ふところ手でGET

 櫻井忠温についてネットで調べようとすると、たいてい、旅順の第一回総攻撃で「全身蜂巣銃創」を負っただとか、〈死体と間違われて火葬場に運ばれる途中で生きていると確認された〉という話が出てくるのだが、昭和5~6年の『櫻井忠温全集』をサラリと斜め読みした限りでは、誤りだらけである。いったいこの無名人たちは、揃いも揃って、何のつもりで、確認容易な他人の経歴を脚色するのか?
 ネットで古書の『肉弾』を注文するだけで、こんな誤りはチェックできるだろうに、それを誰もしていないようだ。その手間を惜しむのなら、さいしょから、赤の他人の履歴なんぞ、書かなければいいじゃないか。
 ネット上に歴史上の公人のありもしないエピソードをもっともらしく書き込んで得々たる者たちの無責任感覚は理解を超絶する。半ばはチラ裏か。
 「全身蜂巣銃創」は、身に数十弾を受けて死んでいるために1発ごとの詳細な検死所見をとても書類に書き込んでおれないことから軍医が苦し紛れにつくり出した用語であることは、全集1巻の『肉弾』の147~8頁に書いてあることから推定容易である。櫻井の受傷はそのようなものではなかった。櫻井は両手両足だけをやられたから生還したので、その傷のひとつひとつの具体的な診断は全集6巻所収の『顔(自叙伝)』の501ページに列記してある。
 個々の傷について個々の観察をせずして負傷者を治療なんてできないんだから、あたりまえの話だろう。ちなみに最も酷かったのは右足で、脛は貫通銃創で完全骨折し、腿には盲貫銃創を受けた。軍医界の大幹部の菊池常三郎がじきじきに術式を指図して、この骨をつなげたのだ。
 右手は、吹っ飛ばされたとは『肉弾』には書いてない。ブラブラになったことまでは書いてある。『顔』には、大正10年後半の小倉聯隊附の中佐時代に、サーベルを紐で右手に縛りつけて抜いたけれども苦しかった、とある。切り離したとすれば、病院で切断手術を受けたのであろう。全集にある著者の写真には、両足(足袋着用)は写っているが、右手は写っていない。
 左足が義足になったというネットの文章も見たのだが、その切断はいつなのですかとお尋ねをしたい。
 火葬直前に生きていると判明した……という話に至っては、出典の見当がつかない。全集を隅々まで読まないうちは断言できないが、『肉弾』には生還の模様も具体的に記してあって、疑問の余地はないと思う。
 誰が最初にこの話を広めたのか、そっちをむしろ知りたい。
 『肉弾』と『銃後』の間には7年のインターバルがあるが、櫻井は『肉弾』の直後にも雑誌に何篇か寄稿していた。その副業的な活動が陸軍内で不快がられ、〈寄稿を止めないなら陸軍を辞めろ〉という圧迫を受けたので、彼は生計の方を重視して著作活動の方を一時中止したのである。『肉弾』中の表現が陸軍部内で問題にされたとは兵頭にはとても思えない。あの程度の悲惨な体験描写なら、日露役直後の出版物の中にいくらもある。
 『肉弾』の初版を乃木が見て、何箇所かの修正を櫻井に求めてきたので二版でそれに応じたことが『顔』に書いてある。この「差分」はどんなものだったろうか。誰かもうすでに調べてくれた人はいるんだろうか。
 『銃後』には、松山に捕虜になっていたロシア将校の証言として、対陣中に日本軍は、松山捕虜収容所は風光明媚で温泉もある良いところだから来いという伝単を播いたけれども、そんなものに引っかかる者は少なかった――とある(全集第2巻p.10)。
 然るに、わたしは未読なのだが、ネットによると、櫻井が敗戦後の1954年に書いた『哀しきものの記録』中には、この投降勧告ビラがすこぶる効果があったように書いてあるらしい。
 ひょっとして櫻井は昭和20年8月以後になって思い出を改造するようになったのではないかとわたしはピンと来た。すると、火葬場の逸話も、晩年に至って櫻井が語ったことでもあったのだろうか。
 とにかく、弥助砲や四斤砲の話を書いていたり(きっと新聞班の古い資料にアクセスしたのだ)、陸軍宣伝映画の脚本を書いたり、内務省のナワバリだった新聞雑誌検閲に陸軍省を割り込ませたり、対ソ戦のための国論喚作を考えていた田中義一に見い出されたりと、興味深すぎる人物だといまさらながらに気がついたから、次の次の「近代未満の軍人たち」で、是非とりあげようと思っております。(過去には、乃木調べのかたわら、スルーしてしまったんですよね。彼の孫子解説は国会図書館で読んだ覚えがあります。そのときは特色がないと思いました。孫子に挑んだ下地は、彼の「ニー」好きにあるんでしょう。)
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