摘録とコメント。

▼『鉄の博物誌』
 隕鉄には4~40%のNiが含まれ、砂鉄にはチタンが含まれる。
 ※隕石でつくった「あめのぬぼこ」は錆びなかった?
▼田中重久『日本に遺る印度系文物の研究』S18年
 悉曇文字(Siddham Letters)を日本にもってきたのは空海。横書き本位なのだが、藤原時代末期に崩れて縦書きに。
 須彌山(sumeru)=妙高、善高
 「塔」は塔婆の下の婆を日本人が省略したもの。
 もともとパーリ語thupa(これが英語towerに変わる)、またはサンスクリット語stupaが漢訳されたのが「塔婆」。
▼長谷川熊彦『わが国古代製鉄と日本刀』S52年
 安田徳太郎によると、「タタラ」は印度語「タータラ(猛火)」から。「ズク」も印度語からだと。
 韃靼語でも猛火のことをタタトルという。
 戦国時代、農具の65%は鉄製、のこりは石器だった?
 漢代に焼き入れ加工法が開発された。
 硫化鉄鉱は日本に大量に賦存するが製鉄の目的には開発されていない。
 最も大量にあるのが砂鉄。少量のものは赤鉄鉱。
 全国いたるところに火成岩があるから、全国いたるところに砂鉄が出るわけ。赤城山では軽石中に砂鉄が含まれている。
 鹿島地方は利根川砂鉄で古代から製鉄していた。
 3世紀半頃、文武天皇は東辺と北辺に鍛冶を置くことを禁ず。
 大宝令でも砂鉄採取を許可制とし、東北の製剣を制限した。
 明治から大正まで、陸軍工廠で坩堝製鉄の原料として和鋼(慶長以後、高熱化したタタラでつくられた鉧・ケラ。それを餞別したのが玉刃金)を採用、海軍工廠でもM30頃まで酸性平炉に和錬鉄を用いた。
 包丁鉄は軟錬鉄。地金が包丁の形だった。
 蕨手刀の刀身は腕力で曲げることができる。
 大化改新で8省が置かれ、そのひとつの兵部省の下に造兵司がおかれ、国の武器製作を一手に引き受けた。
 701に造兵司の制度があらたまり、商売するようになり、銘も入れられるように。
 大宝年間に刀匠が地方に分散。豪族の直接註文をうけるようになって日本刀ができてゆく。
 蒙古は長大な青龍刀を使用し、それが南北朝の大ダンビラになった?
▼イワノフ&スミルノフ『英米建艦競争』訳S9年
 1597、エリザベス女王はポーランド使節に、中立商船貨物拿捕の合法性を主張。WWⅠでアスキス首相は、「この際どんな経済的圧迫も正義」と封鎖の非合法性を棄却。
 ドイツ外交の失敗のために、イギリスはアメリカの利益を損する海戦策続行の責任を容易にドイツに課すことができた。
 ドイツ封鎖に使われた機雷の82%はアメリカ製。
 英ではWWⅠ後、「国内艦隊」が艦列から取り除かれる。
 WWⅠでドイツは376隻のサブを参加させ、うち201隻が沈められた。しかもSUBによって撃沈された軍艦はあまり多くなかった。
 シーレーン防衛や軍隊輸送阻止にもSUBは向かない。唯一役立つのはエスコートされない商船攻撃のみ。
 英人ルドウエルは1920sに『我々は石油のために斗う』を著作。
 英提督ハーバート・リッチモンドは、将来の艦の最大限を1万トン以下とすることを提案。米は反対。
 ロンドン会議頃のサブの寿命は13年。トンあたり建造費は戦艦の3倍。
 著者いわく「将来においては艦隊を編成するあらゆる種類の艦船が恐らく潜水能力を持つであろう」
 ハーバート・ラッセル「我々がアメリカの要求に同意しない場合にアメリカが行わんとするものを極めて明瞭に暗示することによってその要求を表明しようとするやり方は、イギリス国民の脳裡に少しも好い印象を与えなかった」
 著者は航空機や水雷の優位を否定し、戦艦による「海面占領」は可能だとの立場。
 ロンドン会議当時ホノルルのドックは一度に1隻しか修理し得ず。
 地中海の平均視程は8哩。
▼レーモン・ルクーリー『フォッシュの回想』洪泰夫 tr.S6年、東京水交社pub.
 筆者は日露戦争でロシア側の連絡将校。
 WWⅠにはポルトガルも参戦している。
 Notus in fini velocior 運動は終わりほど加速する。戦争は末期がめまぐるしい。
 遊動部隊は敵予備隊の破壊というような最終段階に近づくほど増速する。
 フォッシュはルデンドルフの回想録を評して……決定的勝利は1回の攻撃成功で獲得できるものではないのにドイツ参本は第一幕のシナリオしか立案していなかった、と。
 Un Armee battue est une armee qui se croit battue! 敗軍とは自ら敗けたと想った側。
 ナポレオンの格言。 La guerre, un art simple et tout d’execution. 戦争は簡単、そして、すべて実行よりなる。
 フォッシュの兵学も深遠でなく単純。これ、褒め言葉。
 エルバ以降のナポレオンは勝てないことがわかっているが戦争せずにいられない気持ちの山師、とフォッシュは見る。
 ヨーロッパ人がアメリカ人を説得する唯一の方法は、「毫も彼等を説得しようとする風を見せない事である」。
 オランダ人は、スペイン~オーストリー領のフランドルに要塞を維持し、以て1715~1781の間、平和を達成した。だからフランスもラインの独領を手放すべきでなかった。
 フォッシュはゴルツ著『ガンベッタと共和国軍』を読んだ。
 プラハからブダペストを通って東部カルパシアに通ずる地方は戦時においてその防禦が困難。
▼伊東光晴監修、エコノミスト編『戦後産業史への証言 一』S52年
 明治20年に所得税が創設されたとき、法人は非課税。株主が配当をうけたとき、その所得に課税。
 富裕税はうまくいかない。宝石、現金は捕捉できない。
 アメには給与所得控除がなかった。これをモス~マーカットに認めさせた。
 シャウプが外圧かけてくれなかったら戦前の所得税取り過ぎは是正できなかった。
 大正12年まで定期預金の利子は非課税。これで明治の資本蓄積ができた。
 大正2年の重要物産免税制度。金銀鉄の採掘の所得を免税する。
 これを昭和6年以降、飛行機製造などにも拡大。
 これが敗戦ですべてなくなり、代わりに主税局長が特別償却を考案。投資奨励。インセンティヴ。弱きパイオニアを助ける。
 講和発効は27年からだが課税自主権は実質26年に取り戻していた。
 政治家はやはり自分が大きな減税をやりたい。だから総理になる前は反対で、総理になると急に乗り出す。
 ラジオの物品税は、真空管を用いざるものは除く、としていたので、ソニーが延びた。当時トランジスタは真空管より5割コスト高だったので、量産数が真空管に並ぶ前に課税していたら今のソニーはなかった(p.38)。※なんとも役人は恩着せがましい。一般消費税にしていたって、ソニーは伸びただろう。
 昭和27年に12インチの白黒テレビは18万円した。大蔵官僚の月給が3万円のとき。
 揮発油税は昭和18年に専売になって廃止。それが24年に復活。
 29年に角栄がこれを目的税にして道路にだけ使うこととさせた。これが時限立法でないところが異常。アメではガソリン税の2/3は一般財源に入れている。
 この石油の目的税化のアイディアそのものは鮎川義介が戦犯刑期を終えてから力説した。日本の道路は悪すぎ、これが経済効率を悪くし、拡大を阻むと。このときプレゼン受けた代議士たちは「みんなでやったんじゃ票にならねえ」。田中だけがこのアイディアを覚えていた。
 S31年時点で米国調査団いわく、日本の道路は先進国一悪い。国道舗装率が1割。
 軽油取引税を府県の地方税にしたのは失敗。バスとトラックしか使わないので軽油を上げるとバス運賃に連動するから上げられない。国鉄はこれでダメになった。
 また、卸売り課税なので徴税も困難。国税化して元売りで捕捉するべきである。
 田中の2兆円減税で日本の所得課税最低限は世界一になった。
 このくらいの巨大減税をやると、それをきっかけとして、税体系のオーバーホールができるので、主税局は嬉しい。
 社会保障を本格化させるには所得が完全に把握されておらねば不公平になる。国民総背番号制が必要なゆえん。
 ところが郵貯の非課税枠を通帳を複数作って悪用している国民が多すぎ、総背番号制を導入できない。
 保険会社は経済専門家でもよくわからない。
 通産省のエコノミストの先駆は林信太郎だ。
 戦前、国産ミシンのメーカーは蛇の目(東京)、三菱(和歌山工場で、大阪市場)、ブラザー(名古屋)。後の2社のは軍需工場用。シェアはほとんどシンガーの輸入品。
 国産ミシンは昭和23年から輸出はじまる。シンガーは軍需転換しており、それを民需に戻そうとしていたときに朝鮮戦争が起き、WWII後に抑制が解かれて爆発した米国内需要と世界需要に即座に対応できなかった。そこにユダヤ人が気がついて日本のミシンを入れた(p.66)。
 大阪のミシン生産は、かつての砲兵工廠の下請けの町工場。かつてのシンガーのセールスマンや修理工が長屋の土間で、精度の悪い汎用機を使って始めた。
 昭和12年で工作機械の輸入は止まり、100分の1ミリ、または1000分の5ミリの精度を熟練工に頼っていた。昭和30年まで工作機械は自動ではなく手動。
 ただし30年以前はジグザグミシンではないのでそこは楽。
 この工場で1000台単位の輸出オーダーに応えるのは、契約キャンセル時のリスクが大きすぎる。そこでブランド力のある大手がアッセンブルメーカーとなり、パーツを無数の長屋工場に外注して、ホリゾンタルにリスクを分散した。
 役所は戦中の生産第一主義で、このようなアッセンブラーの役割を評価できない。
 60~66万台の汎用工作機械とそれを動かしていた熟練工の失業者が、敗戦時に国内にあった。それをミシンが糾合した格好。
 これら工作機械の単能化は29年から。
 工場のメインのモーターからベルトで動力を分けるのではなく、それぞれの工作機械に1個づつ電気モーターが附属するようになるのが昭和30年以降。
 機械が汎用でなくなると、たとえばミシン部品から自転車部品への転換などはきかない。そのかわりに効率がよくなり、賃金も上がる。
 外国の優秀な工作機械を買った者には半額、国が補助することに。さらに、通産省が指定した高級マザーマシンを試作したら、その費用の半分~75%も補助。
 多軸ボールはミシン部品づくりで初めて採用され、それが自動車のエンジンブロック造りに発展した。
 艦砲メーカーだった日本製鋼の宇都宮工場もミシンに乗り出したが、大阪のような分業でないのでコスト高。
 関東の東京重機、富士精機(旧中島飛行機)などは、アセンブラーはブローカーだと馬鹿にして、註文を全部大阪にとられた。
 トヨタ系のアイシンはすばやく大阪方式を真似た。
 シンガーの部品を調査すると、熱処理管理が素晴らしい。中はやわらかく、表面は堅い。その層が均等である。だから摩擦も回転も均等。日本のは不均等だった。
 31年にスイスの時計工場を視察したらまさに大阪のミシン方式の社会的分業であった。
 次にカメラでも社会分業をさせた。シャッター、ボディ、レンズを分けてしまう。
 フォーカルプレーンだとボディと分離できないが、レンズシャッターは分離できる。そのプロンプタータイプは板橋の長屋工場のコパルにやらせた。コンパータイプは服部時計店に任す。
 コニカ、ミノルタ、マミヤはシャッターの自家生産をやめた。
 この結果、カメラの精度はよくなり、しかも安くなり、メーカーはデザインを簡単に変更して急速に量産もできるようになった。27年に国産シャッターは4800円した。それが35年には800円に値下がり。しかも性能は高い。
 もともとレンズの仕上げ用の測定機械は戦中に潜水艦でドイツから取り寄せた。海軍御用の日本光学と陸軍御用の東京光学はすでに戦中に高いレベルのレンズメーカーになっていた。あとはシャッターだけだった。
 朝鮮戦争ではライフの記者がニコンの1.4レンズをライカにつけて高い評価を得た。
 シャッターが弱点だったが社会分業で克服されたのでメーカーのエントリーがやさしくなった。
 日本の時計産業は系列支配で社会分業をしない。パーツメーカーは従属的である。しかしシャッターのように社会分業をすれば下請けはどこに部品を売っても良い。立場が強くなる。
 またスケールメリットで輸出の価格競争力もつくのである。
 昭和30年代の後半は、ECの日本ミシンに対する300%従量関税(禁止関税)をどう阻止するかの戦いだった。ECとは関税同盟に他ならない。
 そこで現地の新聞キャンペーンをやった。
 一流紙である『フランクフルターアルゲマイネ』にしても『ルモンド』にしても、欧州の新聞は「記事広告」の営業が堂々とある。
 これは、たとえばジェトロが、日本のミシンのためになる記事を書いてくれるように編集部に堂々と頼めるのである。するとその記事は、単発でなく、短い別々なものが、1ヵ月に何度か、載る。その記事面積を月ごとにトータルして、記事広告料は出来高として後から算定される。1ページ広告を打てば200万円だから、それを基準に算定する。その額をあとでジェトロは当該新聞社に払うわけだ。これは広告会社を噛ませる必要は全く無い。※欧州紙に載る反日親支記事はこういう背景でしょう。
 意見広告の場合は、向うの「電通」のようなところに頼めば、万事やってくれる。しかも、現地での「味方」を結集してくれる。
 ミシン関税を阻止するために日本に招待するならどの政党の誰が良いのか。こういう情報は現地の広告代理店はもっているが、日本の大使館と役所はまったく把握していなかった。
 外国の要人らも「招待は夫人なしにしてくれ」という。どこの国も同じ。ゲイシャと遊びたい。
 フィンランドではセールスマンは小型飛行機を自分で操縦して移動する。
 OEM輸出はリスキー。最初は良いが、しばらくするとわざと数ヵ月、輸入信用状を送って来ず、日本国内に滞貨させておいて、そこへバイヤーがやってきて、値切り交渉を始める。従わざるをえぬ。
 ライカのM3は落としても壊れない。こことミノルタが提携した。またツァイスとヤシカが提携した。以前には考えられない。
 ドイツはWWⅠ後に外国から経済機構をいじられた経験があるので、WWII後のアメリカの理想主義的独禁政策は半公然にサボタージュした。カルテル庁をつくるにはつくったが、それをわざと西ベルリンに置いた。国民が自由に行き来できない場所である。
 西ドイツで過剰投資が起きないのは、労働者が経営に口を出す「常任監査役会」があるから。
 日本では銀行が護送船団式のため、一社がある設備をつくると、フル稼働のメリットがないうちに他行系列の他社もまねして同じ設備をつくらされ、互いに操業率がガクンと落ちる。西ドイツでは都市銀行の頭取が数社の「監査役」を兼ねて毎日国内を飛びまわっているから、重複投資計画を発見すれば、バカなマネはやめろと止めさせる。その権限は各社の社長より強い。
 フランスではエコールポリテクニクを出た人間は人種が違うので、面会する前にエコポリ卒であるかどうかは調べておく必要がある。
 労働集約が強みの日本は、一品手作りのプラント輸出で先進諸国と競争できるのではないかと甘く考えたら、ノウハウがなさすぎて成果揮わず。
 豊崎稔は戦前から日本の工作機械の段階につき研究し、現状ではとてもアメリカと戦争できないと考えていた。
 伊東「戦争中、擲弾筒というのが、工作機械が悪いために爆発して、私たちの仲間が死んだ事故がずいぶんあった。そのくらい日本の工作機械はひどいものだった」(p.106)。※真相はそうではないことは兵頭既著参照。
 芝浦工作機械が直径5mの歯切機をつくり、ソ連に輸出した。
 大型容量の発電タービンについて電力会社は通産省の国産愛用指導に反発した。高温高圧下でのブレードの耐久力がぜんぜん違った。
 昭和24年のポンド危機のとき、ポンドスペンディングポリシー(ポンドが支払い手段になりそうな輸入はなんでもやれ)。
 そのとき本田宗一郎が17億くらいヨーロッパから工作機械を買いたいと申請を出した。
 日銀にはその意義がわからなかったので通産省は口添えして輸入させた。これで本田は伸びた。※とまことに恩着せがましいことをしゃあしゃあと言うのであります。
 アメリカからの資本の自由化要求に日本は応ずるべきか。通産省が35人くらいの職員に半年かけて欧州の米企業の悪行を調査させ、結論として、NO。
 商品の自由化(貿易の自由化)と、資本の自由化は違う。後者は、日本のレイバーを外人経営体が利用できることを意味する。見えない支配をされ、どんなに稼いでもアガリは全部国外へ吸い出される。
 アメリカは資本が強い(自社留保は巨大で、間接資本=銀行借金にも頼っておらず、ケンカの体力がある)。その強みだけを自由化せよと他国にいう。日本はレイバーが強いが、米国に自由に移民できるわけではない。それでは不平等条約だと。
 戦後米国留学組の近経の学者たちは、この問題ではまったく脳内お花畑であった。新日鉄のときもそう。
 貿易自由化は、コストカット努力でなんとかサバイブできる。資本自由化は、日本職人の努力=外人投資家の儲け、になる。
 石橋湛山は、ものつくりインダストリーが大事で、ファイナンスはそれに奉仕せよという信条。池田はOECDを先進国サロンと考えて自由化に熱中。
 とにかく時間をかせいでメーカーに最新設備を充実させた。技術面で日本が優勢になると、アメは屈服させるのをあきらめる。装備がいい相手には狙いをかけない。
 佐橋滋の師匠は河合栄治郎。河合は農商務省出身。河合いわく、昭和10年でもっとも理想的な職業は官吏だと。じぶんの良心にそむかずに、やりたいことがやれると。
 昭和12年の河合門下は、日本は将来、社会主義になる可能性があると考えていた。つまり金融(大蔵省)の将来は怪しい。そこで佐橋は、何主義になっても必要なはずの、生産・配給・消費をつかさどる商工省を選んだ。
 入省の年に支那事変。高等文官を受かった官僚のタマゴは兵隊にとらないという不文律がそれまであったのだが、甲種合格で13年1月入営。師団付き見習い士官として漢口へ。間一髪の16年10月に、中支那の主計将校全員が召集解除になったので役所に戻れた。
 衣料キップ制を担当して、統制経済の絵空事であることを痛感。
 まず原料ストックの総資材から数年分の国民ひとりあたりの用布量がnnメートルと算出される。そこから逆算してネクタイ1点、靴下1点、背広10点などとする。
 ところが必ず想定外の「特配」需要が判明する。相撲取りのフンドシ。これは練習用の他に本番用の絹マワシがある。絵描きは日本画は絵絹、洋画はキャンバスが要る。キリがない。
 佐橋は18年10月から鉄の担当になり、すぐに、翌19年初頭には鉄製造力がゼロになって継戦不能となると弾きだした。
 鉄鋼とは輸送業である。鉄鉱石も石炭も日本のは品位が悪く、鉄1トンつくるのに6トンの原料輸送が必要だった。船の稼動隻数のグラフの右下がりと、鉄鋼生産の右下がりは完全に連動していた。だから昭和19年初頭には、汽車で運ぶもの以外には何もなくなる。少なくとも鉄はつくれない。
 この報告をみた閣僚がびっくりしたというので、佐橋はまたびっくりした。そんなことさえ知らずに戦争をやっとるのかと。
 終戦後、熱血漢のキャリア官僚は多く労働組合に参加。
 佐橋は戦後、紙業課長。「生涯でも、こんな大きな権限をもったのはこれが初めにして最後だった」。子供の教科書からノートから新聞雑誌出版、切手、たばこの巻紙まで何でも割り当てをする。
 重工業局は自転車も範囲なので、競輪のスキャンダルがあると局長は国会にピンどめされる。おかげで次長が本来の重工業行政を任される。
 そこで、巡航見本市船を実現。
 大蔵省主計局は「そのアイデアはいいが、金は出せない」とは決していわん。アイデアが悪いから金を出さないという。
 日本のような馬鹿な予算算定方式は万邦無比。
 各省は5月ごろから次年度の新政策の立案にかかり、8月中に概算要求書を大蔵省の主計局に提出。
 9月から主計官に、各省の者が出向き、割り当てられた時間内で説明する。
 要求に応じて追加資料も出す。一省の資料を合わせれば天井に届く。
 12月に主計局から第一回の査定がでる。新政策はほとんどゼロ査定になる。
 各省はねじり鉢巻でみずからの要求を削減し、謹慎の意を表しながら第一次復活要求。
 数日して、目糞ほどの復活を認めた第二次査定。
 各省各局は悲憤慷慨しながら逐次削る。
 与党との連絡が頻繁になり、攻防ともに不眠不休。
 最後に、主計局と妥協するものと、政治ベースにあずけるものとに区分けして、大臣折衝の儀式へ。
 現行方式では一主計官の権限は各省大臣以上。この権力をじぶんから放棄する馬鹿はいない。
 昭和30年代前半は報道用と観光用だけに外車の輸入を認めていた。
 日本の綿製品は、エジプト、シナ、アメリカの綿花を適度に調合するところに秘密の技術があり、競争力があった。29年まではこの加工貿易が大宗。
 局長は行政機関の長だが、国会はあれやこれやの委員会で一年中局長をくぎづけにして、朝10時から夕方まで、本来の仕事をさせない。これは三権分立の侵犯だ。政府委員は局長でなく専門の次官補を置いて、ひとりが数局づつ担当すればよい。
 佐藤栄作通産相は経済に強くなかった。経済の説明をされたときに、ハダで分かる人と、わからん人がいる。池田はわかっていた。佐藤はわかっていなかった。
 公取委員長が歴代大蔵官僚とは七不思議だ。銀行の金利、重役のボーナス、支店の開設、ぜんぶ統制していた役人が、どうして自由主義や独禁法を守れるのか。
 戦時中に原料不足の紡績会社を整理した経験からいえること。残るものが廃止するものに餞別を出してケリをつけるしかない。
 法案は、与党内に3人くらい猛反対がいると、進まない。
 資本、物資、供給がすべて不足のときは統制計画も良い。しかし世の中が豊かになると、品質格差に公定価格をうまくつけることができず、統制は崩壊する。
 造船は電気熔接技術が他国を凌ぐようになってようやく一本立ち。
 鉄鋼屋いわく、日本の造船が世界一になったのは、合併した新日鉄が鉄を安く供給したからで、それが原因のすべて。
 銀行と政権中枢は口が堅い。他の政治家は秘密を守れない。
 昭和40年までは米政府のうちで国務省が見識と権限をあわせもっていた。ところがそれ以降、米国は経済がへばってきて、商務省が強くなり、米国の外交と商売が一緒になった。まさに「アメリカ株式会社」。
 日本の会社は借金経営で自己資本率が低いから、資本を自由化したら、わずかなカネでアメリカ資本に支配されるだけ。
 戦後日本には知識集約産業としての兵器産業・航空機産業が無い。とすれば、その代役として、コンピュータと自動車に活躍してもらわなければならない。この2業界は外資に対して保護する必要があった。
▼国立歴史民俗博物館『動物とのつきあい』1996
 日本の庶民がイヌとネコをペットとして飼育するのは明治時代から。西洋人の習慣が模倣された。※ポチは「spotty」。
 イエネコは縄文時代には飼われていない。遅くも古墳期には輸入された。
 サルは中世にかなり飼育された。
 中世のネコは首紐でつながれていた。
 縄文イヌは体高40センチ、前頭部に段(ストップ)がない。後の柴犬とは違う。東南アジア渡りであってシベリア渡りではない。シナの金属器時代に飼育されていたイヌと同じもの。
 縄文人はイヌが怪我をしても捨てずに飼い続け、死ねば埋葬した。弥生人はイヌを食い、埋葬はしなかった。イヌの埋葬は、江戸時代まで復活しなかった。
 細縄にトリモチをつけて沼に漂わせ、水鳥を捕るのがボタナ猟。
 ウナギ漁師は水鳥も捕った。だから魚屋ルートで鴨も売られた。
 房総のクジラ漁はツチクジラ対象。
▼『京都大学総合博物館春季企画展展示図録~王者の武装』1997
 5世紀なかばまで、よろいは鉄板に黒漆を塗っていた。それ以降、金色の武装が好まれる。装飾太刀、飾馬。※つまり国内が平定され文官が威張れる余裕が生じた。
 鉄の鋳造が難しかったので、環頭太刀は金銅。
 金銅は銅板に金メッキしたものだが、土中では銅イオンが表に染み出てきて緑青になる。
 水銀と金は容易に混ざり、そのとき金色は消えて水銀色になる。だから「滅金」と書くのだろう。このアマルガム・ペーストを銅板に塗り、銅板の裏から加熱すると、水銀が飛んで金色が定着する。
 朝鮮半島南部で出土の多い、蒙古鉢形のかぶとは日本ではほとんど出土していない。
▼小島和夫『法律ができるまで』S54年
 内閣提出法律案は、所轄省大臣が下僚に法律案の原案を作成させる。同大臣は関係各省と意見調整する。また内閣法制局に法律案原案の下審査をさせる。
 次に、閣議請議のため内閣官房に持ち込まれる。ここでも内閣法制局と相談。次に、事務次官等会議に回される。その後ようやく、閣議。
 そして国会提出。
 議員が所属する政党の政策を表明または実現するための法律案は、まず、政党の政務調査会が中心になって検討する。
 国会関係の法律案は、議員運営委員会の委員長が提出する。
 また、各党の合意が得られた他の分野の法案も、同委員長の提出とする。
 提出先は、先議の議院の議長である。
 両院で原案どおり可決されると、最後の議決のあった院の議長→内閣官房→閣議→奏上となる。奏上の日から30日以内に官報で公布される。