惨文

 まずオレが福田和也氏の文章を読むにあたって、他人の棚卸しをする公正さを維持できているかどうかは10日発売の文春文庫『乃木希典』の巻末解説を一読してもらおう。
 ついでに告白するがオレは福田氏の他の雑誌掲載記事は、もうまったくといっていいほど、読んでいない。理由は、最近はどこが面白いのか分からんからである。〈それは、兵頭が無能なのだろう〉と思う人、あなたは正しいかもしれない。
 できれば週刊新潮だったか週刊文春であったかの氏の時事系の連載コラムぐらいは目を通したいとかつては念じていたが、あいにくこうした週刊誌は、常連寄稿者でもないオレの家には、タダでは郵送されて来やがらないのだ。書店で買えば、北海道では東京よりも3日遅れくらいになるゆえ、このインターネット時代には、カネを出す気にならんのである。悪くとらんで欲しい。
 で、どうしてもこの欄で表明しておくべきことがあるので、以下に書きたい。
 『文藝春秋』『諸君!』『voice』『正論』の4つの保守系と分類される月刊誌に軒並み、福田氏の連載評伝小説が同時連載されている姿、これは異常であり、且つまたどうみても、現下の日本の出版業界の恥である。
 というのはオレのあくまで下司なグリーンな僻目であるが、福田氏は司馬や清張と互角の小説家とは評し難いのだ。日本に他に、もっと読んで楽しい文章が書ける、あるいはもっと驚くようなオリジナルな見解を抱懐する書き手はいないのか、という疑問を、中正の立場の読者も持っているのじゃないか。特に『諸君!』の「山本五十六」はひどいものだ。オレは『東京裁判の謎を解く』で最新の日本海軍悪玉論を呈示しているのに、それが全然スルーされっ放しで、えらい昔のオレの本から、何度も長い引用がなされている(と、一読者の人から知らされた。スイマセン、読んでなくて)。これは正直言って、迷惑だ。
 数ヶ月前に、『諸君!』の編集長が、内田さんという人に代わった。オレの若惚けの記憶にまだ間違いがなくば、内田さんは昔の「地ひらく」の担当もやっていた。「地ひらく」と「山本五十六」のあまりの段差(と想像で言うが、たいへん申し訳ないことに、オレは『地ひらく』も後半は読み通せなかった)に、あきれかえった内田さんは、目下、連載を休止させて、福田氏に強談判中なのではないか。つまり手抜きをやめてくれるか、さもなくば、連載を早期に切り上げると。
 『諸君!』の8月号を拝見すると、ナナメ読みで申し訳ないが、編集長が、情報のオリジナリティを重視しているのが窺え、好感できる。かなりハイブラウの読者層に照準を合わせ直していると感じた。
 連載の途中切り上げの前例としては、今の中瀬さんが、『新潮45』の編集長に就いた直後に、一本のじつにイライラするような海軍小説の連載を打ち切ったためしがある。
 評論を小説形式で世に問おうとするスタイルは、今のおちつかない世相には、マッチしなくなっているとオレは考える。妄想家の松本清張氏にとっては、小説形式と評論は、たぶん不可分であった。分析家の司馬遼太郎氏は、最後には小説形式など、わずらわしくてたまらなくなった。
 いまの世相にマッチするのは、読者の自由時間を拘束することの過度でない、短いオリジナルな評論だろう。すこぶるオリジナリティが高いのであれば、延々と続く雑誌連載としても、読者は、飽きないでついてきてくれるだろう。だが、オリジナリティが薄いものならば、それに合わせて全体の長さを縮めるべきである。オレはそのことをハードカバーの『乃木希典』の書評でも示唆したつもりだったが、福田氏にそれが伝わらなかったとしたなら、甚だ残念だ。が、分かっていて、稿料のために長い評伝形式を選んでいるのならば、オレが言うべきことは、ここで述べた以上には、もう無い。