ははの日 と ひひの日。

 先月、目が悪くなったなあと感じ、ワープロ画面の行間と字数を調節したら、総字数の計算で油断をしてしまったらしく、『正論』7月号の連載欄が、文字がギッチギチになってしもた。スミマセン。
 ついでなので『正論』7月号の全般の感想を述べよう。『諸君!』がなくなった最初の月だから、一言残しておく価値があるだろう。
 今月号の記事では島田洋一氏の記事が最も読ませた。この記事がすぐれている理由が三つある。 一、最新とれとれ速報の時事種であること。新書の書き下ろしでも新聞記事でも不可能な、雑誌ならではの付加価値だ。  二、適度に短くて、冗長さを感じさせぬこと。多くの雑誌寄稿者の文章は不必要に長すぎる。それを規正し得ぬ編集者もまさに自殺行為をやってるんだと覚るべきだ。  三、exclusive な情報と、書き手の特色ある表現が、異彩を放っている。その執筆者でなければ知り得ない情報が次々に紹介され、またその執筆者でなければまとめて表現し得ない説得力が発揮されている。主張の内容にすっかり同意できるとき、なんとも読んで得をした気になるのである。
 「一」について敷衍しよう。現代の読者が雑誌を見捨てたくなる理由の一つが、「後でまとめて単行本にする予定ミエミエの連載記事」のウザさだ。いやしくも他に収入や資産のある大物ライターなら、雑誌と単行本で二期作を働いてセコく増収を図ろうなどとは企てず、いきなり単著を書きおろして売るがよい。長い記事×数回分で新書ができるだろう。そしてその印税で若い新進の書き手を育てたらどうだ。彼ら新人こそ、生活のための原稿料を真に必要としているかもしれないのに、今日的意義の低いダラダラ連載のおかげでクラウディング・アウトされているんじゃないか。(東谷氏が、後進を育てるライターのコミュニティの機能が雑誌にあったと149頁に書いておられる趣意には賛成できるが、ネットにその機能がないとはこの兵頭は思わぬ。なければ創れば良いだけだ。今年中に、それを立証する試みを始める。)
 「二」について敷衍しよう。これは、原稿の文字数と原稿料とが単純比例するという、従前の雑誌の報酬システムの陋習が、悪のスパイラルのおおもととなってしまっているのだ。
 これあるがゆえにビッグネームは編集部に対する立場の利を用いて遠慮なく長い頁を欲する(何故か彼らは駈けだしのフリーライター以上にカネが必要であるらしい)。稀には、情報密度を高めようと努力したフリすらない、主題に切迫感もない、目に余る文字数の押し売りも混じる。これが連載だと、雑誌にとって破壊的だ。それを咎める者が、雑誌システム中のどこにもいないようだ。
 上述の「一」と「三」の要件が満たされていれば、尋常以上の枚数の記事でも面白く、商品としての市場訴求力があるかもしれないけれども、昔の大先生たちの筆でない限り、ほとんどたいてい、そんなことはない。この水割り商法が瀰漫してついに雑誌を売れなくしたのだ。いいかげん、雑誌原稿料の旧慣は廃すべし。おもしろい価値のある記事にはタッタ1頁でも10万円の稿料を支払い、エンターテイン性とサービス精神に欠けた、あるいはスカスカの内容の記事には、たとい12頁以上あっても3万円までしかお支払いしません、と決めちまったらどうだ。それでライターの方も文章工夫に血眼になるだろう。おそらく雑誌の売れ行きは、そこに興味を惹く記事(あるいは寄稿者)があるかどうかで左右されているので、記事の長短とは無関係なはずだ。
 「三」のような文章が書ける人は、その著者の名前に固定ファンがつくだろうから、単著を書いて売った方が、著者にも儲けとなり、また、読者も出費先が絞り込めて嬉しいであろう。文藝春秋社はこんご、新書に力を入れる気なんだろうとわたしは勝手に想像しています。『正論』の7月号が『諸君!』から小堀さんの連載を引き継いでいるけれども、この連載の一回分の文字量が、読者に対して不親切なまでに多すぎるとは思わんのかなあ、両編集部は。落ち着きが悪すぎる。これこそ典型的な「先生、これはひとつハードカバーの書き下ろしでお願いします」と挨拶すべき企画でしょ。この一回の量で、しかも短期でなく長期連載でも読者から許してもらえる、また雑誌の売り上げにもプラスになる、それほどのサービス精神ある文体とテーマの持ち主は、故・山本七平氏くらいだったでしょう。
 短くてもすばらしい意義のある文章を公けのために提供している人たちが、ネット空間には居るということを、わたしは知っています。短さに、今日的な価値がある。わたしは、この人たちが、シナ・朝鮮からの対日間接侵略に日本国民が抵抗して行くための言語的防波堤の重要な機能を担っているとも思います。
 彼らの価値ある公的な仕事に「酬い」が伴っていないであろうことを、わたしは心配しています。誰かが「実利」をペイしてやるべきだろうと、思うようになりました。さもないと、間接侵略の厭がらせ工作が、彼ら少数のブロガーを一人一人、沈黙させ、転向させてしまうかもしれない。あるいは彼らがリアルな生活苦に負けてしまって退場してしまうかもしれない。
 できればそんなことにならぬように、彼らのモチベーションを強化し、彼らに続く勇敢な言論人がもっとネット上に登場することを促さなければなりません。
 また、できたら彼らの晩年の展望にまでも幾分かの安心を付け加えてやりたいものだ。勇敢な個人が間接侵略に反対して公的な勇気を発揮するときは孤独なものですからね。
 そのためには、どうしたらいいのか?
 無名個人が、公的個人(ここではブロガーを想定)に対して、ごく気軽に寄付行為ができる、という仕組みが、まだ日本では、存在しません。
 「中間機関」が必要でしょう。わたしは、その「機関」を創ることを決心しました。(ためしてみて、ダメだったら、お慰みだ。)
 「機関」のHPで、兵頭が着目するブロガーを招き、「インターネット講演」をしてもらって、その講演料を「機関」が単発でお支払いするという形で、彼らを金銭的に後援できるかもしれない。「機関」の一件一件の後援行為が適宜であるか否かは、その講演内容等がインターネットでパブリックに即日に晒されることによってオープンに公正にチェックされ、寄付者(出資者)等に対する収支の透明性をも担保できるでしょう。……とりあえずそんなことを考えています。