繰り返し

 日本時間の1945年8月9日午前零時は、モスクワ時間の8月8日午後5時にあたる。モロトフ外務人民委員は、佐藤駐ソ大使に、午後5時から面会。そこで、ソ連の対日参戦を通告した。
 満洲時間(=日本内地時間)の8月9日午前零時すぎ、ソ連軍爆撃機が新京とハルビンを爆撃し、地上部隊が満ソ国境を越えた。
 東京の鈴木総理大臣は、ソ連の参戦を、10日の朝に承知する。ニュースソースは短波ラジオであった。
 ハーグ陸戦条規の宣戦規定の外形的な遵守は、こんなものでよかったのだ。外務省の幹部や、退役大将を外相として送り込んだこともある海軍の幹部は、それが分かっていた。しかし1941年12月8日の東京の日本外務省は、敢えてこの方法は採らなかった。
 もう1934年から、AT&T社は、米国の太平洋岸と東京を、無線でリンクして、音声電話の国際通話サービスを始めていた。高い料金さえ払えば、日米間で、電話会話すら可能だったのだ。海底ケーブル網による電信は、もっと早くから全世界の都市を結んでいた。もちろん東京の各国大使館には、自前の短波無線装置、長波無線装置、自国の商船や友好国の軍艦を借りての無線送受など、百般の通信連絡手段があった。
 つまり、東郷外相が、東京でグルー大使に、12月8日未明に、今から開戦すると口頭で伝え、さらにその事実を短波ラジオで東京から国際放送すれば、ハーグ陸戦条規の外形的な遵守は、達成されたのだ。しかし外務省はそれをしなかった。海軍との間に事前の共同謀議があったからである。
 野村大使も、東郷外相も、日本海軍が1929年のパリ不戦条約批准の後も「寝首掻き」方式での開戦しか考えていないことを、重々、承知していた。統帥権独立は、海軍軍令部が堂々と国際法を破り、国家として五箇条の御誓文に背くことを許していたのだ。
 奇襲を絶対に失敗させないために海軍は、退役海軍大将の野村をわざわざ開戦時の大使として指名し送り込んでいたのである。ハルはすべてを知っていたから、野村には冷たく対した。
 日本がソ連方式でパールハーバー攻撃30分前に対米宣戦したとしよう(特殊潜航艇の港内突入が最初の急降下爆撃より早かったことは捨象する)。それで「スニーク・アタック」の汚名は生じなかったのだろうか? まったく、以後の日本の不名誉に変わりはなかった。ここが低脳保守には半世紀たってもまだ分からないのだ。
 ソ連は、ドイツがたたきのめされるやすぐに、日本非難を開始していた。日本を侵略者と呼ばわり、その侵略者への反撃をすると、予告しているのである。つまり世界に対する自衛宣言である。これをすることによって、ソ連は「パリ不戦条約」を遵守しようとする意志を、いちおう、示したのだ。
 日本は「パリ不戦条約」を遵守しようとする意思が、ひとかけらもなかった。大本営は、「交戦状態に入れり」とラジオ発表した。〈米英軍が先に攻撃してきたので自衛した〉ではない。宣戦詔書は「自存」といっているが〈自衛反撃〉とはしていない。アジアに新秩序をつくるという余計なニュアンスの本音まで混ぜてしまっている。教育勅語が近代精神を狂わせた最良の見本である。そもそもアメリカの禁輸は南部仏印進駐へのリアクションであり、英蘭の禁輸はドイツの同盟国への当然の態度である。侵略者には世界は禁輸で応えるというのは国際連盟の掲げた精神だった。日本はかつて国際連盟常任理事国であったとき、この禁輸指針に何の反対もしていないのだ。
 ナチスやスターリンですら「自衛」を装うことを心がけ、大いに尊重する構えを見せているパリ不戦条約を、日本政府だけは、公然と、堂々と無視していた。これに、不戦条約の幹事国であった米国の国務省人脈が憤ったのはあたりまえである。マッカーサーが、〈ドイツ人は、12歳の日本人と違って、45歳の近代人だった。つまり日本人は全員条約にすら無知な少年犯罪者であったが、ドイツ人は国際法もよく承知した上での確信犯だった〉と表現したのも、このパリ不戦条約を如何に回避したかの態度の相違を指している。日本政府は回避をせず、ただ、無視したのだ。あたかも不戦条約などこの世に存在しないかのようにふるまった。
 (マッカーサー自身は、戦時国際法ではない条約や法律が将官を罰する根拠になるという哲学を本能的に歓迎しなかった。マッカーサーの父親はフィリピンの虐殺者である。秩序をつくるために破壊殺傷を担任するのが軍人である。軍人が平時法で罰せられてはたまらない。だから、マックが東京裁判のスキームを得心するまでに数年かかった。)
 東京裁判で東條元総理は、「宣戦布告をしての侵略戦争、または、宣戦布告なしの侵略戦争」の計画や実施を咎められている。ハーグ陸戦条規違反は小さなことで、パリ不戦条約が重大なことなのだ。それを一言に縮めたのが「平和に対する罪」だった。
 現役大将であり陸相であり総理大臣であった東条英機は、パリ不戦条約を巧妙に回避する方策をなにひとつ考えられなかったので、近代世界の憎まれ者になった。そしてこの東條と、海軍大臣は同罪である。ハーグ陸戦条規違反に関しては、海軍と外務省が共同で謀議をめぐらした。しかし米国内でのきわめて高度な政治決定により、海軍は免罪された。それによって日本外務省も免罪された。
 戦前にNHKがラジオ放送を開始するとき、東京市内の電話加入者は3万人しかいなかった。
 この電話というシステムはグラハム・ベルが創った。大正4年にはアメリカの都市内の電話は普及がほぼ終わっていて、こんどは西海岸と東海岸との間で、長距離電話をつなげようという段階だった。1945年にはもう全米家庭の5割が電話を引いていた。
 戦前の日本国内の電話交換機も、ベル・システム社が開発したものに準拠していた。とうぜんながら、電話の盗聴技術は、アメリカが日本に数十年も先行していた。
 連合艦隊の旗艦『長門』の呉軍港での繋留ブイと、霞ヶ関の海軍省との間は、延々と、有線電話で結ばれていた。途中には、無数に、盗聴ポイントがあった。おそらく、広島市内に、盗聴センターの一つがあっただろう。その証拠設備は、さいごに原爆で消滅させられた。スチムソンはかつて国務省の通信傍受を指揮監督する立場にもあった。
 ハワイ攻撃部隊の択捉島集結は、千島方面での民間の無線使用までが制限されたことで、札幌の逓信省の文民の役人すら、容易に察知することができていた(see→『寺島健伝』)。電気通信後進国は、一方面での急な電波封止はかえって外国の注意をひきつけることになる、という通信欺瞞の初歩すら、分からなかったのである。
 これに、日本周辺に展開した米英の諜報網が気付かないでいた――と推断する方が、不合理なのだ。
 11月26日の南雲艦隊の単冠湾出撃は、米国要路にリアルタイムで把握されていた。直ちに「ハル・ノート」が書かれた。これをうけた東郷外相は、昭和天皇に、これはアメリカからの最後通牒ですと説明した。だが野村がハルに手渡した交渉打ち切り通告が、最後通牒の体をなしていなかったように、ハル・ノートも、最後通牒などではない。東郷は巣鴨の獄中で、ハルノートを読んで目がくらんだなどと書いているが、もちろん嘘である。
 アメリカは日本海軍と日本外務省の意図的な国際法破りを、すべてお見通しだった。が、高度な政治判断で、日本外務省は東京裁判での断罪から免れた。
 これが、日本外務省が靖国神社や東京裁判イシューに関連してシナからの対米バックパッシング(buck-passing)宣伝工作攻勢をうけると、それに対してまったく反撃の態勢をとりようのない、深い理由なのである。外務省こそ日米戦史の歪曲者であり、過去を掘り返すことは日本外務省の自殺になると考えている。
 したがって戦後の対米宣伝を、脛に傷もち、弱みも握られている外務省などに任せておいて良いわけはないのである。他の機関が推進しなければシナの宣伝攻勢には対抗ができない。さりとて、これが文科省のような二流官庁ではなお役には立たぬ。
 かつてGHQが「大東亜戦争」の呼称を禁じたとき、それに代えてこう呼びなさいという命令はなかったのである。しかるに二流官庁の文部省は自発的に「これからは太平洋戦争と呼ぶように」との旗振りを買って出たのだ。彼らに日本史を任せておくことは危険である。
 戦前の東大生で高等文官試験に上位合格した者は、文部省のような二流官庁を志望しない。高成績に加え、覇気もある者は、内務省に入った。内務省の中核が警察である。GHQは内務省をバラバラに解体することで日本の統治を容易にした。日本の警察は、覇気を維持しつつ、米国とも協力した。
 背後の皇軍を失った日本外務省が、1970年以降にシナの工作と田中派の台頭でますますガタガタになっていったのに、警察は内心で反発し、いろいろな対抗をしてきた。
 たとえば近々、中共の大物が来日する。すると警察は、弾薬庫に保存していた予備弾薬を出してくる。たとえば、(被害者にも自業自得の面があるという点で)解決優先度が高くない、未発表の拉致事件である。総理大臣がバリバリの旧田中派だったら、こんなタイミングでこんな事件の公表をすると首相の警察に対する覚えが悪くなるだけで損だが、今は、逆に総理大臣にも恩を着せることができる。警察のマスコミ利用術は、官庁の中では最も高等である。そして、アンチ中共であり、アンチ半島である点で、頼りにもなる。
 だが歴史問題で警察が対米宣伝をしてくれることはない。それは無理である。お門違いである。
 歴史問題で対米宣伝をしなければならない責任者、それは現役の内閣総理大臣なのだ。現役の内閣総理大臣には、他の官庁のすべてを超えた対外宣伝力が必要である。日本外務省が、1941年の東郷外相の侵略謀議加担・パリ不戦条約違反推進という深い傷を脛にもつために、そうする以外に、日本が国際宣伝戦(バックパッシング合戦)で生き残る道はなくなっているのである。
 シナはアメリカとの長期的衝突コースが確定しているがゆえに、必死でアメリカの悪感情を日本に向けさせようと、工作にドライブをかけている。バカ右翼が、マンマと釣られて反応し出した。首相には、一人で反撃する責任がある。駐日大使がシナ朝鮮の工作にやられたなら、その駐日大使に対する不快感をすぐに首相は公然と口にしなければならぬ。国際宣伝戦では「受け太刀」すら必敗の道。まして「無刀」では死あるのみ。一人で宣伝反撃のできない首相は、日本国の国益を損なってしまう。
 諫言する者がいない。東京裁判で免罪された外務省と旧海軍が連携しての戦後の「偽史」づくりに、日本の民間の保守言論人は、ころりと騙されたまま、いまだに目が醒めない。事前にアメリカ政府を「侵略者」として東條首相が公然に批難し、いついつまでにかくかくの措置を米国政府がとらない場合は日本国は自衛するしかないと予告してから軍事行動に移るのではなければ、宣戦布告を1時間前にしたところで、それは「スニーク・アタック」であり「パリ不戦条約違反」なのである。日本政府は、パールハーバーを海軍が襲撃する前に、アメリカに対する自衛戦争をほのめかしもしなかった。それ以前の海軍省のマスメディアを通じた威勢の良い宣伝は、侵略の予告にはなっても自衛の予告にはなっていなかった。そして外務省に、パリ不戦条約を守る意志があったならば、軍事行動前の宣戦文書の交付などは考えてはならなかった。それは逆に日本軍の行動が「自衛反撃」ではない計画的侵略である傍証となってしまうだけなのである。じゅうぶんすぎるほど「スニーク」である。日本人は12歳のガキだった。いまでもガキに見えるだろう。