「ヲイ、他人のこと言えんのかよ!」シリーズの第二弾(第三弾?)

 アイゼンハワーやパットンなどWWII中の米国の名だたる将軍/提督の少なからぬ者が正妻以外の愛人とのテンポラルな私生活を有していたことは、ここ十数年の間に、外国人戦史家たちの著作物のおかげで、秘密でもなんでもなくなった。
 おそらくリアルタイムでも、周辺のインナーサークルでは誰でも知っていた話だったんだろうが、たとえばアイゼンハワーの大統領選挙出馬に際し、それは何のスキャンダルともならなかった。
 敵陣営の選挙参謀は、知っていながら、そこを衝こうとはしなかったのだ。ケネディの多情然り、クリントンの淫乱然り、いくら公人であっても、私的な場のみで完結している出来事を咎め立てするのは、「米国世論」ではなかったからだ。米文学の古典:『スカーレット・レター(緋文字)』は、女が妊娠したから村八分になったので、他郷で分娩すれば村八分にもされ得なかったはずであり、当時は当然にそうしたであろうから、そもそも小説の設定自体にリアリティがない、と現代の批評家はツッコミを入れている。
 開拓移民の天地では女は女であるだけで希少価値を有したので、北米の西部において著しくフェミニズムが亢進した。(ではその同じ現象が近世シベリアのコサックの社会ではなぜ起こらなかったのか。南シベリアは南米と同じく昔から一貫して無人地ではなかったからだろう。余談ながら最近のロシア製のエロ・クリップは「抑圧度」が酷いという印象を受けるね。都市部では精神の不自由度が10年前より悪くなったんじゃないか。)もちろん、西部の開拓をしたのが地中海人だったら、今のような過激なフェミニズムは育たなかったと想像することは公平だろう。
 ならば東部の貴紳社会は石部金吉の集まりだったのであるか? ジョージ・ワシントンらが生きていた時代は、奴隷制農業の時代だった。彼らブルジョアが恐れたのは子孫の没落であった。
 遺産相続権のある嫡出子をやたらに増やすことはプランター(大農場経営者)の身代の破滅につながる。だが、当時はまだ「経口避妊薬」は無い。かたや、マルサスが言うように、ヒトの性欲は時代を通じて激変するものではない。かくしてピルなし時代のバースコントロールとして妻とのセックスを早々と自粛する他なかった紳士たちは、自己の所有する黒人奴隷女たちによって、健康な成人男子としての欲求の解消を実現するしかなかった。
 〈ミドルティーン未満の児童に向けて公然と展示して見せてよいものとよくないもの〉を截然区別せんとするのが、米英流の公衆道徳であるから、もちろんこんな話は米国の教科書には載っていない。
 WWII中に米兵が世界各地へ持ち込んで当地の人々を感心させたのが、雑誌切り抜きのピンナップガールを自室に堂々と張る風習と、爆撃機の機体に裸の女を描く風習だろう。前者は世界に普及し、後者は普及しなかった。WWII中の米国人は、「兵隊のテントの中や、爆撃機の側面は、決してミドルティーン未満の子供が見たり親しんだりする世界じゃない」という価値観を共有していたのだと想像するしかないだろう。だからこそミドルティーン未満の児童が読むことが当然に予期される日本のマンガ雑誌に女の裸が露骨に描かれていることに、かつて米国人は一驚を喫したと伝えられているのだろう。
 これは前にも「摘録とコメント」で紹介したことがあるかと思うが、1984年のチェスター・マーシャル著、邦訳2001年の『B-29 日本爆撃30回の実録』の51ページに、ホノルルのP屋の話が出てくる。戦時中、B-29をサイパンに運ぶ途中で、クルーが目撃した光景だ。
 ほぼ一街区ごとに兵士が行列を作って建物に入る順番を待っており、その値段は5ドルだった――というのであるから、立派な組織売春の慰安所が軍の半公認で営業されていたのだ。
 1984年以前には、こんな話が紹介された例は稀だと思う(すくなくも兵頭は読んだ覚えなし)。
 たとえば戦中のアベレージな白人徴兵の性的な妄想がよく告白されていたノーマン・メイラーの『裸者と死者』(たしか、ルックスの良い黒人女とも一回やってやるぞと自分に誓う下りがあった)にも絶対にそんな話は出てこない。だから〈米国には慰安所はなかった〉と勘違いする粗忽者が今日の米国内に多いのかもしれぬ。現代人による過去の慰安所批判こそ、「知る者は語らず、語る者は知らず」の典型例であろう。
 (ついでにコメント。新聞よりも書籍の方にずっと自由が保証されている今日の日本国で、有料の書籍を遠ざけ、無料のネット上ソースだけで事物の真贋判定ができると思い込んでいるブロガーたちは、皆、理性の病気である。米国では、単行本を全国の書店に流通させるまでには、著者にものすごい高いハードルが課せられ、しばしば、出版社側の言うなりに、記述内容を不本意に変更しなければならない。だからインターネットが、既製市場ではマイナー評価だが、正確でエクスクルーシヴな情報を持つ著作者多数に、公衆向けの自由な伝達の場を与えた。日本ではそのような著作者は大抵、すでに活字発表の場を得ていたので、インターネットが新たに付け加えた有益ソースとしては、官庁インサイダー達のリークが最も注目される。)
 さて、ホーハウスにおいては「しつこくない」というので好評らしい日本男児は、宣伝戦でも、エンドレスの長期戦が戦えない。北京の国際宣伝司令センターの攻め口は決して慰安所だけではない。イメージ毀損の心理戦は、文化の全戦線で無限に続くだろう。
 奥宮正武著『もう一つの世界――13カ国・平和への挑戦』(1977-12)の88頁に、1973年当時のケルンの日本文化会館で、館長をしていた松田智雄公使(東大でドイツ経済を教えていた)から聞いたという話が紹介されている。いわく、「この国には、日本人は悪玉、中国人は善人という筋書きの、程度の低いホンコン製の映画が氾濫しています」と。それに対して松田が打つことのできたカウンター・プロパガンダは、ドイツの「水準の高い人々」を対象にした、歌右衛門や雁次郎の〈隅田川〉の上演であったという。
 まあ、2000年代の今どき、こんな勘違いをしている「文化人」はいなかろう。ヒトラーの『わが闘争』は、正直に宣伝戦の極意を公開している。最も水準の低い人々に向けて、宣伝は、為されるべきなのだ。
 口には出さぬが現代シナ人が困惑しているのが、世界に氾濫している「程度の低い」ニホン製の漫画の中に、シナ人のお約束キャラとして、辮髪が出てくることではないか。あれは「満州族」の風俗であって、辛亥革命以降のシナ人には、親の仇のようなものだ。
 防衛省が庁であったときは久間氏も外務省の腐れ役人とそのお仲間たちから陰湿なイヤガラセをさんざんされたようだが、省になったとたんに自前の軍事外交が展開できるようになった模様で、結構なことだ。インドやネパールへの特務機関扶植は、対支戦略としてヒットになるだろう。しかし、F-22と引きかえにアフガンに派兵とは……。イラクから抜いた戦力を振り向けろと? ブッシュ政権がF-22を取り引き材料にする気なのは想像がついた。だが2008年以後の次の米国政権は、約束をキープするだろうか?
 ここでも必要なのは、〈日本と韓国は違います。韓国人は歴史的にシナ人の仲間です。アジアでの韓国の侵略を防ぐために日本はストライクイーグル以上の装備を必要とします〉といった、絶え間のない国際宣伝である。それは、米国要路に対してだけでなく、米国大衆に対して、展開し続けなければ決して有効ではない。
 〈日本人は善玉、○○人と辮髪は極悪人〉という筋書きの、程度の低いニホン製の漫画とアニメと映画も、米国の大衆メディアのレベルで、もっと氾濫させねばなるまい。