つまらぬ本のために1日前後、無駄にしてしまった。
函館市立中央図書館に堂々と開架で並べられている、それも「小説」コーナーにではなくノンフィクションの扱いになっている『戦場の狗 ある特務諜報員の手記』(1993-1、筑摩書房刊)である。
じつは、ある人から「満鉄に雇われ英才教育されたアイヌ人スパイがいた」という話を聞いた。そのソースが本書である。
その人は当該書の内容を事実だと信じ込み、海外辺境一人旅のバイブル視しているようであった。
わたしはそんな話をこれまで聞いたこともなかったので、「そのネタは、史料の信頼度をじゅうぶんに精査する必要があるだろうと直感します。そんな事実がもしもあったのならば、たとえば北海道でいちばん購読戸数の多い『北海道新聞』のような反政府左翼的マスメディアが、放って置くわけがないと思います。よろこんで取材して「戦前暗黒史観」の補強記事にしているはずでしょう」と返信した。
わたしは『表現者』に「近代未満の軍人たち」を連載している。いつかは北風磯吉(アイヌ出身兵で金鵄勲章)について、ぜひとりあげたいとも念じていた。ところが北風の関係史料は小樽図書館に行けばあるそうなのだが、函館図書館には全く無いときている。そのために、いまだに旅順の英雄・北風については何も書けないでいるのは残念である。
しかし北風以上の戦争の英雄がいるという。これを知らずにいたとなると、やはり北海道在住のライターとしては恥であるから、なにはともあれ確認せねばと、わたくしは当該図書を借りて読んでみたのだ。
著者は「和気シクルシイ」という男性で、生まれが大正7年=1918年4月(戸籍上は6月とか。この変更のいきさつも信じ難いものである)。
74歳で初めて自分史を公刊するため書き綴ったことになる。それまで誰にも取材を受けなかったのか?
インターネットで検索すると、誰もまともにとりあげていない人物であることだけは確認できるであろう。
子供の頃に、近所の誰とどんな遊びをして、ある日こんなことがあった――という述懐がない。こうしたディテールの不足感は、全篇を貫いている。
1929に「ハルピン学院」で「体術」の67歳の「老師」からテコンドーを2年間習ったという。しかしネットで調べると、そもそも「テコンドー」という単語が創出されたのが1954年12月であったと知れよう。
著者は松岡洋右と3回会っているというが、やはりディテールが乏しい。松岡の伝記を読めば誰でも書けるようなことしか書いてない。
……というか、この著者は松岡の伝記も十分に確認していないらしいことは、読むに従って明らかとなる。
第一回面会は1931-9で、場所は大連だったという。13歳の少年を応接間に迎え入れ、松岡は英語で長広舌を揮い、共産主義を排斥するための満鉄の義務や、ドイツでのナチズム台頭などにつき語ったという。和気はそれまで8年間、外国語の英才教育を受けていたので、その内容が分かったという。
1931-9-20から、燕京大学で、言語学者のアルマンド・スタニスロー先生(50歳前後、略称スタン)に就いて学ぶ。
1932-6から1933-5にかけて、スタン教授の学術調査キャラバンに加わり、蘭州や昆明まで行って北京に戻ってきた。装甲バス、有蓋トラック、ジープ混成だったという。
この著者はジープが1930年代前半には存在するわけがないという自動車発達史には、頓着をしないらしい。
1933-12のクリスマス後に、著者はスタン教授と中東旅行に出たという。このとき、スタン教授が「戦略事務局」OSSのスリーパーであると知ったという。
この著者は、OSSが1941年以前には存在しないことにも興味がなさそうである。
1937年10月20日、スタン教授は著者をワシントンに連れ出し、松岡洋右に会わせた。場所は日本大使館の一室だという。
史実では松岡はその時期には満鉄総裁。渡米の事実もないが、著者はそういうことには読者は関心をもつまいと踏んでいるのだろう。
1938-9に神戸につくと、松岡の指示で、「相沢中佐」が迎えに来ていた。この中佐は「ワシントンの日本大使館の山荘」〔オイオイさっきは大使館の一室だったろ〕で松岡に会ったときにも松岡の身近に陸軍中佐の制服を着ていたというが、神戸では背広だったという。
著者は数ヶ国語に通暁する記憶力の良い若者のはずだが、相沢中佐の下の名前は一回たりとも出てこない。兵科も、出身中学名もわからない。
あとになると、相沢中佐は、大佐となって出てくる。それは1940のことである。ふつう、中佐から大佐へは3~4年で進級するから、これは、おかしくない。
しかし、相沢は、著者より12歳、年上だという。ということは1906生まれ。明治39年である。明治39年生まれのエリート軍人は、ほぼ、士官学校39期である。39期の同期で最も早く大佐になったエリート君は、昭和20年3月の昇進である(次の40期になると、終戦前の大佐はゼロ)。
S16に大佐である陸軍軍人ならば、それは陸士34期より前でないと、整合しないだろう。
……とまあ、そんな計算をやってみずとも、大佐以上の軍人の名簿は『陸海軍将官人事総覧』でぜんぶ調べがつくので、終戦時に大佐だった「相沢」なる陸軍軍人がひとりもいなかった事実は、簡単に知られることなのである。
相沢は、燕京大学を卒業したあと、ドイツに3年間も領事館付武官として住んだという。
ベルリンには「大使館」があった。
著者は1938-5に相沢中佐の案内で熱海の別荘に松岡を訪ねたという。松岡は、いま行なっている南方作戦を中止して中国本土の反共に努力すべきだと語ったという。
まだ北部仏印進駐すら始めていないんですけど……。海南島もS14だしね。
1938夏時点で著者はアメリカにおいて、北千島のアイヌ語の研究で博士号を得ているという。
論文博士ならばその論文のタイトル、博士号をくれた大学、レフェリーの教官、ぜんぶ覚えていて当然だろうが、ひとっこともそれが語られることはない。
「燕京大学」卒の20歳の日本人に言語学系の博士号をくれてやるアメリカの大学が、当時存在したとは、想像もできないけどね。
著者は、1938-12-15に相沢中佐につれられて大本営へ行き、いきなり陸軍少尉に任官したという。
非軍人である若者は満20歳で徴兵検査を受けねばならなかった。その場合、高学歴者でも最初は陸軍2等兵とし、予備士官学校に通わせる間は下士官とし、それから陸軍将校へ任官させたものだ。いきなり陸軍少尉なんてあってたまるかい。
1939-2に相沢中佐につれられて新京へ。4-19に新京の「関東軍本部」に行き、「参謀部」で話した。
この著者の記憶には、正確な組織名、部署名がぜんぜん入っていないらしい。それなのに早熟の天才? すくなくも本書の作者が旧軍のプロ軍人などではなかったことは確かであろう。
1940-6末、天津で、相沢大佐に会った(p.62)。
1941-6には重慶に潜入。通路のスピーカーで、「東南アジアやマレー半島の戦況」などを放送していたという。
日本軍がマレー半島に上陸するのは1941年12月なのだが。
1941-11のベトナムに、アメリカ製のジープがあったという(p.91)。
松岡は、1940-4にスターリンに会って帰国する途中に外務大臣を罷免されたという(p.95)。
著者は、戦前の総理大臣には閣僚罷免権が無く、総辞職しかないということを知らないらしい。7-16に近衛は松岡を抛り出すために総辞職したというのが史実。もちろん松岡はとっくに帰朝していた。
1941-12のタイに、ジープがあったという。
バンコクは建物が壊れていた。なぜなら1940-9に日本軍が仏印に送った軍隊がやったのだ(p.103)。
北部仏印進駐で中立国のタイの首都にまで日本軍が雪崩入ったら、その時点でもう世界大戦じゃないかとは、この作家さんは考えないらしい。
1942-2中旬に、アメリカ製のイギリス軍ジープでバンコクからシンガポールへ走ったという。5ミリ鋼板で装甲されていたという(p.104)。
シンガポール近くの水上では日本海軍の巡視船が英語で「浮遊魚雷に注意して進め」と呼びかけていた、という(p.116)。
大川周明は「老壮会」を主宰し、「行地社」を結成したという(p.118)。
1945-1にチベットにあった米空軍のゴルムド基地で、ロシア語放送を聞いたという。それによるとアメリカが開発中の新型爆弾が製造段階に入ったので、これで日本本土を攻撃すれば戦争の終結はそれほど先のことではないと言っていたという(p.144)。
史実ではトリニティ実験が7月。しかも広島投下まではプロジェクトは厳秘にされていた。
1945に「中支派遣日本軍」が安徽省に居り、その「中支派遣軍司令部」は南京にあったという(p.166)。
1945になってから、著者は、「中尉」になっていることを知ったという(p.170)。
1939から少尉を6年以上もやってたのか? それだけで映画になるだろ。「最先任少尉」だわ、間違いなく。
松岡は1941に、日ソ中立条約締結後、日本に戻る車中で内閣総辞職を聞き、自らも外務大臣の席を追われたことを知った、という(p.172)。
1945-7の大同。半島では徴用されるというので30万人くらいの朝鮮人が北支の大同の炭鉱に移住して、シナ人相手に威張っていた。朝鮮人は、日本の敗北が近いと知るや、現地人の側に寝返ろうとしたが、現地シナ人はそのまやかしに乗らなかった。朝鮮人は「半国人[バングオレン]」と蔑称されていた(p.180)。
こういう記述と、シナに関するディテールだけがやたらに詳しいことから、本書の作者はシナ人ではないかとも疑われる。
張家口で聴いた1945-7-9昼の重慶放送は、アメリカが新型爆弾の第一回実験を太平洋のどこかの島で実施したとアナウンスしていた。それは「アトミック・ボム」であるとも言っていたという(p.182)。
相沢はリッチモンドのバージニア州立大学で卒業するとき金時計を得たという(p.195)。
南京の虐殺に反対し、城内の酒楼で毒殺された関東軍参謀・川崎辰雄大佐がいたという(p.198)。
参謀が死んだ事件があったらそれだけで大事件でしょう。もちろん、実在などしません。
この川崎大佐は著者の父の妹が嫁いだ先で、旭川第七師団にいたが、関東軍参謀部二課に転属になっていたという。
著者は日本に帰ってきて「東京拘置所」に入れられ、日比谷の濠端のGHQ建物内で取り調べをうけたという。
「巣鴨」という単語が出てこない。そして、拘置所の中に他に誰がいたのか、一行の記述もない。だいたい第一生命ビルの中で犯罪容疑者の取調べなどするものか。場違いも甚だしいだろう。
あとがきにいわく、相沢大佐には戦後いちども会っていないが、東南アジアあたりのどこかで暮らしているらしい(p.231)。
随所に旧日本軍の対住民暴行が捏造されて証言されており、架空の「アイヌ人」のIDを駆使して、シナ人の反日ブラック・プロパガンダに加担した書物であることは瞭然としている。
中共が仕掛けるこの類の低級な宣伝企画が、またこれから増えるのではないかな。ミリタリーの「識字力」(リテラシー)を身につけ、せいぜい警戒すべし。