芥川龍之介とモルガン一族

 読書余論にとりあげた『モルガン家』は、邦訳が1993年に出てるんですよ。
 で、その中にこういう情報が載っていた。
 ――ピアポント・モルガン(1837-1913)は、鼻に難治の皮膚症があり、容姿コムプレクスに生涯、囚われていた。彼は自分の広報写真はすべて修正をさせ、また、欧州王室の薦めるあらゆる治療法も試みた――。
 さて、ここからクロニクルです。
 1903年、つまり明治36年に、別人(だが親戚筋)の若き美術蒐集家のモルガン氏が日本の芸妓を身請けした。労作『モルガン家』から想像するに、当時の日本人は、J・P・モルガン本人と、その周辺のモルガン氏またはパートナーまたは同名会社(たとえば英国にも系列投資銀行があった)の区別はまったくついていなかった。
 1913年に、アメリカの金融王J・P・モルガンは死去した。
 1916年、つまり大正5年の2月、 24歳くらいの帝大生・芥川龍之介が雑誌『新思潮』に発表した「鼻」を、漱石が本人あての手紙で激賞した。
 卒業後の龍之介は一時、海軍機関学校の英語教官をしていた。
 1926年、つまり大正15年の3月、芥川は「モルガンお雪」がかつて住んでいた京都の広い空き家に住むことを検討した。
 ……おそらく作家芥川は1913以降にモルガン関連の情報を収集したでしょう。
 J・P・モルガンの死没直後には、モルガン銀行創始者の一代記が米国の新聞や雑誌に載ったはずです。右寄りの媒体もあれば、左寄りの媒体もあったでしょう。英語の得意な芥川は、そのいくつかを東大の図書館で読むことができたでしょう。
 さらに、当時の芥川の近辺には共産主義者がたくさんいました。共産主義のインナーサークルにおいては、モルガンのような大資本家のスキャンダルは組織的に丹念に拾い集められ、悪宣伝の材料とされていたでしょう。
 作家が駆け出し時分に集めた資料は歳をとっても作品のモチーフになることがあるかもしれません。つまり、芥川の「鼻」以降の他の作品にも、20代であつめたモルガン一族関連情報が反映しているかもしれませんね。
 時間のある若い研究家諸士は、この辺に注意して読み直すと、発見があるんじゃないでしょうか。
 ところで……今日は日中は曇天で戸外の太陽電池は充電がほとんどできなかったと思われます。つまり、今晩から明晩にかけて、いよいよ「ソーラーボール」の真価が試されるでしょう。
 いまのところですが……、他の製品と比べて、段違いにすばらしすぎるぜ(株)オーム電機の「ソーラーボール」はヨォ!