1946元旦詔書は、占領下の国際法違反の偽憲法を予め拒絶していた

 占領下の昭和天皇は、大臣や国会議員らと同じく、米軍の捕虜・人質であった。
 誰もが、随時に勝手な理由で逮捕され、日本国内や、国外での極東軍事裁判に引き出されて、死刑や終身禁固を言い渡され得る状態に、置かれていた。
 また公務員や企業幹部の誰もが、一方的に簡単に「公職追放」をされ、生活の資を絶たれ、一家で飢餓に瀕する可能性があった。
 敵国軍の占領下では、元首から末端国民まで、全員が無権力で、その生命を直接に敵軍の銃剣間合いに脅迫されていて、とうてい自由意志など発揮しようがないのである。
 軍事占領下で、敗戦国の政府が、不本意な条約を結ぶことは当然にある。これは国際法で認められている。だいたい、すべての媾和条約、平和条約は、敗戦国にとって不本意なものなのだ。それに後から文句をつけるのは、シナ人と朝鮮人だけである。
 しかし軍事占領下で、占領軍が、被占領国の憲法や法律を変更することは、主権者が生命を脅迫されていることがあからさまである以上、国際法で認められてはいない。
 マッカーサー偽憲法は、この国際法を蹂躙して被占領国に押し付けられたものである。
 マッカーサーを善人と見たがる人士がいまだに多いことは驚くべきことだ。GHQには良い人々と悪い人々が居た、と考えたがる日本人が多いことも、驚くべきことである。マッカーサーは、悪代官よりはマシな、江戸のお殿様か?
 わたしが東工大の江頭研究室に入ったのは、江藤淳の『閉ざされた言語空間』が公刊される年であった。じつは1989年までのわたしは、GHQの一部には優れた人々が居たのではないか……と漠然と思っていた馬鹿な餓鬼だったが、江藤の考え方は最初からハッキリしていた。すなわち、そもそもマッカーサーからして二流のアメリカ人だったのであり、SCAPの誰や彼やも、おしなべて大したことのない、二流、三流のアメリカ人だったのだ。大したことのあったのは、彼らの一様なケツのデカさだけだったのである。
 そのくだらぬアメリカ人たちの押し付ける無道に、まったく反論ができなかった当時の日本の要路は、四流ではないか――と、言外に言おうとしているかのようでもあった。『自分だったら、斥けたよ』と。
 マックは二流であっただけではない。本国政府が要求もしない前文や9条を、彼個人の独自の発案として、得々と押し付けたのである。
 もともと二流であるばかりでなく、トルーマンに首を切られたあとの無冠・無責任の立場となっていたマックが、日本の対韓・対満・対支政策を朝鮮戦争勃発のあとから回顧して少し同情したからといって、日本による満洲事変やパールハーバー奇襲開戦の作法が、国際法上の道理として、水に流されるわけでないことが、渡部昇一教授にはどうして分からないのか。
 パリ不戦条約を天皇の名で批准していながら、満洲事変の関係者を罰することができず、パールハーバー奇襲開戦を止められなかった「大日本帝国憲法+教育勅語」の戦前国体は、日本と日本国民から近代的な名誉を奪い、しかも、ほとんど壊滅に追い込みかけたのである。
 これは明治憲法の、国会に対して内閣を超然とさせていた条項、さらにさかのぼれば、改憲条項に、明白な欠陥が、あった。明治22年憲法では、天皇が発議しないと改憲の議論には入れないと定めているのだけれども、臣下の誰もが、面倒な改憲などをしないで、権力を楽しもうと謀った。その臣下に逆らって、立憲君主がやたらに改憲の音頭をとれるわけがなかった。
 1945年9月、日本国民が絶滅せずに休戦媾和に持ち込めたのは、天佑だと、昭和天皇は観念した。1945年10月、マッカーサーは、日本政府に改憲を要求した。これは軍事占領中にしようというのであるから、明瞭な国際法違反である。しかし、日本人は全員が米軍の人質にとられている。逆らえば共和制の米国によって日本の皇室は潰され、皇室が潰されれば、日本は日本でなくなってしまう。
 そこで昭和天皇は、1946年1月1日、決意を籠めた詔書を発表した。
 四流の日本人は、誰一人、その意味を悟らなかった。
 1946元旦詔書は、マッカーサーの人質であった昭和天皇が、皇室廃絶の脅迫を受けつつも、ギリギリの本心を含めて全臣民に向けて発した、理性の注意喚起である。
 いわゆる現人神を否定した意味は、「大日本帝国憲法+教育勅語」の破綻の承認であった。いかなるコンスティテューションも、ネイションの自殺を予定しない。然るに「大日本帝国憲法+教育勅語」の戦前国体は、日本国の自殺を招いてしまうことが現に実証され、歴史の試練に堪えられなかったのであるから、昭和天皇は、その欠陥のある憲法空間の停止を、非常大権によって当然に承認するのである。
 同時に昭和天皇は、1868年の「五箇条の御誓文」に、特に言及された。五箇条の御誓文こそは、万国公法の近代的自由主義に賛同し、日本国の独立を戦って守ることを誓った下級武士たちに、明治帝が同意されたマグナ・カルタである。
 明治23年教育勅語と明治22年憲法の停止に同意された昭和天皇は、その代わりに、維新のマグナ・カルタである慶応4年の五箇条の御誓文まで帰るべしと、1946年元旦、日本国民に命令されたのである。米軍の銃剣が常につきつけられていた故に、その外形は命令ではないが、内実の意義は勅命であった。この瞬間、日本は五箇条の御誓文が目指そうとした、明治維新という近代自由主義革命の精神に基礎を置く、不文憲法のコンスティテューションに移行したと考えられる。
 さらにまた昭和天皇は、1946年中にマッカーサーから武力脅迫をもって押し付けられることになりそうな「偽憲法」が、もしも、国際法違反のシロモノであったり、あるいは人間の理性に反するものならば、「五箇条の御誓文」に立脚する近代日本国として、断然それを否定せねばならないことを、元旦において予め、御みずから誓い、且つ、臣民にも命下されたのである。
 四流の日本人は、いまだにパールハーバーが自衛だったと言い、教育勅語はすばらしいと言う。
 そう言っている限りは、昭和天皇の1946元旦詔書は、いつまでも暗号のままであろう。
 〈自分らは他の外国人とは違って特別なのであるから優遇しろ〉という在日朝鮮人の発想などは、まさに「教育勅語」の反近代的な発想にうまく嵌まっていると評し得る。教育勅語の反近代性が直感できない日本人が多いために、これほど朝鮮人は増長したのであった。
 明治23年の教育勅語は、身内は特に重んじろ、身内の外側の人は、より軽く扱ってよい、と、そそのかしているのだ。まさに、反近代的なシナ・朝鮮式の伝統発想であって、じつは、「五箇条の御誓文」がそのままリアライズされるのを恐れた国内の封建思想グループからの、露骨な反逆に他ならなかった。
 昭和天皇は、五箇条の御誓文を改めて選んだことによって、五箇条の御誓文とはバッティングする指針であった、戦前日本の癌・教育勅語を破棄されたのであった。
 納税と国防の義務を負う国民に、それにふさわしい権利を平等に与え、かたや国防の義務を負わない外国籍人には、日本国民よりも制限された権利を平等に与えるのが、「法の下の平等」であろう。戦後、納税すらまともにしていない朝鮮人が、他の在日外国人よりも不当に過度に行政から優遇されている実情こそ、近代法理の「法の下の平等」に反する不平等であって、五箇条の御誓文に立脚する不文憲法を踏みにじる行政の犯罪である。