2日も留守にするとメールの処理がたいへんな件等について

 会津若松市に行って来ました。かれこれ5年以上もごぶさたしていた眼科医の米山高仁先生に高いワインをごちそうになりました。さすがに函館のスーパーで入手できる1瓶390円の安物とは違いますね!
 会津地方の観光名所はたいがい既に見て知っておりますので、今回は、穴場ではないかと思い、「福島県立博物館」に出かけてみました。
 地図をみるとその近くに「山鹿素行生誕の地」もあるようです。それで、不思議に米内光政さんに顔が似ているタクシーの乗務員さんに頼んで寄り道をして貰った。
 現場は、街中の狭い1区画が、宅地化を免れて保存されていました。敷地の奥に、東郷平八郎が揮毫した大正15年4月建立の石碑が建っていました。(この山鹿素行についての兵頭の考察は、新紀元社の『あたらしい武士道』で尽きております。ご興味がある方はご一読ください。)
 なお、この区画は、直江兼次の住居跡でもあったそうなので、NHKの大河ドラマの放映開始を承けてか、説明の看板が、新たに追加されていました。(兵頭編訳PHP版『[新訳]名将言行録』にも、もちろん兼次は採録されていますので、物好きな人は、お確かめください。)
 県立博物館は、やはり穴場でした。風船爆弾の一部分の実物大展示(和紙製気球下半分)がありました。レプリカなのかと思って説明を読んだら、モノホンですわ。
 しかもこれ、陸軍が勿来町から放球した直径10mのレギュラーサイズの「ふ号」じゃない。海軍が潜水艦から放球するためにつくらせた直径2.5mの小型の気球。激レアです。
 これについては『呉羽化学五十年史』に記載があるようです。
 呉羽化学工業の錦工場(相模海軍工廠支配下の錦作業所とされていた)で、美濃紙にポリビニルアルコールを吹きつけた、と。
 陸軍のようにコンニャクじゃなかったのですね。たしかに、表面はテラテラに見えます。
 終戦時に工場内に廃棄されていたものを、いわき市の応召者が持ち帰っており、それが、博物館に資料提供されているということです。(なんでこんなものを自宅で保存していたのか、それが知りたいです。耐水性のシートとして役立てていたのでしょうか?)
 この博物館は、ストロボなしなら館内撮影もOKなのに、デジカメを持参しなかったのが無念でした(ちなみに兵頭は携帯を持ってません)。展示は8月21日までだそうです。マニアはデジカメを持って急げ!
 翌日は、都内の練馬のJSEEO事務局に初めて顔を出しました。な~んだ、東長崎の隣じゃないですか。あとで加藤健二郎さんにも挨拶をせねばと思いました。
 ここで第一回事務局会議を開きました。まあ、全部で3人ですけどね。
 会計報告も受け、実態を掌握しました。予想より悪くもなく、良くもないです。これから1年が勝負になるでしょう。
 ほんらいならHP上で議決事項の諸々の報告をしたかったところですけれども、HPが死んでいる状態ですので、やむを得ず、こっちで書くこととします。
 じつはHPはもう完成品ができていました。拝見しましたが、携帯での読み込みにも配慮されており、満足できるものでした。事務局では7月下旬に、それを今の死んでいる画面ととっかえるそうです。なぜ27日からでもすぐに新HPにしてしまわないのかは聞き忘れました。人手不足なのであろうと思います。わたしは、ことHPの運営に関してはノンビリしたやり方はまったく我慢できないので、助っ人を公募すれば良いと思うのですけれども、担がれ御輿の立場としましては、さいごは事務局の方針に合わせるしかありません。なにしろ事務局のお2人のこれまでの献身とご苦労は並大抵じゃありませんからね。都内で、無名の団体の「事務所」の名義で賃貸物件を借りたり金融機関の口座を開設するのがどれほど困難か、スモールビジネスに詳しい方ならば、よくご承知でしょう。(個人名で借りて事務所として使えば簡単でしょうけれども、あとで確実に反対勢力から攻撃材料にされるのがオチです。)
 一点だけ、「みなさまへのおしらせ」を事務局に於いて毎日書き加えるよう、わたしの方から要請しておきました。いつ見ても同じ画面なんて、支持者の皆様に対して印象が悪すぎますからね。まさに死んでいる状態です。一回UPしたらそのまんまほったらかしというPRのやり方で8月29日に300人ホールを有料客で埋められるようなら、誰もインターネット・ビジネスに苦労はせぬはずです。
 その8月29日ですが、若手気鋭の奥山真司さまに質疑応答の司会をお願いすることになったそうです。小生、残念ながらまだ面識はございませんが、2007-6-25配信の「読書余論」で、奥山先生が訳されたミアシャイマー氏著『大国政治の悲劇 米中は必ず衝突する!』を紹介していることに気づきました。こういう方となら、かなり面白い話ができるのではないか。
 そう思いましたので、小生の講演部分は時間を40分に短縮し、残りはすべて質疑応答に充てることと致しました。
 この8月29日の文京区講演までは、JSEEOはわたくし「兵頭二十八」の一枚看板です。
 しかしこの講演の後に、「設立発起人」といいますか、会社重役といいますか、当機構の役員のようになっていただく著名な方々数人に、結集をしていただく予定です。(その具体的な氏名を事前にオープンにすると絶対にこじれるので――これは故・江藤淳から教えられた人事の秘訣でもあります――どなたを候補にしているのかは伏せさせていただきます。ただし、賛同者になっていただいた方々のみには、お話しすることが可能です。)
 そしてその数人の「一座」で、秋以降、頻繁に全国イベント行脚をすることになるでしょう。目的は、サポーターと賛同者を一定数まで増やすことです。
 このサポーター&賛同者の人数が一定数以上になりませんと、事務局そのものを維持不可能です(家賃も月給もすでに発生しています)。
 わたしが一番やりたいと思っていますところの「インターネット・ラジオ放送局」は、サポーター300~500人、および賛同者30~50人が集ったところで、漸く開局できそうな見通しです。
 やはりこれから1ヶ年が、前進か撤退かの分かれ目となるでしょう。
 サポーター&賛同者とは別枠で、小口の寄付も集めます。いずれ事務局から「おしらせ」があるでしょう。この小口カンパの専用の口座の残高を、「ラジオ講師」のギャラの原資に致します。この部分は兵頭の公約だと思ってください。
 おしまいになりましたが、24日までにサポーターならびに賛同者の登録をしてくださった方々の名簿のコピーも事務局より受領しました。意外な方々のお名前をその中に拝見致しまして、わたくし、感動いたしました。この場を借り、あつく御礼を申し上げます。皆様のご厚意を無に致すことのなきよう、全力を傾けます。
 当面は、8月29日(土)の講演会のPRに努めて参る所存です。