「い号」機の出自、もしくは背景と宇垣一成

 長年、ミッシングリンクが気になっていた「九七式小作業機」のモデルに、おそまきながら見当がついた。覆帯クローラー式の電動耕運機だったのだ。
 ここ1ヶ月ほど、5月下旬の道南ツアコンに備えて明治2年の函館戦争のおさらい調査をしつつ、以前に人から貰った敗戦直後出版の農業関係図書を十数冊ばかり、よみふけっていた。(内容はいずれ「読書余論」で紹介したい。)
 外地からの引き揚げ者で日本内地の労働人口が急に何百万人も増えてしまった昭和20年代は、「失業と食糧不足」というダブル危難が、全国民を脅かし続けていた。とくに朝鮮戦争以前は、連合国は日本の工業の復活を許す気がないように観測された。そこで日本政府は「とりあえず農業に吸収させるしかない」と即断し、巷には、戦時中以上に、俄か農夫のための開墾手引きや既製農家のための増産のハウツー本が供給されたのだ。
 かつてレーニンは、資本主義国家の「蒸気機関」を止めてしまう方法は、燃料供給を断つことだと理解をしていた。いま、イラン周辺で戦争が始まれば、日本には「失業とエネルギー不足」というダブル危難が到来するだろう。燃料資源大国のロシアにはそれを止める理由はない。アメリカにもイスラエルを止める理由はない。だから、過去の危難の時期の農書には、近い将来のわれわれにとっての面白いヒントがあるはずだ、と思って読んでいたら……。
 昭和27年刊の伊藤茂松著『土地改良圖説』に、なんと「ロケ」(98式6トン牽引車)が開墾に使われている写真が載っているではないか。「ロケ」は戦後、いちばんよく再利用された装軌式の野砲牽引トラクターだが、敗戦直後のこととて、その再利用中の写真が残されているのは、珍しいのである。
 さらに、昭和28年3月の『日本農業電化の展望』(福島秀治ed.,(社)農業電化協会pub.)の巻頭グラビア頁にも「アッ」と驚く。そこに、電力耕耘機の作業実景の写真が2葉あり、うち、岡山県で現用中という1葉の「足回り」が、旧軍工兵隊のロボット兵器「97式小作業機」(い号)に類似している。耕耘機=転輪式という、1960年以降の常識を漫然と過去へ遡及させてはいけなかった。昔は履帯式も普通に在ったのだ。
 余談だが岡山県というところは旧幕時代の領主が熊沢蕃山を大抜擢して改革を実行させつつ、結局、蕃山の判断とは正反対の開墾主義に走り、それが戦前において農業機械化率日本一を達成させてもいたという土地柄。こんな風土から宇垣陸相が輩出しているのは偶然ではないのである。
 さて『日本農業電化の展望』の本文を見ると、動力耕耘機は、大正末期から普及がはじまったが、昭和初期から、従来の石油発動機式に加えて、電動機式が、そのラインナップに加わったという。
 昭和8年11月末時点で、12台の電動力耕耘機が存在した。発動機は3馬力くらい。バッテリー式ではない。電線をつないで電力を供給した。そのケーブルは、足回りで巻き込まぬように、耕耘機本体上に高く立てたポールの先から、繰り出されるようになっていた。発電機は、耕地の隅に置いたわけである。
 昭和17年に燃料統制が厳しくなると、石油発動機式の使用が不自由になり、いきおい、電動モーター式の農機の数が増えたらしい。
 小型の農作業用電動モーターは、大正12年に1/4馬力のものがユーザーによって工夫され、昭和2年以降は、大手メーカーが製作・供給した。単相運転が可能な電動機の大きさはだいたい3馬力までで、無理すれば5馬力までもいけたという。
 愚考するに、この小型電動トラクターに着目したのが宇垣一成だったのだ。
 ――満州事変の「爆弾三勇士」を美談にしてはいけない、あれは無人の機械で実行できると、昭和8年から13年にかけて開発されたのが、有線操縦自走作業ロボットたる「い号」である。
 しからば、なぜ、民間なら1年でできたであろうものが、陸軍では5年もかかっているのか? それは、宇垣が開発の尻を叩けるポジションに連続して座っていなかったからだろう。
 宇垣一成は昭和8年には参本の総務部長で、このリモコン兵器の開発を促すことができる地位である。しかし、同年4月から陸大校長になり、10年3月には第一〇師団長。兵器開発には口出しできない。それが昭和11年5月に教育総監部本部長となって再び陸軍科学研究所第一部に口出しできるようになり、12年10月陸軍次官となって予算を自在につけられるようになり、13年1月に陸軍大臣だ。
 このように、日本の官僚組織の欠点は、上司も部下もなかなか理解できぬような野心的プロジェクトに最適な人間が、現場を直に指揮できる最適なポジションからすぐに引き剥がされることである。(だから日本型組織では、アメリカより早く原爆を創ることは絶対に不可能だった。)
 1992年にわたしが『帝国陸海軍の戦闘用車両』を編集したとき、この「い号」機が、先行モデルも何もなく、突如として登場していることの不思議さの説明は、つけられなかったが、今、ようやく補足できることになった。ほぼ同サイズの電動耕耘機が、先に民間に存在していたのである。そして陸軍の関係者たちは、引退後の技術自慢話の中で、先行モデルがあったという事実は語らなかったのである。そのような例は、南部麒次郎いらい、枚挙に暇がない。
 話を函館戦争に戻そう。この戦争は明治2年の夏に決着がついている。しかも渡島半島の南端の、そのまた突堤状に孤立した函館で、旧幕軍は降伏した。
 時間の上でも、場所の上でも、旧幕側の生き残りたちには、内陸で長期持久戦争を試みようという発想は最初からなかった。
 彼らの心理は味方の近代海軍に依存しすぎていた。近代海軍から離れたら戦争はできないと思い込んでいたのだ。
 結果として新政府軍の艦砲で粉砕された。
 土方の死因も銃弾ではなく砲弾の直撃だろう。さもなくば、七重浜方面への離脱が不可能な重囲の続いたごく狭い戦場で、死体の行方がまったく不明になるはずがない。万単位の死体で平地が埋ずもれてしまったWWIの西部戦線とは違い、死体は一体一体、衣服や所持品の確認ができたのだ。
 海上の戦力比で劣勢だったら内陸に避退する、というのが陸戦の常識であった。クリミア戦争中の極東ロシアの沿岸の砦は、みな、その常則にしたがって、英仏軍の陸戦隊にわずかに抵抗したあとは内陸に逃げている。
 これを北海道で再現するなら、榎本たちの未熟な操艦技術でも安全に停泊ができた内浦湾の室蘭港に機動して、そこから艦隊とは分かれてどんどん北上すればよかったわけだが、つくづく当時の日本人は寒さに負けていた。地元の松前藩主すら、新暦で12月の日本海岸を「熊石」というところまで退却して、そこからは北上をあきらめ、青森に逃走した。熊石の緯度は、室蘭より南であった。ロシア人は北樺太と同緯度のカムチャッカ半島に砦を築いていたというのに……!
 旧幕軍のうち20代の若者はもう一回、越冬することができただろう(上富良野駐屯地で鼻毛が凍るマイナス12度以下の朝でも、慣れるとシャツ一枚で平気だったりしたものだ)。しかし30代後半より年寄りの面々は、もう越冬は無理だと観念し、秋になる前に戦争を終わりにしたいと願ったことだろう。
 当時の日本人に欠けていたのは、耐寒建築と燻製(貯蔵肉)のノウハウだった。北欧のログハウスの智恵がなかった。ロシアのペチカの原理を知らなかった。満州のオンドルの原理も知らなかった。北海道には材木だけは腐るほどあったのだから、こうした智恵さえあれば、若くない内地人にとっても、越冬はカムチャッカなどよりも十倍も容易だっただろう。ようやく満州事変以後、そうした耐寒住居が調査されて、その成果が、昭和20年代の国内僻地開拓の手引き書では紹介されている(川上幸治郎著『営農技術』S26-5刊は、奇書でオススメ)。
 函館戦争はWWIのようなメガデス戦争ではなく、また殲滅戦でもない。降伏のチャンスは終始、与えられていた。そんな中で土方と中島父子だけが、降伏を拒絶して戦死した。
 土方は多摩の農兵出身だが、江戸の呉服屋に十年前後も奉公に出されている。彼はその商人の世界に戻るのが死ぬよりも厭だったのだ。しかし彼が周囲から頼られたとすれば、それは商人の世界で対人折衝の機微を鍛えられていたお蔭であった。だから近代を敢えて捨てる「北蝦夷ゲリラ戦」などは、彼には構想し得なかった。
 中島父子は、父子で一所に立て籠もったのが運命を決した。子の前で父として恥ずべき行動が採れようか? 父の前で、子として卑怯たり得ようか?
 1毛につき年に1期収穫するサイクルの農業では、「新機軸の試みと失敗の経験」のチャンスは、一人の成人男子が、老齢で引退する前に、せいぜい二十数回しか、与えられない。しかも、一回失敗すれば、一家が死活の窮地に陥ってしまう。
 それで農業では、効率化とか改良とか革新の進度が、月に何度でも放胆にトライ&エラーの可能な工業品と比べて、著しく低調たらざるを得なかった。また日本の行政も、畑作と違って非商品的な統制商品であった水稲の、頭を使わないルーチン生産の安易さに、農家を誘導してきた。
 この結果、野心的でなさすぎる農家の惣領のタイプが登場した。
 このモテない惣領たちに外国人の妻を斡旋しようという商売は、1980年代からある。わたしはフリーター時代、一業者氏から、そのパンフレットの原稿書きを受注したことがあった。そのとき聞いた話であるが、じっさいに会ってみると「こりゃどうしようもないな」と嘆息せざるを得ないような男たちばかりだと。まあ、土方歳三の逆だと想像すれば良いのだろう。商人的な、あるいは武人的な対人訓練が皆無で、したがって他人の気持ちが分からず、外の世界を知らず、とにかく覇気がないのだ。
 そのように夫候補に根本的に人格の魅力がない次第であるから、妻候補も世界の最貧地帯から募集するしかないのだという。それが今日では満州なのだそうである。シナの中でも満州は工業が発達していると錯覚している日本人は多いだろうが、シナは広い。満州の農地の生産性は低く、農業は粗放畑作である。満州の農民は、シナの農民の中でも一、二を争う非文化的な極貧生活を今日も続けているのだ。文字通りのあばら屋住まいである。
 さて一般に満州人は人気[じんき]が悪い。北鮮人と同様、あまりに生産性の低い悲惨な風土なので、住人の気性も冷酷になってしまっているのだ。冷酷でも素朴ならば救いはあろうが、日露戦争以後に山東省からシナ人が入り込み、冷酷プラス狡賢いタイプと化してしまっている。それが、労働集約的な日本の農村にやってきて、果たして覇気のない夫と連れ添って行けるのか、もう、ケントもつ~か~ぬ~、と申し上げるしかない。
 むろん、夫候補のタイプだけが、日本の農家に嫁の来手がなくなっている原因なのではなかろう。効率の進化速度で工業に負けてしまう宿命の農業は、投入労働力×時間にくらべて所得が少ないと思われるのみならず、「参入したが最後、足抜けができにくい」というデメリットが、予期されているのだろう。女は結婚前に「出口戦略」を考えている。夫の転業も想定している。だが三ちゃん農業に組み込まれてしまったが最後、それは容易ではなくなるだろう。
 粗放畑作が許されない日本の農業とは畢竟「土づくり」なのである。耕地を一年でも手入れせずに放置してしまうと、耕作を再開しても元の反収は得られなくなってしまう。これが、店舗や工場との違いなのだ。戦後の新規開墾者の多くも、土が改良されるまでの数年間を持ちこたえられずに、棄農した。同時に進行する既製農地の土地改良の効率に、とても対抗はできなかったのだ。
 話が長くなったので、続きは次回以降の「読書余論」にしたい。「読書余論」は有料です。バックナンバーも購読可能です。
 それから、函館ツアーの現地集合組の募集の締め切りも、いよいよ近いです。