◎「読書余論」2012-12-25 配信 の内容予告

▼ヴュルツバッハ著『非核化時代の安全保障』S63、原1983?
▼西郷従吾『アメリカと西欧防衛』S56-3
▼ジョージタウン大学戦略研究所ed.、時事通信社外信部tr.『チェコ以後のNATO』S45-2、原1969
 NATOのきまりによれば、ベトナム戦争には全欧が馳せつけるべきなのだが、実際は片務的であることが確認されてしまった。
▼Harlan Cleveland著、鹿島平和研究所tr.『NATO――その変遷と将来』S46-11、原1970
 チェコ侵入の前には、在欧米軍の削減という流れがあった。
▼戦略問題研究会ed.『戦後 世界軍事史〔1945~1969年〕』S45
▼防研『北大西洋条約機構(NATO)(1949年~1969年)』1969
 54-10-2、独は仏に対し、12個D=40万しか持たぬ、と約束。英も仏を安心さすため、むこう44年間は英軍を欧州に置く、と。
▼丸尾眞『NATOの東方拡大問題』1996(財)世界平和研究所pub.
▼Ronald Steel著、平泉 渉tr.『同盟の終り』S40、原1962
 ミサイルの戦略射程化で、米の在外空軍基地は続々と不用化しつつあったので、英仏としては、米をまきこむための独自の核兵器が必要になった。
▼日本経済政策学会ed.『経済政策の諸問題』S16-2、日本評論社pub.
 ドイツでは1937から、国境から500km離すことで工場は敵の重爆から安全になること、逆に150km以内では工業の対空防護は不可能であると結論。
 電化は工場疎開を容易にした。
▼海保燈台部『日本燈台史』S44非売品
 S25に、終戦処理の砲身を灯塔に利用し、波圧を少なくして自重を増した。→黄金碆。
▼日本経済政策学会『戦争と経済政策』S18-1
 アクィナス:「まさかの場合に食糧が入って来ず、そして食糧が届くまでに人民の生活が脅かされるやうな形で食糧を外国に依存してゐる国は、国家としては不完全」。
▼東京都ed.『明治初年の武家地処理問題』S40
▼Jerome B. Cohen著、大内兵衛tr.『戦時戦後の日本経済 上』1950
 田中貢は『ダイヤモンド』1940-12-1に「日本はナチスの経済統制を学ばざるべからず」と寄稿。
 しかし1940~1942の日本のGNP増は、わずか2%強。日本の官僚がいかに無能かが知れる。
 1944のGNP指数は、1940の1.24倍。
 藤原銀次郎が調べたところ、アルミ地金の55%しか飛行機には使われていなかった。あとはなんと、ナベ・カマ、容器、機械台に無駄遣いされていた。
 東條は1943に独裁の非難をかわすため7人の経済界指導者からなる内閣顧問を任命。「最高戦時経済会議」としたが、週一回、自由討論を首相が傍聴するのみで、なんらの決定も勧告もおこなわれず。
 小型熔鉱炉というものは、人員とコークスの無駄遣い。非効率すぎ。
 進駐軍がジープに松根油を試した、数日でエンジンがダメになった。
 マグネシウムは海水から取れる。日本こそ活用すべきだった。独と米は、とっくに活用していた。
 日本は飛行機工場を分散どころか、開戦後にわざわざ集結させていた。
▼『戦時戦後の日本経済 下巻』1951-3tr.
 1人の熟練工の穴は、3~4人の未熟練工でなければ埋められない。
▼Emeny著、一原有常tr.『米国戦争資源の分析』S17-2、原1938-11
▼中村隆英・原朗ed.『現代史資料43 国家総動員 1』1977、みすず書房
 S12年度以降の軍事支出の拡大は、必然的に入超を招き、国際収支が悪化する。
 外国で起債する道の無い以上、あとは、直接統制で内需を抑えて国際収支をかろうじてバランスさせるしかなかった。
 満支に出超でも、円が戻ってくるだけ。ドルやポンドは、入らない。
▼防研史料『兵器本廠歴史前記(明治31年~35年)』
▼『偕行社記事 No.163』M30-2
▼『偕行社記事 No.165』M30-3
▼羽仁五郎『白石・諭吉』1937-6
▼ウィットフォーゲル著、平野義太郎らtr.『東洋的社会の理論』S14-6
 奴隷経済文化は史上に一回きり(Einmaligkeit)生起した。すなわちギリシャとローマ。それは天水農耕と不可分であった。
 東洋的国家では、上層は王+官僚に等しい。
 黄土帯では、河川流量が夏は過多となる。そして、降雨は農作にとって不適当な時にある。だから、人工灌漑が必要。
 西欧では、都市は政治的に独立していたから、商業資本は工業投資家になることができた。それは市民に法的安全(burgerliche Rechtssicherheit)があったから。
 その下地は、農業が集約的でなくて、地方拡散的で、生産力が低かったこと。
 周の末期以前には、税とは力役であり、公田を耕させるものだった。しかし誰も他人の土地を熱心に耕すものはいないので、税収が悪すぎた。
 むしろ、土地をすべて農民に与えて、小家族に耕作させ、そこから地税を吸い上げた方が得だと為政者は気づいた。
 左伝には、戦車を御することが得意だったり、戦場で活躍できる宦官もいたことが書かれている。鄭和も宦官であった。
 礼記(小載礼記)と論語は強調する。妻および子は、老人に仕え、扶養せねばならない。だがそれだけなら犬や馬と違わない。「敬」がともなわねばならぬ、と。つまり外形的だけでなく、内的にも完全に従属しろというのだ。子は、長上に仕えるときの容貌にも注意しなければならない。完全なる子のみが、君主にとっての完全な隷僕である。
 こんな農民ばかりだったら、治安コストは削減できるわけ。
 ドイツ、フランス、イギリスの有畜農業は、日本の水稲作とは比較にならぬほど、男子の体力を要求するものであった。
 これが意味するところは、若者から壮年者にかけてが一番偉くて、老人になればその男子は壮年ほどには偉くはなくなる、ということ。
 支持点=アンハルツ・プンクト。※これが軍事用語の「支とう点」?
 古典古代ギリシャは奴隷経済だったが、それは工業に投入されたのであり、農業は奴隷に任せていなかった。
 農業に奴隷を使うことはあまり効率はよくない。手抜きをするのは簡単なので、おだてながら使用しなければならない。極度に酷使することができない。
 ローマでは、技術や注意のほとんど要らない分野、穀物の粗放畑作、油、葡萄酒、家畜に、奴隷労力が投入された。
 東ローマ帝国(シリアやトルコも含む)は人工灌漑農業であり、奴隷に任せることは不可能だった。
 都市の中に、国家につらなる役人どもがふんぞりかえっていたら、「市民」は誕生し得ない
▼尾崎秀實『支那社会経済論』S15-6
 尾崎は、支那社会とはいつまでも封建社会なんだという考え。
 シナの首都は、経済中心には置けない。国防上の合理性から、経済的な辺境に置かれる。そこと経済都市を連絡したのも運河。
 族長が、引退した国家官僚ならば、その族長を通じた中央集権が可能。
 この族長は、中央政権が革命で交替すれば、その次の政権と、すぐに結びつき、それで何の問題もない。
 国家の興亡と、村落の興亡が、きりはなされている。
 儒教とは、シナ家族の全面肯定に他ならない。君臣関係、朋友関係は例外規定であり、標準は、父子関係、夫婦関係、長幼(兄弟)関係である。それは狭い小家族のルールである。それを国家や国際にまで適用しようというのだ。
 水田農業では、畑作農業以上に、家長の経験値がモノを言う。
 国家支配者は、村の長老たちを大事にするといえば、全国支配が容易であった。
 以上のシナ式封建社会が崩壊しはじめたのは、ここ百年だ。
 秦の始皇帝と、漢の武帝は、他のすべての罪を帳消しにするくらいに、匈奴に勝ったことが偉かった。
 宋代の社会が沈滞していたのは、民族運動=対外戦争が消極的だったからだ。
 ウィットフォーゲルいわく。日本には、アジア的な大規模の灌漑システムは存在しなかった。だから集権的な専制国家もできなかった。中世のヨーロッパと同じ。19世紀においては、産業資本主義の進化の準備が完成されていた。だから開国すると即座に資本主義化した。
 秦の商鞅は、商人からは利潤を奪え、商人は抑えつけ、畏怖せしむべしと言っている。シナの古い伝統。
 その価値観から「士農工商」という順列が定義された。政策的に商業をおさえつける。
 商人はそれにどう対抗したか。商業部門に再投資せず、土地を買った。
 貨幣で納税させること(宋代の王安石の改革)は、政府が国民に対する「高利貸し商人」になること。
 シナでは繊維の手工業が工場にまで発達することが決してなかった。農と工が、分かれない。
 シナでは官僚の成れの果てが田舎の地主資本家となる。官僚と高利貸しが同じ人物。
 1895日清戦争で清国に多額の賠償金が必要になると、列国はそこにつけこみ、借金によって清国を支配しようと競った。
 つまり、商品輸出でなく、資本の輸出。
 シナでは、官営工場がダメだとわかると民営に払下げた。日本では、事業立ち上げのリスクを政府がとり、もう大丈夫そうだとわかると民間に売り渡した。
 WWIで欧州資本はシナから引き上げざるをえなくなった。そこに日本がつけこんだ。米国もこのときシナ市場を放置していた。
 1919以降、欧米は、シナ市場をとりかえそうとして力を傾注してきた。その努力のひとつが、ワシントン会議。
 1927秋に、新興資産階級である浙江財閥を基礎に国民党政府が南京にできた。
 さかのぼれば1924に孫文が容共政策をとって、国共を合作させ、北上。
 1927に長江筋に出て、漢口に武漢政府をつくった。
 さらに上海の資本と接触すると、その要求として当然ながら共産党を切れと迫られた。
 そこで1927-4-12に蒋介石は反共クーデター。
 マジャールが見抜いたこと。シナでは「土地税」がムチャクチャに収奪的で、ちっとも地主ブルジョアの権力を反映していない。資本蓄積など思いもよらない。だから地主や自作農は資本家として驥足をのばせない。
 北支では軍閥が「兵差」という名でカネや賦役や現物を自作農から強請り取る。自作農は零細化せざるを得ず。
 高い封建的地代の存するところにおいては、地主は資本主義的の経営を避けて、封建的な地代を得るために土地を小作せしめる。
 1928のシナ大飢饉。死者はおそらく何十万。この被災地ではメシを食うときは窓を全部閉じないと餓鬼の群れに襲われかねない。
 1931には、水害被災8000万人。このとき尾崎は水上機(操縦は米人)で上海から漢口へ飛んだ。見渡すかぎり水。。
 軍閥が大河川を分割支配すると、水防は不可能なのである。
 清末の「張公堤防」は堤防の上を自動車でドライブできるくらいの大規模なもの。
 蒋介石政権は清朝がやっていた治水事業をぜんぜんひきついでいない。口先だけでやるといい、税金をとって他に使っている。
 一国は30%くらいは森林が必要だ。しかしシナには7%しか残ってない。
 日本の水害と違うのは、カラカラ天気が続いているのに、水がどんどん上流から流れてきて增す。
 中共は1930夏に長沙を12日間、占領した。
 すでに失脚したが李立三という中共の領袖、一省で「首先勝利」をおさめて足場にすべきだと唱え、大工業都市の漢口を狙った。ちょうど水害時。
 尾崎は見た。汽船会社は、餓死者を長江に放り込んで処理していた。
 「食を求めて避難民が漢口に殺到して来るのに対しては、武漢にゐる兵隊が漢水とか揚子江の上流の適当な地に機関銃を据ゑた船を用意して、なだれこんで来る避難者を追払ひ、時には撃払ふといふ非常手段をとつてゐた」(p.130)。
 シナ人の金持ちは、じぶんの利益になることならば一生懸命やるが、他人の金を預かってそれでもって事業を発展させて行かうといふ場合には熱意がない。
 満州事変は、すでに工業化していた満州市場を奪われることなので、蒋介石のバックの財閥にとっては市場シュリンクであり、大打撃だった。
 ドイツはバーター的に戦争資材を確保する必要があり、秘密協定によってドイツはシナに1億マルクのクレジットを設定した。3割弱は余剰の古い兵器とのバーター。
 租税の9割は間接税。一般大衆に課し易い。
 全収入の半分近くは、関税。シナの関税は、国内市場を保護するためにあるのではなく、政府が主たる収入を稼ぐためにある。
▼尾崎秀実『現代支那論』1982repr. 原1939 岩波
 「漢文を通じて吾々が想像し描く所の支那社会といふものと、現代に於ける支那社会といふものは殆んど何等の繋りを持たないまでに隔つてゐる」。
 しかるに、1000年以上の飛躍を忘れて、古典漢文が現実のシナ理解の唯一の尺度としてしばしば錯覚され誤用されている。
 支那では軍閥を一代やったら、数代の子が楽に暮らせる。
 天津や上海や香港には、外国租界があり、そこに軍閥の子孫が、富裕な生活を送っている。
 たとえば広東の主、陳済棠。1億元以上を安全に香港に保管している。
 フェミニストの林語堂いわく。周代にはまだ女家長制の残滓が明らかに残っていた。婦人には姓(苗字/家族名)があった。しかし男子には、地名/官名+個人名(氏)しかなかった。儒教は婦人を幽閉した。
 秋沢修二の把握。周は奴隷制国家だった。殷人を捕虜として、征服者たる周人の間に分配し、奴隷労働に駆使していた。
 漢末、奴隷制は崩壊し、封建的社会(小作人が主に耕し、大土地を所有する地主は耕さない)が萌芽する。
 シナでは商人資本は産業資本に飛躍しない。土地を買い、封建的地主となる道が選ばれた。巨富を得た商人は、官府と結びつくか、大地主と一体化しないと、財産が安全ではない。
 宋の版図は狭い。統一シナ帝国のなかでは、最も勢力が微弱だったといえる。モンゴル方面だけでなく、チベット方面をも征服ができなかった。
 シナの官僚は、地方の地主階級から多く出る。そして、中央での活躍後は、また田舎に戻って地主階級におさまる。
 尾崎いわく、軍閥もまた、シナ特殊の官僚制の一変態なのである。
 橘樸いわく、シナの官僚は先進資本主義国の官僚とは決定的に違う。官僚は、上層有権階級そのものなのである。個人ではなく、家族として官僚が存在するのだ。
 官僚が中央で活躍するとカネが溜まるが、それはシナ社会では土地に投資するしかない。したがって野に下っては、田舎の紳士、郷紳として大きな勢力を揮う。
 官僚の溜めたカネは商業資本にもなり得るが、官僚とは非生産的なビヘイビアの生き物であり、高利貸し以上のビジネスなどできない。
 国民政府が北伐のとき、「土豪」「劣紳」を打倒するぞとスローガンをかかげた。この土豪も劣紳も、スタートは、官僚なのである。宗族の一人が中央で高い役職を得て権勢を揮うと、ネポティズムにより、一族は田舎で特別な支配力を行使し得る。そこで一族が蓄財し、土豪になる。
 毛沢東による土豪劣紳の説明。某姓のなかでも地位が高くて権力のあるものが「門閥」である。門閥は「言動が不正でも人が咎めず」。門閥のひとりが農商総長となったら、彼の無能な兄はネポティズムにより郷里で専横のかぎりをつくすことができる。同姓の宗族は皆、この特権を得るのである。こうして門閥から、土豪劣紳が発生した。
 つぎに、田舎のインテリ。まわりが低能民ばかりだから、地方官吏と結託することで、利欲を計ることができる。そこから、劣紳になりあがる。
 軍閥の頭目は、学問がなくとも人民に尊敬される。だから、現役時代の財産で田舎に田地を買えば、そのまま、そこの土豪として余生を送れる。これが第三の発生原因。
 紳士とは、現代シナでは、租税の賦課を引き受ける者をいう。インテリもあれば、大将軍もある。ただし読書人でも科挙は通っていない。インテリの士人が朝にあれば官吏、野にあれば紳士である。秘密結社をつくり、農民を糾合して中央に対抗するのは、紳士。その代表が、シナ史上最大の農民暴動をおこした、洪秀全。かれは落第秀才であった。
 軍閥の最後の野望は新王朝の始祖となることだが、袁世凱はこの最後のチャレンジで失敗した。
 張作霖は、北京で、お手盛りで「大總統」になった。
 いずれも、個人の強烈な思いからそうしたのではない。シナでグループの長になるということは、しぜんに、そのコースを歩まねばならんのである。つまり部下どもが、親分を「帝位」へ推進するのだ。
 袁世凱が各省に置いた都督(のちに督軍)が、そのまま軍閥の長となった。中央政府(總統)は非力で、督軍を任免できなくなった。北京の總統は、中央政府というより、これまた一軍閥と化した。
 地方督軍のうち有力なものは、二、三省をたばねて「巡閲使」となった。
 かくして1920には軍閥間の安直戦争、1922と1924には、奉直戦争。
 1926に広東国民政府は、軍閥打倒の旗印をかかげて、北伐を開始。
 長野朗による軍閥のせつめい。
 軍閥は、成長すると分裂する。親分のすぐ下は、旅長、師長だが、かれらはみずから督軍になりたい。戦争があれば出世し、分裂できる。戦争がなければ、いつまでも下積み。だから、ナンバー2がナンバー1になりたいために、下の方から開戦要求がつきあげられてくる。内訌がたえない。
 軍閥は利益結合であり、殲滅戦争はしない。裏で密かに敵方と款を通じており、戦況がひとたびどちらかに有利に傾くと、たちまちにして大勢を決する。
 蒋介石はいわば南京軍閥。のしあがる過程で敵軍閥は整理したが、支配下の地方軍閥は整理できなかった。
 四川軍閥の領袖たちの何人かは、大石油会社の株主となっている。
 四川では、阿片税が大きい。阿片産業は、北支や、雲南や江西、広東にもある。
 支那事変が始まると、あちこちの軍閥は、もともとアンチ蒋介石だったのに、みな、「抗日英雄」になった。この蒋介石の指導力は見事である。
 軍閥の苛斂誅求は、土匪を生んだ。
 意気地をもっている連中は、兵隊ではなくて、土匪になる。
 思想は均産主義。官僚には強い反感を持っている。地主も官僚の仲間だから、土匪は地主を攻撃する。
 土匪に対する住民の自衛組織が、〇〇會。紐帯は宗教であることが多い。
 1920にシナにおける日本の支配を英米に抑制させるために列国がワシントン会議。
 1937-7時点で、イギリスは軍艦20隻をシナに展開。アメリカは14隻、フランスは10隻、イタリーは2隻、日本は15隻。
 1927に排英運動が激化したときは、イギリスは本国から兵員1万人をシナへ送り込んだ。
 シナに石油を輸出しているのは、イギリスの「アジア石油会社」。
 イギリスは、漢口、九江、厦門、鎮江の租界、さらには威海衛の租界まで返還した。これは、シナ市場において日本に対抗するための高等政治。
 英国人は、日本人よりもシナ人を知っており、シナの政治を利用することにも長けている。
 1932、ドイツは、シナ軍改革のため、国防軍のフォン・ゼークト元帥を指揮者とし、ファルケンハウゼン将軍を筆頭とする約60人の軍事顧問をシナへ送った。かれらがドイツ製武器をさかんにシナ人に買わせた。
 昨年の春、さいごまで漢口に残っていたファルケンハウゼン将軍以下数名のドイツ軍顧問団は、すべて本国へ引き揚げた。
 1932-6、蘇支国交回復。これは満州事変で日本に脅威を感じたソ連がよびかけた。反共の蒋介石と結ぶことについてはソ連内の「世界革命派」からは反発があった。しかしモスクワはリアリズムに舵を切った。
 ソ連は、あまりに蒋介石援助を大きくすると、国民党が赤化してしまい、こんどは英仏が蒋介石を援助しなくなるので、大局的に不利だと計算している。
 リットン報告いわく。シナにおける最初のボイコットは、1905米支通商条約の改訂でシナ人の渡米が制限されたことに反発して起きた。
 1933-1からの第五次討伐は、フォン・ゼークトらの顧問が指揮。江西の共匪は「長征」と称する大退却に移った。
▼西部邁『文明の敵・民主主義』2011-11
▼小山常実『「日本国憲法」無効論』2002-11草思社
 パルは東京裁判が原爆以上の被害を日本に与えると見たが、小山は、マック偽憲法こそ原爆以上の日本破壊兵器だとする。
 ◆  ◆  ◆
 「読書余論」は、主に軍事系の古本を、兵頭が注目した一斑の摘記や読書メモによって紹介し、他では読めないコメントも附しているものです。(配信されるファイルはPDFスタイルです。)
 あまりに多すぎる過去の情報量の中から「兵頭はここは珍しいと思いました」というポイントだけ要約しました。
 大きな図書館に毎日通えない人も、最低費用で、過去の軍事知識のマニアックな勘所に触れることが可能です。
 また、ミリタリーしか読んで来なかった人には、他分野の情報が、何ほどか有益かもしれません。
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