綿谷正[わたやただし]氏へのインタビューなど

 ラジオの実験をいろいろ考えているうちに、札幌市内には微小出力FM局が昔から複数あることを思い出した。
 わたしは2007年3月10日に札幌に出かけ、新風の千代信人さんご夫妻と魚谷さんにご挨拶したことがある。このとき貰った奥さんの名刺によれば、札幌市内白石区にあるコミュニティFM局の「FMしろいし WITH-S」(北海道綜合放送株式会社)は、奥さんが取締役総務部部長をしているところである。
 それでインターネットで千代信人さんを久々に検索してみたら、千代さんの新風のブログがいつのまにか終わっているじゃないですか。
 すぐにわたしは、新風の中のインターネット本部長とでも言うべき福岡の本山貴晴さんに「ひょっとして千代さんは新風北海道ブロックの部長は退任されたのでしょうか?」と間抜けなメールの問い合わせをしたのだった。
 すると、〈新風北海道は壊滅した〉という意外な答え。しかも、どうもそれ以上の詳しい話を、してくれそうにない。
 新風北海道本部の次期代表(ということはすなわち来年の参院選の北海道比例区から立つことになる人)は、綿谷正さんというかなり高齢の方に決まったということだけは承知した。
 そこで「綿谷正」とグーグル検索してみたところ、9月25日時点で、ヒット・ゼロ。いまどき、珍しい現象じゃないか。
 想像してみてくれ。来年の夏に参院選の告示がある。そこで、新風の北海道比例代表候補は綿谷正という新人だと世間は知らされる。北海道の若い人がその名前をPCで検索する。ヒットはゼロ……。
 「いったい、どういう社会人だよ?」との疑問を、ふつうに抱かれてしまうことであろう。いまさら文句を言うが、千代さんのときもそうであった。インターネット空間で、プロフィールを把握することがほとんどできないのだ。こんなことを繰り返すようだと、「胡散臭い」というイメージをもたれてしまうに違いないぞ。
 そこでわたしは、札幌医大の高田純先生に別件のヤボ用で会いに出るのを機に、綿谷正さんへのインタビューを試み、その結果知り得た綿谷さんのプロフィールを「放送形式」に公開しておこうと思い立ったのだ。
 その日取りが2009年10月17日と設定された。場所はJR札幌駅地下街の某喫茶店だ。
 以下、テープとメモを元に再編集して提示します。無論、文責は全く兵頭一人にあり。
綿谷:わたしは札幌のすぐ隣の江別で昭和4年に生まれまして、戦後はずっと江別市の住民です。戦前の江別には、王子製紙と火力発電所くらいしか工場はありませんでした。わたしは尋常高等小学校高等科を卒業した後、予科練に入りました。それが昭和19年です。
兵頭:霞ヶ浦ですか?
綿谷:いえ、乙種ですから三重県の海軍航空隊です。
兵頭:昭和19年にはたしか、中京大地震がありましたよね?
綿谷:12月7日でしたね。それは航空隊で体験しました。翌年3月7日に汽車で愛知県に移動しました。防空壕掘りの作業にかり出されたのです。途中の名古屋は、空襲でもう何も無かったですね。
兵頭:飛行機用の掩体を掘る作業でしたでしょうか。
綿谷:通信施設用の地下壕でした。深さ4m、幅4m。それを、つるはし、スコップ、もっこだけで作るのです。廠舎が飛行機格納庫の隣でしてね。夜10時過ぎに就寝するんですが、朝の3時半にはもう隣でエンジンの暖機運転が始まりますので、とても寝られませんでしたよ。そして、朝メシの後は、どんな天候でも駆け足で現場へ向かうのです。それでその駆け足のさいちゅう、20人以上も、いっぺんに倒れてしまいました。わたしはその中でも重症でしたので「病室」からさらに「海軍病院」へと送られたのです。そこでも空襲に遭いましたけれども、とうとう終戦をその海軍病院で迎えることとなってしまいました。
兵頭:ただちに復員ですか?
綿谷:入院患者はそうは行かないのです。昭和20年11月15日に「解員」になりました。けれども軍隊の病院らしく、米俵を背負わされて駆け足をさせられました。そこでわたしはまた倒れてしまい、もうダメかもしれないという重症に陥りました。患者長は叱られてましたね。わたしは、「どうせ死ぬなら北海道で死にたい」と申し出まして、昭和21年3月に、札幌の簾舞[みすまい]にある白川病院という軍の療養所に転院することができたのです。そこは海軍も陸軍も一緒の施設でした。
兵頭:汽車には窓ガラスはありましたか?
綿谷:ありました。白川病院では、「お前は若いからすぐに治る」と元気付けられました。本当にそのとおりになりました。昭和22年6月に、江別に帰省しました。その折の6月14日から16日までの「札幌祭り」は、忘れもしません。わたしは、そこで傷痍軍人のための募金をしたのです。当時、傷痍軍人たちは、めいめいでみすぼらしい姿で募金をしていましたが、あれではいけないとわたしは思った。彼らに代わって大金を集めてやって、それで最後にしてやりたいものだと考えたのです。人々の反応は、それはすごかったですよ。「ありがとうございます」とわたしが頭を下げている間に、皆さんが、10銭札、50銭札を、次々と投入されるのです。もう、ひっきりなしですよ。
兵頭:コイン用の金属がないために、当時そういう小額の紙幣があったのですね。
綿谷:驚くなかれ、そうやって22万円も集ったのです。日本人の皆が、傷痍軍人に感謝こそすれ、あの戦争が悪かったなんて言うものは、誰もいやしやしませんでしたよ。
 この療養所時代に、わたしは「生長の家」を知ることになりました。患者仲間が死にそうになったとき、まだ生きているその人のために「お経をあげよう」という兵隊がいましてね。「縁起でもない」と思いましたが、それが「甘露の法雨」という、生長の家のテキストだったわけです。わたしも読んでみました。人間は死んでも死なないのだ、と書いてある。
 その患者は、死にましたが、喜んで亡くなりました。「俺は死んでも死なないんだ」ってね。善人ではありませんでしたが、往生は立派でした。じつはその前に、一人の陸軍軍曹の患者仲間の臨終も看取りました。彼は「俺は死にたくない。死なないぞ」と叫びながら、くやしそうに死んだんです。この二人の末期のコントラストが印象的でした。22年のうちに病気が全快して帰宅したわたしは、昭和23年1月に、生長の家の青年会に、誘われるままに入りました。
兵頭:戦時中の生長の家は、大東亜戦争全面翼賛の愛国主義スタンスだったので、兵隊の間では素朴に好感されたようですね。それで入信されたんですか?
綿谷:はい。病気なんてない。肉体なんてない。そういう教えです。良いところだけ聴いて、悪いところは聴かなければいいと考えて、入りました。昭和29年には、江別に「綿谷建具製作所」を開業して独立いたしました。この経営を平成19年の廃業まで続けました。
兵頭:生長の家は、戦後、はやばやと、保守主義の政治的運動も展開するようになったみたいですね。
綿谷:創始者の谷口雅春さんは、今の憲法はダメだから元の憲法にしろ、正しい明治憲法に復せと、いつも叫んでいました。多くの人が共鳴していましたよ。
 わたしも、社会党や共産党の主張することには、常から怒っていました。江別に社会党の浅沼稲次郎が来たことがあるんです。浅沼さんは演説で、教育勅語がダメだと言った。「君に忠に、親に孝に……」なんてダメだってね。それでわたしは、彼の宿の2階の部屋まで押し掛けて、「なんで教育勅語が悪いんだ」と問い詰めようとした。一言、二言の言い合いになったところで、宿屋の主人にひきずりおろされましたけどね(笑)。
 自宅の高いところには「正しい憲法にしよう」とか「君が代を歌おう」とか、いろいろな看板を掲げていました。
 地元の江別小学校には、子供が入学する前から、「日の丸を揚げてください」「君が代を歌ってください」と要求を重ねました。すると、彼らは「学校に子供が入ってから言え」という対応ですよ。
 それで、子供が入学しましたので、また要求をしますと、「何言ってんだよ、役もやらないで」という返事です。
 じゃあというので全校委員会の委員になりました。そして6年間、委員会で、国旗と国歌の要求をし続けた。「うるせえなぁあいつ、また始まった」と聞こえよがしの声がする、そんな委員会でしたよ。
 でも、運動会のときに、ある先生が告白してくれた。『じつは綿谷さんに賛成なんだ。おれは国体の選手だった。日の丸の大きな旗を6人で持ってトラックを一周して掲揚した、あのときの気持ちはなんともいえないもんだった。でも、ここではみんな国旗に反対だから、おれは何も言えなくて……。綿谷さん、がんばってくれ』ってね。
 もちろんPTA総会にも毎年、出ましたよ。この校長が、国旗や国歌はまだ法律で制定されていない、などと言うものですから、「国際慣習法の常識として日の丸は事実上の国旗であり君が代は事実上の国歌だ」とわたしは反駁してやりこめました。
 ある年、PTA会長に、校長の大嫌いな人物が就きそうになりましてね。よほど嫌いらしくて、校長がわたしに「綿谷さんがPTA会長をひきうけてくれませんか」と頼むじゃありませんか。そこで私は交換条件を持ち出した。もちろん、国旗と国歌の件です。それを呑むなら就任しましょう、と。
 すると、校長の顔から急に汗が噴き出してきましたよ。人間、強度のジレンマに直面すれば、あんなに汗が出るものか……。
 ともかく、息子が6年のときに、校長はとつぜん方針を変えたんです。国旗は掲揚され、国歌は斉唱されるようになったのです。息子が江別小学校を卒業してもなお1年間は、約束が守られたと聞いております。
兵頭:綿谷さんは、北方領土問題に関しては、全千島だけでなく、樺太の南半分も取り戻そう、とのご主張ですか?
綿谷:そうです。そういう主張の横断幕をじぶんのビルの3階に張り出していたこともあります。
 昔は、共産党の演説を聞きに行っては、会場でさかんにヤジを飛ばしていたものですよ。共産党は、「全千島を返せ」という立場ですが、あるときわたしは、ある共産党の市議候補に、「樺太も頼む」と、演説会場で立ってお願いを申し上げた。するとその候補は怒鳴り返したものだ。「いいか貴様、南樺太はな、あれは日本がロシアから盗み取ったものだ!」と。そう言われちゃ、わたしも黙っていない。「売国奴!」ときめつけた。血の雨5分前という空気になったところで「オーイ綿谷さん」と呼ぶ声がする。その人はわたしの借金の保証人さんだったですよ。その方の息子が共産党員だったんですな。もちろんわたしは引っ込みました(笑)。
 警察官の皆さんからは、「綿谷さん、すこしおとなしくしてくれ」とたびたび言われたものですよ。「あんたを守るために、ずいぶん気ィ遣ってんだよ」ってね。でも、やめられないじゃないですか。
 別な共産党の集会で、痛烈なヤジを飛ばしたときには、屈強の会場ガード数名からぐるりと囲まれたこともあります。あわや、袋叩きにされんとするところ、共産党の市会議員が慌てて止めに入った。というのは、そういう会場には必ず私服警官がどこかに潜んで監視をしているものなのですよ。暴力事件などが起れば警察側の思う壺ですからな。
 わたしがヤジで有名になると、集会への入場をさいしょから断られるようになりました。しかしそんなときは、「公共の建物を使った演説会なのに一般人を入場させないなんておかしいじゃないか」と、役所に苦情を持ち込むんです。その結果として、ある建物の使用そのものを禁止させたこともありましたよ。
兵頭:そんな綿谷さんが、なぜ生長の家にはあきたらず、新風の党員になったのでしょうか?
綿谷:これも話せば長いのです。わたしは、建具の製造事業を始めてから、大きな火事に2回、みまわれています。昭和54年の火事では、借金が急に5000万とか1億に膨らみました。
 もうダメかと思ったぐらいでしたが、当時、創価学会と喧嘩をしていましてね。創価学会の連中から「それ見れ」と言われるのは悔しいものだから、頑張ったんです。生長の家では、すべての宗教と仲良くしろと言っていたけれども、創価学会は、他宗を認めません。泥棒よりもまだ悪いなどと他宗を罵ります。
 火事の後の窮境で、わたしは、生長の家の一員としての自覚が浅かったのかな、と、自己反省をすることになりました。従業員を何人も使うようになってからは、組織の活動は、ほとんどかえりみていませんでした。そこで、あらためて生長の家の組織の中の諸活動をいっしょうけんめいにするようにしたんです。
 そしたら、奇跡が起きたのですよ。明日の手形が、もう、どうにもできそうにない。そんなときにです。今までなんぼ頼んだって「貸さない」の一点張りだった人が、急に「貸してやろう」と言って来ました。他にもいろいろなところから、「おまえ、苦しんでいるそうだから……」と、援助の手が、さしのべられたのです。「カネはないけど手形で貸してやるよ」とおっしゃる人もいました。お金の総額は、1000万や20000万ではきかないですよ。「こんなことが本当にあるのか」と思いましたがね。「これは信仰のおかげだ」とわたしは思った。
 その実体験を生長の家の新年会で語っていたら、あるとき地方講師が、「その話を、谷口清超さんや谷口雅宣さんの前でしろ」と奨めるわけです。
兵頭:生長の家の創始者の二代目と、三代目の方でしょうか。
綿谷:そうです。ついに2名が呼ばれて、1名が7、8分話すことになりました。ところがその1名がたまたま風邪で休んだため、わたしが予定の倍の長さの話をしていいことになった。そこでわたしは、貰った時間で、「大東亜戦争は立派な戦争でした」という熱弁をふるった。このお話は、地方の集りでは、それまで、誰からも反論されたことなどないものでした。
 ところが、なぜか谷口雅宣さんからですね、「他の人の話はよかった。が、おまえの話はおかしいんじゃないか」と批判を受けてしまった。
 その後ですよ。雅宣先生がさらに、月刊『理想世界』という生長の家の宣伝雑誌上に、〈あの「太平洋戦争」を、良かった、という者がいるが、とんでもないことである。あれは日本が悪かったのだ〉という内容の、寄稿をされたのです。じつは大東亜戦争の是非論については、信徒と、雅宣先生との間に、かなりの論争がございましてね。
 そこに、清超先生も乗り出してきた。〈そんな論争をやっているのはけしからん〉とおっしゃるわけです。〈そもそも日本が真珠湾攻撃という悪業を犯したから、原子爆弾を落とされて何十万人も殺されたので、それは仕方が無いんだ。何十万という数の問題ではない〉というような主旨。
 わたしは憤慨もし、また呆れもしましたよ。「こんなバカな話をするなら、こんな生長の家なんかにはもう居ないわ」と、おん出た。組織の上の幹部と論争しても、わたしが勝てるわけはありません。だから、わたしの方からご縁を切った。それで、今やわたしは無宗教です。
 今年の5月、江別市英霊顕彰会会長に就任しまして、7月に、仏教の法要をしてもらってはいます。けれどもね、仏教の人たちは、なぜか靖国参拝に反対なのですよ。浄土真宗大谷派は、〈千鳥ケ淵は良いが靖国には絶対に行かない〉などと言っている。大東亜戦争が嫌いで、反天皇ですらある。曹洞宗にだって、〈英霊と呼ぶのはやめよう〉なんていう動きがあるのですから。みんなどうかしています。
兵頭:そうだったのですか。しかし生長の家からの離脱が平成の初め頃といたしますと、「新風」の成立までにはまだ何年かインターバルがありますよね。
綿谷:しばらくは必死に仕事をしていましたよ。明日の手形を考える日々。でもさいわいなことに、バブルの影響で、景気が上向いた時期もありました。
 わたしは、故・影山正治先生が主宰されておられた「不二歌道会」にも所属しておりましたが、そこで人から、「新風」について最初に知らされたと記憶します。平成10年より後でしょうね。不二歌道会には、『國民新聞』の山田惠久先生も入っておられました。
 新風の本部に参りまして、わたしは、いきなり「終身党員」になりました。大東亜戦争についての評価にブレが無い党です。それで、ずっと党員を続けておるんですよ。わが国は、悪いことはやってきていないんですよ!
兵頭:新風時代以降の、綿谷さんの政治活動についてお話しください。
綿谷:千代さんが北海道本部代表だったころですと、もう若い党員が20人くらいいらしたので、わたしは何もする必要はありませんでした。それから3回くらい、参議院選挙を手伝ったこと、ぐらいです。
 平成18年まで党費の年額1万円を納めてくれていた人は、12人いたと思いますが、ご承知の不祥事件で、若い人はいなくなってしまいましたよ。ですから先日の札幌でのNHKへの抗議デモにも、北海道本部から、わが党員として参加ができましたのは、わたしと副代表――彼は牛を飼っている酪農家ですが――の、たった2名だけです。
兵頭:それは確かに「壊滅」ですね。
綿谷:救う会、そして日本会議北海道本部の方でもある弁護士の藤野義昭さんが、千代さんの言い分と、金銭的損害を申し立てている方々の側の言い分をそれぞれよく聞いて、どうも千代さんに分が悪いと判定しておられるのですよ。
 それで魚谷さんを呼んで話をしましたが、魚谷さんはやっぱり千代さんの肩を持つ。千代さんを北海道本部の代表ではなくするところまでで、党からの除名ができない。それで藤野先生は怒ってしまって、新風の講師団も辞め、新風とはすっかり縁を切ってしまわれた。
兵頭:選挙を一緒に何度も戦ったことで、魚谷さんには千代さんに対するかなり強い同志意識がおありになるのでしょうね。
綿谷:そんな次第で、昨年の党大会で、もう誰もなり手のなくなった北海道本部代表に、消去法のようにしてわたしが推されたわけです。けれども、こうして杖をついて歩いているこの八十翁が、長くこの代表をやっていて良いとは思っていません。早くもとの健全な姿に立て直さなくてはどうしようもないのですが、……苦慮しております。
 ――――ここまでで、綿谷正氏との問答のご紹介は終わりとしよう。
 兵頭が、このインタビューのあと、札幌の渡邉隆之氏その他に取材した話を総合するに、どうも千代氏ら2~3名の方々が党籍を残しておられる限りは、若い人がふたたび新風北海道本部のために働こうという気になることはなさそうな空気を感じましたね。正直なところ。
 しかし、綿谷氏の飾りの無いキャラクターは、兵頭が以上紹介した通りです。
 これを読んだ北海道の若いみなさん、江別の老活動家としての綿谷氏個人を、すこしばかり、応援してみてくれませんか? 新風とは切り離してね。
 そういう気持ちになってくれた人は、綿谷さんに直接、連絡をして欲しい。
 連絡先は、維新政党・新風 北海道本部
〒067-0005 江別市 牧場町6-5
電話・FAX 011-382-3004
 ……です。
 たとえば綿谷さんはとても一人ではHPを立ち上げることができないんですよ。
 誰か近所の人がボランティアで手伝ってやってはくれぬだろうか?
 そんな期待をしたいと思います。