ただの武骨だったから除かれた。
 シナにも、普の杜預、明の陽明など、文武で功を挙げた偉人はいる。ロシアではピョートルが文武兼備。
 坂上田村麻呂はあれほどの偉勲があっても文官の下に居つづけた。
 平氏も源氏も、皇室を出て二、三代にしてすでに5位の受領位より昇り得なくなった。将門は一検非違使を求めても得られなかった。
 しかし日本ではただの文学の士は宰相になれない。吉備真備、菅原道真が上代の例外で、江戸時代では林道春と新井白石だけ大出世したといえる。
 シナで科挙が完成した宋代はまったく文人の天下。
 清の二百数十年のあいだに満人は漢人に化せられて、満州人は一時其の故郷を失ひ、国語も亡ぼされた(p.9)。
 日露戦役後最近に至るまで実益を収め、領土を拡張した者は支那である(p.10)。
 古代人は知力を畏怖したから「かしこし」と言うのである。
 日本の権威はどこまでも官職にあって、氏族になかった。だから貴族は官職をもとめた。それがなければ無力であった。
 中央で立身できず、阿諛追従のできない覇気ある野心家が、あえて文化の冠絶する都を捨ててクソ田舎の国司になろうとした。
 住民はそのような人材を大切にした。
 任期が終わって国司を交替すると後任者から不正私曲を摘発される。だから居座り、子孫が地方豪族になった。
 長元5年、数十人の強盗が安芸守宣明の邸に押し入って、主人や妻を射殺した。
 それでも犯人を公式に死刑にできなかった。
 前九年と後三年役では大雪と糧食不足に悩まされ、将士ともに馬肉を食った。
 雷雨降雹の烈しさに恐れて鳳輦を棄て去った近衛武官の失態が弘安9年。
 吉野朝支持者がすくなかったのは、大覚寺党の中にも思想分裂があり、去就に迷う者が多かったため。
 参考源平盛衰記に、10月4日、早尾坂の城の防禦側(堂衆)が、「岡には大石を並て石弓をはる」。そして、攻撃側(院宣をうけている清盛と、その官兵にサポートされた学生)は「多は石弓に打れてぞ亡ける」と。※これはカタパルト投石器か。
 太平記はいう。北条氏討滅の謀議をすすめるため、やかましい格式をいわずに同心の者を集めるために、後醍醐天皇が無礼講といふ事をはじめたのだと。つまり身分を超えた秘密結社だった。花園上皇の日記にはこれを「破礼講の衆」とも。
 ※日本のクーデターチームが望んできたのは常にこれだ。
 夢窓国師は次のように尊氏を褒めた。合戦の間の肝が据わっている。降参した敵を許すことができる。物惜しみをしないで部下に武具でも馬でもなんでも下し給う。
 国家守護を高唱する古京6宗は上代的、現世利益を高調する密教は中世的、死後の冥福を力説する浄土教は近世的宗教である。
 禅宗の原始教団は反貴族的なのがモットーで、生活費は自らの労働により、静室以外には伽藍をつくらず、階級もない。これが民衆を感激させた。しかし権力者と結びつくと祈祷密教になった。
 武家は毎日、五山を訪問した。目的は美少年。禅寺の経済力で訓練され化粧された美少年は、武家の美少年より魅力的だった。禅林は武家専属の待合になった。
 御相伴給仕、御前給仕は芸者であり、御相伴衆は幇間である。待合政治はここから始まる。
 増水……水が多くてコメの少ない粥。
 足利幕府が京都では全部抱え切れなくなった多数の禅宗の知識人たちが地方に拡散して武家を相手に儒学を教えることを新商売にした。
 清正は熱烈な法華経信者だったが行長は基督教徒。両人の葛藤は朝鮮人も見抜いていた。黒田如水は行長を、執拗の夫にして他言に従はず、と。
 後光明天皇から、仏教を斥けて、江戸幕府を真似て新儒学に凝った。すなわち貴族の秘伝であった漢唐の古註ではなく、朱子の新註で論語を読んだ。