それは「ハイテク」か「地味テク」か?

 Bob Bergin記者が『Air & Space Magazine』のために人民解放軍の退役パイロットの Yang Guoxiang 氏に昆明市でインタビューした「One of China’s top test pilots recalls the H-Bomb that almost backfired」という記事がシナ軍関係のブログに転載されていたのを読んだ。これは面白い。以下、摘録。
 Yang 氏は雲南のド田舎出身。対日戦中に成長した。1948-11に反・国民党の暴動に加わり、山岳地に逃亡し、共産系ゲリラになった。1949 に正式に人民解放軍に加入。
 同年、中共の新空軍が創設された。まもなく、朝鮮戦争勃発。
Yang 氏は1000人の航空学生志願者の中からたった1人、選ばれた。
 1950-2に北京の飛行学校へ。教官は旧帝国陸軍の捕虜パイロットたちが志願していた。旧国民党の者もいた。
 飛行機は、旧日本軍のものと、「米国型」で、WWIIからもちこされているもの。実戦部隊に配属されるまで、教育期間は3ヶ月。
 70時間の飛行後に、対地攻撃機部隊に配属された。機種はソ連製の「イリューシン10」。シュトルモビクの後継機だ。原隊はシナ北西部にあった。
 北鮮に進出せんとしたが、北鮮内の航空基地がF-84によって破壊されてしまい、部隊は進出ができなかった。
 やむなく満州内の基地にとどまった。そこからは、北鮮上空でのF-86の乱舞が見えた。
 中共は1953休戦後に「ミグ15」を対地攻撃用にカスタムした。
ソ連からの援助機はとにかくエンジン寿命が短かった。
 対ソ関係が悪化したので、1958に、国産の対地攻撃機を開発することに決まった。
 燃料不足は深刻だった。1958以降も、年に40時間しか飛行訓練ができない。それで飛行学生募集が何年も中止された。
 初国産の超音速対地攻撃機「Qiang-5(Q-5)」の主任設計者は、元国民党の将校である。彼、Lu Xiaopeng は米国留学帰りであった。蒋介石が台湾に逃げるときに、彼はついていかなかった。
 設計者は、ソ連の「MiG-19」をもとにして、航続距離を伸ばしたりしているうちに、「F-4 Phantom」みたいなもんができあがった。それが「Q-5」だ。
 Yang は1965に Q-5 のテスパイに選ばれた。それまで超音速機に乗ったことがないので、まず MiG-19 で慣熟した。
 1966 から 1967にかけ、Q-5で 200 回、飛んだ。
 1967の会議では、党のお偉方を前に、操縦系の油圧が低くて応答特性が悪すぎると指摘。
 すべてのテストは1969-12に終わった。量産も始まる。Yang は山東省の第19飛行師団長になった。
 このQ-5のテスト飛行中、お偉方から、「この機で〔小型化した新型の〕水爆を運搬できそうか」とたずねられ、ヤンはできると答えた。
 このプロジェクトを現場で指揮する党の担当者は、周恩来だった。
 それ以前の核爆撃機「Tu-22」は6人乗りの重爆である。しかるに、Q-5は単座の攻撃機だ。〔単座機に水爆の実弾を搭載するとなると、パイロットが1人であるために党には心配がある。それをソ連へ持ち逃げされたり、近くの都市や軍事施設に落とされないという保証がないからだ。そこで、〕政治思想が十分に信用できたヤンが、水爆投下実験のパイロットとして指名された。
 水爆は、長さ2m、重さは1トンあった。
 それをQ-5の胴体下に吊るすことにした。胴体には少しリセスがある。フックは2点で懸吊する。
 リリース(トス爆撃法)後に爆弾がまた機体にぶつかってこないような装置もとりつけた。この改善型を「 Q-5A」と称す。
 どうやら1970末には投下実験できそうだった。
 Q-5の水爆投下は、落とすのではなく、投げ上げるのだ。トス爆撃である。
 まず高度300mを時速900キロで水平飛行しアプローチ。
 そして破壊目標から距離12kmまで達したなら、45度で急上昇開始。正確に高度1200mに達したところで、爆弾をリリースする。
 すると水爆は惰性で高度3000mまで投げ上げられ、そこから抛物線落下する。
 リリースから60秒で爆弾は空中炸裂する。
 もちろん投下機はリリース後はすぐに反転して遠ざかる。
 ヤンは、鉄とセメントで重さを再現したダミー爆弾を200回、投弾して練習した。
 200m直径の標的に対し、10回投弾すると、だいたい1回は、50m以内に落ちた。
 ところが1970にロプノールで小型(重さ1トン)の新水爆の静爆が不成功におわってしまった。
 それで実弾投下実験も無期延期に。
 ……と思っていたら、1971-9の林彪墜死をうけて、毛沢東は、士気鼓舞のために水爆実験を年内にやれと命令した。
 いよいよ実弾投下は、1971-10-30と決まった。
 離陸はロプノールから300km離れた基地だった。
 この水爆には、5重の安全装置があった。
 爆弾を飛行機につるしたときに1つめが解除される。
 離陸後15分で、2つめが解除される。
 目標区域に達したところで、3つめが。
 パイロットが投下決定をしたところで、4つめが。
 そしてリリースから60秒で自動的に5つめが解除される。
 標的の12km前で、45度上昇を開始。高度1200mでリリースした……つもりだったが、なんと爆弾が機体から離れねえッ!
 リリース・メカニズムは念のために3系統あり、すべてを使ったのだが、無駄だった。
 それで旋回してもういちどやりなおした。やはり離れない。
 3度試みたがダメ。燃料がなくなった。ヤンは決断を迫られた。
 ヤンは爆弾を抱いたまま、基地へ戻ることにした。機体ごと捨てても良いといわれていたのだが。
 これはリスクがあった。飛行基地には1万人がいたからだ。
 爆弾と地面のクリアランスは、たったの10cmしかない。
 なお、この実験中、地域の他の無線は一切禁止されていた。
基地には周恩来がいて、全将兵にトンネルに退避しろと命じた。昼飯時なのに全員ガスマスク着用で退避。このため無人化した厨房の炊飯器から火事になっている。
 というわけで、ひとっことひとりいない滑走路に見事に着陸した。
 なお、水爆には、静電気を遮断するゴム衣なしでは誰も触れないことになっていた。水爆貯蔵庫内の鉄柱〔鉄格子?〕には銅被覆がされていた。
 北京で原因を解明したところ、本番用のシャックルを温かい室内で整備・保管したままで、冷気にさらした実験をしておらず、それを本番で急に低温にさらしたために動作不良を起こしたのだとわかった。
 次の投下の試みは1972-1-7だった。基地には雪が降っていた。
 こんどは初回でリリースがうまくいった。すぐ旋回し、コクピットにシールドを展張した。
 大きな閃光に続き、ショックウェイヴを感じ、機体が荒波の上の小舟のように揺れた。彼はキノコ雲を見た。その時点で爆心から20km離れていた。
 基地では雪模様のため、誰も閃光もキノコ雲も見ていなかった。
 ヤンの名前は1999まで秘密にされていた。
 彼は50歳で退役するまでQ-5を飛ばしていた。
 引退後は昆明に住んでいる。
 そしてQ-5はいまでもシナ空軍の現役機である。
 ※1972-1-7実験については、従来は次のような解釈が西側でなされていた。いわく。この実験は8キロトンのプルトニウム原爆で、低出力であった。F-9戦闘機から投下されたので、戦術核だ。重さは700kgであろう、と。今回のインタビュー記事が真相を伝えているならば、こうした観測はいろいろと間違っていたことになる。
 ※兵頭の見たて。それまで5、6、8、9月に核実験するのが常だった中共が10月とか1月に大気圏内実験を命じたのは異例。2度目は、2月のニクソン訪支にむりやり間に合わせたのだろう。毛沢東のあやつりであった周恩来が、ニクソンと対等に交渉するためだ。とすれば、この実験が強調したのは、シナはF-9でトスできるくらいの軽量な水爆をもうつくれるんですよ、というデモンストレーション以外にない。それまでのシナの水爆は重さが2.2トンあり、長征に載せられるかどうかは疑問だった。しかし1トン未満の小型水爆があるなら、それを長征に載せれば、シナ本土からニューヨークを脅威できるという蓋然性が認められる。だから米支はいまや対等だと周恩来も胸を張れるわけだ。じっさい、シナの対米攻撃用ICBMは1980に実戦配備されたようだが、その水爆弾頭技術は、1972-1-7の小型軽量水爆を、何年もかけて洗練したものだったのであろう。配備当初も、水爆としてはかなり威力の低いものだったのであろう。