兵頭二十八の新刊『人物で読み解く――「日本陸海軍」失敗の本質』を、とっととネットで予約しよう!

 PHP研究所からの文庫の新刊です。見本10冊を落掌。こいつは面白い!(自讃)
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 『人物で読み解く――「日本陸海軍」失敗の本質』は、雑誌の『表現者』に連載していた〈近代未満の軍人たち〉の、2009年5月号以降、最終回までの24人分(保科善四郎、櫻井忠温、南次郎、大西瀧治郎、高橋三吉、荒井郁之助、荒木貞夫、山下源太郎、田中義一、宇垣一成、小川又次、兼田市郎、村田経芳、本郷房太郎、黒田清隆、山田顕義、西郷従道、田中新一、阿部孝壮、岡部直三郎、岡田啓介、堀場一雄、多門二郎、角田覚治)に、今回の文庫のためのたっぷり長い書き下ろしの「石原莞爾」をプラスして、それらを、あらためて生年月日順に配列し直して1冊としたものです。
 過去の原稿も、全篇、加筆・修正してあります。
 目玉は、なんといっても「石原莞爾」のミニ評伝です。「河本大作」について疑問をお持ちの方々は、この石原のページをお読みください。疑問は氷解するでしょう。じつは河本こそが満州事変の真の立案者だったのです。
 永田鉄山や武藤章がマルキストだったのかコミュニストだったのかどうかについて考えたい人も、石原のページを読むのが便利でしょう。
 大サービスとして、以下に、石原の項目中の「法華経」についてのサワリを、飛び飛びのコピーですが、ご覧ください。
 ……明治34年に田中智学が発行した『宗門之維新』は、日蓮を世界統一軍の「大元帥」といい、日本帝国をその「大本営」であるとし、信者に「不惜身命[ふしゃくしんみょう]」の決意で、宇内[うだい]を霊的に統一する(人類の思想と目的とを統一する)ときまで、「侵略的」態度で折伏をすべしと訴え、40派に分裂していた日蓮宗の「改造」(改革)を呼びかける。
 智学は、文政6年の佐藤信淵著の『宇内混同秘策』(神道ゆえに日本は西欧より優れているのであり、シナ他の全世界を支配する資格がある。農本主義で富国強兵し、モンゴルと同盟して清国を征服することを手始めに、神道による世界統一は実現できる――とする。信淵は平田篤胤に師事していた)からも影響されていたに違いない。
 智学の叫びに共鳴する信者団体(国柱会という名にするのは大正3年から)がどんどん日本に増えれば、檀信徒の「宗税」を原資に、現代の教団にふさわしい「殖産の宗財」を造り、その一部を割くだけでも、武装商船(準軍艦)の艦隊を毎年10隻ずつも建造できて、それをふだんは教団の商売に使い、有事には天皇に寄付するくらいなんでもなくなる、と、いろいろ数字も示して、智学は読者を楽観へ誘導していた。
 ついでに智学は、詔命で日本の国教が日蓮宗になるのは100年以内、世界が日本軍の強制によって日蓮宗で統一されるのは500年以内だろう、とも『宗門之維新』の本文中に書いている。秀吉もナポレオンももとは匹夫だったことを思えば、「地皆震裂[ちかいしんれつ]の妙力」を有する日蓮の後継者が現代に出現するであろうことも、空論ではない、ともいう。
 石原莞爾が書き遺した「戦争史大観の序説(戦争史大観の由来記)」や「最終戦争論(第五章 仏教の予言)」の中で、今日、一般の読者が、使われている用語や概念そのものになじみがなくて、いっかな理解ができずに困惑を感じてしまうところが、何箇所も出てくるだろう。それらはすべて日蓮宗の過去の教義論争に関係している。
◆古代インド人は世界最終戦争など予言しなかった
 仏教は、実在の、一インド王族であったゴータマ・シッタールダ太子(その生没年には諸説あって今もって誰も確定ができていない)の説いたところや、弟子の考えや教団の戒律や教派の宣伝文を、ゴータマの死後数百年間は筆記具というものが流通していないために専ら信者が「口伝」によって受け継ぎ、さらにようやく筆記具というものが流通するようになってのちは、続々と経巻などの記録媒体に書き溜められて、種類と内容が逐次に豊富になっていったものだ。したがって、聖書の民やコーランの民などと異なり、仏教世界には「根本原典」といえるものは無い。誰かが、古い経文を求めてどこまでさかのぼろうとも「これがゴータマの実説だ」という証拠にならないし、逆に「これはフェイクだ」とあかし立てることも難しい。そのいっぽうで、仏滅から400年以上も過ぎて創作したテキストを「正しい伝承だ」と言い張ることも誰にでも自由である。ひとつ、かなり確実に言えそうな大事なことは、おそらくゴータマは、漢代や隋代のシナ語は話さなかったし、平安朝や鎌倉期の日本語も話さなかったであろう。
 ゴータマの「悟り」がいったいどんなものだったか、古代世界史の諸資料にアクセスできる今日のわれわれは、中世以前のシナや日本の高僧たちよりも推定するのに苦労しない。ゴータマは、今のアフガニスタン方面からインドにアーリア人が侵入(それは紀元前18世紀頃だったという)して、土着の有色人に対する支配を固めて以降、しだいに形成されて長く流行した「バラモン教」の「輪廻」説その他に、アーリア人(白人)の身ながら「アンチ」を唱えたので、有名になったのである。ゴータマは「輪廻などというものはない」と悟り、「バラモン僧はかれらの生計確保戦略として嘘の話でわれわれ貴族・武士を騙している」と見抜いたのであった。しかしゴータマ死後の伝承者たちはこの骨子を必ずしも歓迎しなかったように見える。「輪廻(来世)はある」ということにしておいた方が、説教や、教団の経済権勢の維持・拡張のために、都合はよかった。またしかも、(ゴータマはヒマラヤに近い涼しいところで悟りを得ているが)インドの熱帯性密林や大河には、生物が死んでも死んでもすぐにまた同じような姿で大量に生まれてくるという自然現象に満ち満ちていた。
 アーリア人の侵入以後、インドは、白人(新来の支配層)と有色人(土着の被支配層)の二階層に分かれた。シッタールダ家は白人種に属した。白人が有色人と雑婚すれば中間色の子供が増え、白人支配がなし崩しにされる基[もと]いともなってしまうから、アーリア人たちは「通婚の禁止」「白色の維持」に、ことのほかこだわった(カースト文化のはじまり)。そして、もしそれでも雑婚子が生まれてしまったのなら、その子は例外なしに「被支配層」に落とせ、という、白人社会の容赦ないルールも定まる。それでも稀には、病気や隔世遺伝や何かの理由で、白人同士の夫婦から肌の黒ずんだ子供が産まれたり、子供が成長するにつれて肌の色が濃くなる場合だってあったことだろう。それは、白人種の人々の心を、まさしく恐怖させたのだ。
 この恐怖心理にバラモン僧たちは巧妙につけこんだ。「われわれ僧侶に対して常に布施をし続けないと、あなたは今でこそ白色の良家の子弟だが、来世ではあの土民の類として生まれ変わりますよ」と脅かした。話をもっともらしくするため、「苦行もすべし」「一時期は出家をして山野に暮らすべし」などともバラモン僧は命じた。馬鹿正直にそれを履行した若きゴータマは、絶食修行のために、ほとんど死にかかる。そして死の淵から蘇生したとき、彼は、「騙された」と悟り、覚醒した人「ブッダ」となったのである。
 ゴータマ・シッタールダ太子の悟りを比較的に反映している経文は、とうぜんながら、成立の早い経文である。だが、それらは「出家」(俗界から離れた修行生活)を前提にしていたため、個人救済(なかんずく金持ち階級の個人的安心)には役立っても、社会救済や国家防衛には役立たないではないかという不満が、仏滅後500年くらいすると、インドとその周辺(中央アジアなど)で勢いを得た。それに対応すべく、当時の活動理論家たちが考えたのが、「大乗経典」と呼ばれる、大衆が在家のまま、しかも何も悟りもしなくたって、この教団を支持して布施をしさえすれば、大きな乗り物にみんなで乗るように、簡単確実に来世で救済されますから、と説く、一連のPR文書であった。
 彼らは、もっと成立が古くて有名な諸経典のことを、いずれも「小乗(小さい乗り物)」だ、と悪口[あっこう]した。
 大乗経典の中には、〈小乗経典を信じた者など救われるものか〉と叩くもの(たとえば『維摩経』)があった一方で、〈いままで小乗経典を信じていた出家主義のかたがたも、われわれの教団にこれから宗旨変えをすると表明をするだけで、ちゃんと救われますよ〉と、鷹揚な標榜をするものもあった。
 後者の代表格が、『サッダルマプンダリカ』(白い蓮の花のように正しい教え)とタイトルされた経典集(紀元前1世紀から西暦150年頃にかけて少しづつ内容が増えてできた。石原莞爾や国柱会その他が重視する「薬王品」は西暦150年頃に加えられた)である。
 この経典ではしかも、〈小乗の人々はわれわれ大乗を、ゴータマ・シッタールダ生前の説ではない、と言って批難しますけど、ブッダは久遠にこの宇宙に存在し続けているので、この経典も小乗経典が成立するよりも遥かずっと以前から実はできていたので、したがってこの経典はフェイクではなく、のみならず、権威の上で他の一切の仏典を凌駕する〉と主張・宣伝した。
 これに、それまでの原初的な性質の仏教にはあきたらなかったシナ人インテリが、関心を寄せるようになった。早いものでは、中央アジアのバイリンガルの一訳者が西暦286年にまとめた『正法華経』という漢訳が残されている。そして406年には、有名なバイリンガルの鳩摩羅什[くまらじゅう]が『妙法蓮華経』と題した漢訳も完成。
 そうなると次は、漢訳された経文の意味をシナ語によってもっと深く解説してくれるシナ人の学者が、あらまほしくなる。それに応え、いちじるしい成功をおさめたのが、隋代の僧の智顗(538~597)だった。智顗は、羅什訳に依拠して法華経の奥義を考究し、みずから「天台宗」を創始する。シナにはこの他にも法華系の学統は複数あった(たとえば聖徳太子が日本に導入しようとした法華経は、天台以前の古い釈義であった)が、平安時代の初めに最澄が唐へ渡って知識を得ようとしたときには、その最高峰は天台宗だろうという評判であった。
 最澄(伝教大師、766~822)が唐から帰国し、比叡山を、日本の法華宗(天台宗)のメッカのようにした。しかしすぐにそれは密教(呪術・修験道)と混合する。つまりピュアではなくなった。下って鎌倉時代には、浄土宗やら禅宗やら、どの大乗仏教にも負けず劣らず庶民の需要(在家でイージーに往生したい)にフィットした新仏教が、日本全国を風靡した。
 そんなとき、やはり若くして比叡山で学んでいた日蓮は、漢訳の法華経典や漢文のいろいろな教義解説書を熱心に読み漁るうちに、じぶんの法華経の理解のほどが現時点で日本一ではないかと思うようになった。
 鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』の第15品(章に相当するものを漢訳仏経典では「品」と表記し、日本では呉音にしたがい「ほん」と読む)は「従地涌出品[じゅうちゆじゅっぽん]」という(略して「涌出品」)。その涌出品の中で、地面の下にあるという空間からとつじょとして涌き出してくる無数の菩薩(悟りの修行がもはや最上級レベルに届いていて神的ですらある求法者)の筆頭であり代表ともなる「上行[じょうぎょう]菩薩」(もしくはその「使い」)に、日蓮は、みずからをなぞらえた。
 生前のゴータマ・シッタールダからじかに話を聞いている弟子たちはたくさんいた。それが成立の早い小乗仏経典の権威の淵源なのだが、大乗教典では、そうしたリアルの弟子たちなんか、最高に偉くはないんだと説く(シナ天台と日本の法華宗教学では、ことさらに「迹化」とか「迹門」とか呼び、軽んずる)。
 一番偉いのは、リアルのゴータマより遥か以前からこの宇宙のどこかに生き続けている、それもイデア的もしくはスピリチュアルなものではなくて実体もあるという、愚か者には存在の把握すらもし得ないブッダから、早々と説教を聴いて悟りに近づいてしまっている、(要は歴史的存在ではなく教団幹部が空想して創作したところの)菩薩たちだ、というわけだ。これをシナ天台以降の法華宗教学では「本門」とか「本化[ほんげ]」とか誇称した。上行菩薩もご丁寧に「本化上行菩薩」と強調される。日蓮は、おのれをこの「上行菩薩」と重ねることで、おのれ以外は誰も偉くないということにした。
 日蓮がもうひとつ気に入ったのは、漢訳をされた時点ですでに法華経は厖大なテキスト量に膨らんでいて、描写されている情景場面は多彩多岐であり、〈未来の予言〉の論拠に使いやすいという点であった。鳩摩羅什は、サンスクリット語の経文にはそもそも書かれてないような、詳しすぎ、あるいは生き生きとした、わかりやすすぎる漢文表現を、全篇にちりばめていた。だから『妙法蓮華経』には、もとのインドの大乗教団と無関係な、翻訳家・羅什の創作が含まれていると評せざるを得ないのだが、後代のシナ人も日本人も、商売っ気があるので、そこは深く詮索をしない。それどころかシナの仏教界は、西暦6世紀後半のシナで流行り出した「末法思想」に合致しそうな、インド式発想の「法滅尽思想」が出ている新経典(法華経とは関係のない、雑多で、成立年代も浅い、大乗の経文)を中央アジア方面で捜索し、適任のバイリンガルにそれを漢訳させた(『大集経[だいじっきょう]』や『月蔵[がつぞう]経』など)。シナ天台山の高僧たちは、インドにおいてはあまり権威がなかったであろうそれら雑経中の断片を特筆重視して、敢えて『妙法蓮華経』の漢文と結合させることで、シナ人好みの予言もこねあげる。
 隋代にシナ語に訳された『月蔵経』は、法華経よりも後でインドで成立し、その前に訳されている『大集経』と合冊されて『大方等大集経[だいほうどうだいじっきょう]』の一部ともされていた(その場合は『大集経月蔵分』という呼び方をされる。石原莞爾など日蓮主義の著述家はしばしば『月蔵経』または『月蔵分』の意味で『大集経』と言っている)。
 がんらい法華教団では、当派の経典より以前の経文なんてぜんぶ方便(人を導くための嘘八百)のようなものでもう用済みだとし、これから以後は当派の経典だけが世の中に存続されるべきなんだと、さんざんに主張するのにもかかわらず、なぜかシナ人と日本人の法華教徒は、ありがたい戒めにはわざわざ背いてこの漢訳『月蔵経』(全20品)中の「分布閻浮提品[ぶんぷえんぶだいぼん]」を尊重する。理由は、漢訳「分布閻浮提品」こそは、シナ人が大好きな「時代の区切りの発想」に、唯一例外的に、言及してくれた仏典だからに他ならない。
 気象の特性から物事の腐朽が急速であり、それゆえ、ながいあいだ同じ形をとどめる存在とて一つもありはしないんだという世代を超えた集合知を有するインド人は、先人の教えもやはり滅びてしまうであろうという世界観や史観を、しぜんに有していた。たとえば『月蔵経』の終章である「法滅尽品」にも、わたし(大乗仏教を説いているブッダ)の涅槃のあと、「正法」は500年維持され、それから「像法(正法の劣化コピー)」が1000年を限度として生き続けるだろう――との予言がある。そののちのことは、さかしらに予言などはしない。それはインド人的な態度であった。(余談になるが、現代仏教徒の予言者たちにとってはいちじるしく重要なはずの『月蔵経』の漢訳のフルテキストが、PDF形態を除けばインターネット上でみつからぬこと、そして日本語訳が過去に公刊されたこともないらしいこと、そのうえ、サンスクリット原文をチェックした人もこれまで一人もいないらしいことは、兵頭には摩訶不思議だと思える。ついでに指摘しておくならば「法滅尽品」には、「天竺」だとか「中國」だとか、四方の「夷」の軍勢が襲ってくるだとか、到底古代インド人が発想するとは思えぬ考え方が散見される。)
 けれどもやっぱりシナ人はシナ人式教説でなければ満足できない。無限に微細に遷移し続けるこの世相を、無限に微細なものとしてうけとめるのではなくて、3つとか5つとかの何かキリの好い自然数でさかしらに区切って整理しようとしたがる。ギリシャ人のように政治の観察に長けたシナ人は、そうした把握のしやすい整理術を歴史に持ち込むのを好んだ。
 インド人は、無限や微細を表現するために大きな数字を持ち出すことはある。100とか500とか1万とか、あるいは、もっと大きな数字だ。羅什訳の妙法蓮華経の「薬王菩薩本事品」(略して「薬王品」。書かれたのは西暦150年頃)の中には「我滅度後(わたしが死んだあと)。後五百歳中(500年経過するあいだ)。廣宣流布。於閻浮提(この世界じゅうに)。無令断絶(消滅させるなよ)」と出ている(じつはこれが誤訳を含んでいることについては後述)。
 しかし、たとえば仏滅後の教勢を500年ずつに区切って2500年先まで細かく予言する……といった志向は、もともとインド人にも法華経にもありはしなかった。
 唯一、法華経のあとからまとめられた『大集経・月蔵分』の中の「分布閻浮提品」の漢訳が、「爾時、世尊告月藏菩薩摩訶薩。言。於我滅後五百年中、諸比丘等、猶於我法解脱堅固。次五百年我之正法禅定三昧得住堅固。次五百年読誦多聞得住堅固。次五百年於我法中多造塔寺得住堅固。次五百年於我法中闘諍言頌白法隠没損減堅固。」と予言している――というので、「末法」の使える根拠が欲しかったシナ天台の高僧たちは、これに飛びついたのである。
 その要旨は、〈わたしが死んだあと500年は教団はわたしの教えをよく守るだろう。次の500年も、その次の500年も、わたしの教えは尊重され、研究され続けよう。しかしその次の500年になると、寺や塔はたくさんできるが教えは尊重されなくなる。さらにその次の500年間では、仏教徒の内部で言い争いがさかんになり、良い教えは失せてしまう〉と、ブッダが月蔵菩薩に語ったというのである(サンスクリット古写本を校合した人はいないため、この漢訳の正確度は、検証できない。この部分ぜんぶがシナ人の捏造ではないとも、誰も保証ができない。いままで我が国の仏教学会は何をやっていたのだろうか?)。
 ここで語られている最後の500年間こそが、シナ人の発明品である「末法」の開始の500年なのだ、とシナ人たちは想像しようとした。最初にそのように明快に教説化するのは、シナ天台宗の中興の祖と呼ばれた湛然(妙楽大師。711~782)である。入唐[にっとう]した最澄は、この湛然の孫弟子であった。
 それにつけても、ゴータマ・シッタールダの入滅年を基点として、現在まで何百年が経過したのか、それをカウントする必要があった。今現在が「分布閻浮提品」で予言されている2500年間のどの段階にあたっているのか、すなわち、まだ「最後の500年」(シナ人の考える「末法」の始まり)ではないのか、それとも既に末法の世には突入してしまっているのかを、確認しなければならない。
 しかしシナ人の理論家たちは大いに悩んだ。かんじんかなめの、「仏滅」年を確定できる、確かな手がかりが無かった。
 これを求めてインドまで出かけた、まじめなシナ人の僧もいただろう。が、唐代には考古学は発達しておらず、前漢時代の古文書すらもう誰もまともに読解ができなくなったような時代でもあったので、成功しなかった。そこで唐の初めのシナ人僧侶・法琳(572~640)が『周書異記』という古代の史書を偽造し、ご親切に仏滅の年月日まで確定した。それは、西暦に直すと紀元前949年2月15日だという。南アジアの仏教圏では、仏滅は紀元前544年か543年と信じられていた(これを「南伝」という。チベットに伝わった「北伝」では、仏滅年は紀元前400年から368年とされる)。それらよりもずっと古く設定をした理由は、唐朝のシナでは仏教は「道教」との勢力争いに勝つ必要があって、道教よりも確実に古くから成立している、と主張したかったからのようである。
 最澄は、『周書異記』や『大集経・月蔵分』や「末法」(そんな用語は法華経のどこにもない)をもてはやす不健全なシナ天台宗に学んで、それらの妄説をいちいち疑いもせずに日本の比叡山にフルセットで移植した。日本人は、疑わなかった。疑う知力に欠けていた。それで平安時代の日本人は皆、永承7年(西暦1052年)からいよいよ「末法」が始まったのだと信じていた。鎌倉時代の1222年生まれの日蓮も、その例外ではなかった。
 じっさい鎌倉時代は乱世ではあった。シナ大陸では、モンゴルの支配拡大の前に、あれほど隆盛を誇った宋朝は追い詰められて、風前のともし火のようだった。シナの民衆は乱世にはいろいろな宗教的結社を作って自衛する。勝ち残った「結社」の指導者は、次のシナ王朝の始祖になるかもしれない。それはシナではいつも反復されるパターンであった。日蓮はそこに敏感だった。最終的に南宋が滅亡するのは日蓮晩年の1279年で、その2年後には二度目の元寇がある。大きな危険と波乱、そして日蓮のような結社の指導者にとってはビッグ・チャンスが、まさに近づいているという実感を幕府から庶民まで共有していたのが、日蓮(1222~1282)の生きた時代であった。
 鳩摩羅什訳の妙法蓮華経の「如来神力品」のおしまいの方に「偈[げ]」(韻律のある詩で、インドの古代の教団ではそれを合唱していたと思われる。同じ「品」の中でも、「偈」の部分が最初に成立し、それを敷衍して他の文が追加されたことは多かったかもしれない)があって、その漢訳では、ブッダはじぶんの死後の説教を一人の菩薩に託して、かつまたその一人は後の世間に出現する(斯人行世間)かのようにも読めた。じつはサンスクリットの原文にはそんなニュアンスはないのだけれども、日蓮はサンスクリットに通じておらず、天台宗が認めた羅什訳を専ら根拠にしてそう信じ込んだ。
 また日蓮は、『大集経・月蔵分』の漢訳「分布閻浮提品」に「我が法中に於いて闘諍言訟し白法穏没し損減して堅固なり」とある仏滅後2000年から2500年の間の500年間はまさに今のことであり、その世相は今(鎌倉時代)の日本に一致すると主張した。もちろん『周書異記』の仏滅年は疑わない。
 そして、妙法蓮華経の「薬王品」で、(上行菩薩ではなく)宿王華菩薩が「仏滅後の後五百歳中に、この世界じゅうに廣宣流布をしなさい」とブッダから命じられているその後五百歳とはシナ天台宗の言う「末法」の500年のことだから、じぶん(日蓮)は上行菩薩の生まれ変わり、もしくは「使い」として、それを実行するのだと示唆した。
 ところが羅什のその漢訳部分、古写本のサンスクリット語から直接に和訳すれば、やはりぜんぜん違っているのである。岩波文庫版『法華経』下巻(1967年刊)の岩本裕博士のテキストを引こう(キッコーの中は兵頭の註)。「〔この薬王品が〕最後の時であり最後の機会である最後の五十年の経過している間に、このジャンブ=ドゥヴィーパ〔閻浮提。インドの外まで含む全世界〕に行なわれて、消滅しないように、……《中略》……余〔世尊ブッダ〕はそれを汝〔星宿の王者である月によって神通力を発揮した者=宿王華菩薩〕に委ねよう」。
 ちなみに岩本博士は、岩波文庫版『法華経』上巻(1962年刊)の「あとがき」で、現代のサンスクリット文献学は欧州と日本でもう1世紀以上の蓄積があるので、原文の理解については鳩摩羅什よりも学的に正確だとの自負を披瀝している。
 そうと分かればもうこれ以上の説明は、しんどいだけだろうけれども、石原莞爾がこだわりぬいた世界観を知り究めるために、あとしばらく、お付き合いを願いたい。サンスクリットの法華経の薬王品では、ブッダも法華経を「途絶えさせるなよ」とは頼んでいても、ことさら「廣宣流布しろ(布教し、折伏しろ)」とは命じていなかったのである。なぜなら教法等が滅尽するのはインド人にとっては必然だったからである。また「最後の時であり最後の機会である最後の五十年」とは、インド人がインド式に発想した「法滅尽」の頃合いであって、それは仏滅後何年のことかは、インド人にも分からなかった。
 しかしシナ人はそれが分かると言い出し、誤訳をベースに雑経や捏造を恣意的に付会することによって年代を絞り込み、最新シナ思想の転売で立身しようとした最澄は「それは近未来だ」と日本人に信じさせ、日蓮は「それは今だ」と信じた。田中智学や石原莞爾は、現代人なのにその信者の系統に連なったのである。
 ところで、安房の国(外房、つまり太平洋側)の東条片海という漁村(今は地盤沈下して存在しない)で漁業者の子として生まれている日蓮は、比叡山で修行こそしたけれども根っからの関東人であって、日本の権力としての鎌倉幕府をごく身近に意識して、北条将軍家をなんとかして日蓮派法華宗の公式パトロンにしよう、あるいはじぶんが梟雄として北条家にとってかわろうと念じ続けたいっぽうでは、地方の庶民階級からはかけはなれた存在である京都の天皇や公家には、そんなに親しみは抱いていなかった。日蓮の大きな望みは、彼の用語で「本門戒壇」といって、鎌倉幕府が日蓮派法華宗を日本の国教だとして公定し、全人民に強制してくれる日が来ることだった。これはもちろん実現しなかった。
 1282年の日蓮没後、その事業継承者たちの中から、天皇家を日蓮派法華宗に帰依させることで「本門戒壇」を実現しようという運動スローガンも提唱される(王仏冥合)。しかし徳川幕府は、一揆を起こしかねない宗派(筆頭はキリスト教)を禁圧・無害化することに一貫して意を砕いた(兵頭著『大日本国防史』を参照せよ)。そしてそれに屈した仏教界の堕落が、明治維新期には廃仏毀釈運動を呼び、日本の仏教界は一時は壊滅状態に沈んだ。
 政府主唱の神道では物足らないと思った日本のインテリたちは、明治十年代の後半に、西洋人が宣教するキリスト教(主力は米国系のプロテスタント)に関心を示す。しかし清国との戦争が不可避であるのみか、条約改正の加速のためには対清戦争が望ましいとすら思われるようになった明治23年より以降、キリスト教宣教団の不戦主義はソッポを向かれ出した。
 国民の気分が、何か国粋主義的な強い宗教を欲している――と察した若手の僧侶・神官たちは、あれこれと斬新な宗教運動を考え出した。
 このような時勢に乗り出した田中智学は、明治22年2月に東京で「大日本帝国憲法講義」という彼流の国体論の公開講座を3週間続けたほどの自信家であり、気鋭の論客だった。
 明治27年に日清両軍の野戦が始まるや、田中はこんどは大阪の天保山で戦勝を祈祷するイベントを催して、その場で、日本の天皇こそが法華経の謂う「転輪聖王[しょうおう]」だと述べた。馬が曳く古代の戦車に乗って四隣を平定し仏教を強制するのが転輪聖王である。
 『佛教の戦争観』(林屋友次郎著、昭和12年刊)によれば、日本には平安朝いらい、天皇=金輪[こんりん]聖王=如来の化身だだと解説する派があったという。転輪聖王にもいくつかランクがあって、金輪聖王が、中でもいちばん偉いらしい。
 明治34年になると智学はその話をテキストにまとめる。すなわち『宗門之維新』だが、こちらでは、天皇または皇族の誰かが日蓮の生まれ変わりだなどと露骨に示唆して不敬罪に抵触しないよう、気をつけている。
 しかし「日本国教」をお定めになるだとか、本門の戒壇を建てることの「詔命」といった表現で、運動の目指すところをほのめかしている。皇室が帰依することで、天皇の勅命によって明治憲法の信教の自由は撤廃されて、日本人民は国教としての日蓮宗を信じなければいけなくなるという次第だ(これを智学は「国立戒壇」と呼ぶが、それは『宗門之維新』では書いていない)。
 智学はさらに、日蓮主義の日本軍が諸外国と戦争し、海外を次々に征服するので、全世界も最終的に日蓮宗で統一されるし、それを努力しなければならない、と唱えた。
 石原は、彼の日記によれば、大正9年1月4日に智学の雑誌『毒鼓』を読むまで、田中智学の単行本を読もうという気になっていなかった。しかし1月21日に『宗門之維新』を購入した。
 石原の日記では確かめられないが、石原は、自分自身で次のように回想をまとめている。智学が大正7年(第一次世界大戦の終わる年)に講演した話が本になっていた。石原が(大正9年頃に?)それを読んだところ、「一天四海皆帰妙法」(世界じゅうが日蓮宗になる)は48年間に成就し得る、と智学は「算盤を弾い」たと書いてあった。つまり西暦でいうと1966年か67年に、大戦争によって地球は統一されるというのだ。
 これは不可解な証言だ。というのは、この計算根拠付きの予定表は、田中智学著の『宗門之維新』の巻末付録に、最初から堂々と載せてある。明治34年から智学が開示していた信念であって、大正7年の講演で初めて飛び出したようなものではないのだ。
◆キリスト教のミレニアムを意識した田中智学の宗教艦隊プラン
 インターネットで、明治34年9月10日発行の奥付がある『宗門之維新』の内容を確かめることができる。巻末に「宗門維新革正已後[いご] 妙宗未来年表」という二十数ページの付録がある(これは抜刷にして無料配布もされたのかもしれない)。そこには、智学が本文で主張したような宗門改造がすっかりできあがったその翌年からカウントして、46年目ないし50年目のあいだに(中間を取れば48年だ)、「宗設艦隊」は2915隻となり、そうなったらもう、一躍・一撃するだけで万国を日蓮教徒にし、宇内を簡単に統一できるだろう、と述べられている。智学は、艦隊というものの維持コストについてはまったく考えなかったようで、これは「地球一周爆撃機」を空想した米国人著述家が「燃料の重さ」をすっかり忘れていたのと似ている(まぁ、ご愛嬌だ)。
 智学は、絶対年号(たとえば1967年とか)を提示しての期限付きの予言など、テキストの上では、していなかった。日本で智学の主張する通りの宗教革命が完成したそのあとに、さらに50年を費やして、日本は世界最強の宗教国家になるだろうと告げているのみなのである。そしてその前提の第一ステップである日本国内の宗教革命の完成には100年弱かかると、智学は明治34年(=1901年。この年から20世紀がスタートした)の『宗門之維新』の本文中で明記している。おそらく、西暦2000年のミレニアムが意識されていただろうが、最も進みが遅いケースだと、日本国内の日蓮宗による統一は西暦2000年前後になるというのだから、それにまた50年を加算したら、世界支配にチャレンジできるようになるのは西暦2050年前後かもしれないわけだ。そして『宗門之維新』の本文では智学は、世界支配には今から500年弱もかかるかもしれないと明記しているのだ。
 石原莞爾は、智学の話を勝手にねじまげ、もっと切迫感のある、自分流の予言を創り出しているのである。
 石原は、高山樗牛のように肺結核ではなかったのにもかかわらず、時を気長に待てなかった。下腹に時限爆弾のような「持病」を抱えているという意識が彼を苛[さいな]んでいた。
 自分が病臥して動けなくならぬうちに、世界が自分の思い通りに変ってくれるという、具体的な数値付きの予言を石原は欲した。
 石原が恣意的に解釈した予言の通りだとするなら、その前の段階として、ヨーロッパもアジアも必ずどこかの一国によって統一されるわけだった。
 順番としては、まずドイツとソ連が欧州の覇を争い、その勝者が、アジア代表選手の日本にトーナメントで負ける。これが準決勝戦で、決勝戦は、日本対アメリカ。これしかないだろう。それが、石原が80歳になる前にすべて起きる――と、石原は空想して興奮した。
◆「宇内混同秘策」に先行するその逆バージョン:ピョートル大帝の世界支配命令
 これに似た空想世界征服構想が、1775年に、ロシア宮廷でエカテリーナ女帝の侍読であった一フランス人によって書かれたことがあった。「ピョートル大帝の遺詔」(英語で Testament of Peter the Great とか The Will of Peter The Great と入力すれば、それはネットで検索できる。その解説は、GlobalSecurity.org のものが信用できると思ったので、以下、それに拠って書く)と称し、ロシアのピョートル大帝(1672~1725)が元気な時に書いたんだという触れ込み。ロシアはこれからスウェーデン、ポーランド、ドイツ、ペルシャ、トルコ、インドを次々支配し(インドをうしなった英国は無力な小国に転落するから無視)、そのあとフランスとオーストリーに対して、全世界(これにはシナ以東のアジアは含まれていない。ピョートル時代にはシベリアの探検も済んでいなかったので)の三分割をよびかけよ、という。ついで、仏・墺のどちらかを支援して、どちらかを滅ぼしてしまえ。残る一国では、もうロシアに逆らえない。そのとき、ロシアは世界の支配者になれるのだ――というもの。
 誰もが偽書だと思ったが、あまりによくできた内容なのでコピーされて珍重された。フリードリヒ大王(1713~86)もナポレオンも、それを読んだ。1812年(ナポレオンがモスクワまで遠征する年)にはフランス外務省の関係者が、偽書と知りつつこれを印刷配布して、大いに宣伝に活用している。
 1866年頃を最後にこの偽書の賞味期限は欧米では終焉したようだが、アジアでは満州国関係者が戦後までこの偽書をホンモノだと信じ込んでいたらしいことが、泉章四郎氏著『東條英教「日本の戦争論」を読む』(2010年刊)の巻末に付録されている「参考資料 ピョートル大帝の遺言書」によって分かる。ちなみに泉氏も信じた様子である。
 およそ、偶然性も一大要素であることを否定できない人間の歴史(軍事史)や人間社会(政治史)をまじめに勉強したことがあるのなら、「切迫する期限を明示しての予言」に惚れ込むのは、いかにもおかしな話だ。そういうのは、生計のための辛酸を舐めたことのない、他人からの好意の有難味が分からない、他者の自由も尊重できない、地道な努力が嫌いな育ちのお坊ちゃんが、自我と世間の葛藤を解消したくて陥ってしまう空想ではないのか? 石原だけが抱えた特異で厄介な慢性病が、石原の心をまるで悠長ではあり得なくしていたのだ。
 大正8年8月に箕作元八は急死(死因は脳内出血という。58歳)していた。箕作は陸大でも教えていたから、生きていれば石原の軽薄をたしなめる機会がまだあったのだが、それはなくなった。〈現代ドイツ人は古代ギリシャ人に似る〉などの石原のコメントは、トゥーキュディデースを崇拝したランケ直伝の箕作の影響だったのかもしれない。
 大正9年1月に石原が本多日生の統一閣に参ずるようになったのは、郷里山形の大先輩である海軍中将・佐藤鉄太郎(その時点で海軍大学校校長。8月に舞鶴鎮守府長官に転ずる)が誘ったのであると、インターネット上の一文書に出ている。
 佐藤は海軍少佐時代に米国でマハンを学んで帰朝し、明治35年に、〈日本の地政的位置は英国と相似である〉とする「帝国国防論」をまとめ、明治40年に海軍大佐になってからも、長州陸軍の田中義一の子分らが推進する満州領有化指向に真っ向から反対する『帝国国防史論』を発表するなど、海軍きっての理論家として知られていた。
 ならばその佐藤はいったいいつ、どのように入信したのか? 日露戦争中の明治37年8月の蔚山沖海戦時まで無信心であったことは、佐藤著の『剛健主義の日蓮』(大正8年3月刊)で告白されている。
 同書によれば、その後、「親友」の山崎鶴之助機関少将(佐賀出身。日露戦争中は中佐で第二艦隊機関長。明治45年予備)が『維摩経』を送ってくれて、読んだら感動した。次に、松井健吉中佐(石川県出身。第一艦隊先任参謀として明治38年の日本海海戦で戦死し、少佐から死後昇進)が法華経をくれたという。そのテキストが何だったのかは不明だ。当時の日本では少なからぬ宗教団体が、宣伝代わりに出版物を出征将兵にたくさん配っていたから、その1冊でもあったか。法華経に出てくる常住の如来とは天皇のことだと示唆してあり、佐藤はその国体観念が気に入ったという。
◆小笠原長生と東郷平八郎
 それから、佐藤の「家族」が、天晴会という日蓮研究団体に入会させてくれ、そこで本多日生師から聖語録を講ぜられたという。それが何年何月なのか不明なるも、佐藤は遅くとも明治42年には日生に会った。
 「家族」とは、海兵14期の同期で、世が世なら肥前唐津藩の殿様であった、小笠原長生[ながなり]のことであろう。長生の妹が佐藤の妻だからだ。
 長生の実父は、戊辰戦争で蝦夷まで榎本武揚についていった幕府のもと老中・小笠原長行[ながみち]であった。長生「子爵」は華族であるうえ心身を鍛錬していて文才もあったので海軍では軍令部の「お飾り参謀」が適任と見た。父の意向で厳しく育てられてはいたけれども、海軍のリーダーとしては物足らぬ人物だったようで、長生に伝記を書いてもらった東郷元帥も、機微な問題では小笠原を相手にしなかった。兵学校の卒業成績順位(7番)は、あるていど華族待遇としてゲタを履かせたものだ。ゆえに欧米留学(同期トップの鈴木貫太郎はドイツに、3番の佐藤鉄太郎は英国)も命じられてはいないし、それでいながら、中央の軍令部がほぼ「定席」としてあてがわれた。むろん、軍令部内での枢要な業務は、部下が代行していたのであろう。
 この長生はしかし、学習院出であり、明治44年に、軍令部出仕の身分のまま、学習院御用掛を兼務する。そして大正3年に東宮(のちの昭和天皇)の御学問所が設置されると、やはり軍令部に班長として籍を置きながら、皇太子教育にもあたるようになった。待命となった大正7年末以降は、東宮教育専任である。
 だから、本多日生らがこの小笠原長生を取り込まばやと猛然と工作を仕掛けたのは、当然であった。長生を通じて皇太子を折伏して日蓮宗に帰依させてしまえば、本多や田中智学の野望は実現したも同然なのだ。日蓮自身が「わが弟子等の出家は主上〔天皇〕上皇の師となり、在家は左右の臣下に列せん。はたまた一閻浮提〔日本の外の世界ぜんぶ〕皆この法門を仰がん」(弘安元年3月の手紙)となる未来を期待していた。
 のちの大正11年に皇室(大正10年11月以降、これは摂政宮=皇太子を意味する)は、日蓮に「立正大師号」を宣下した。働きかけは東郷元帥からなされたというが、その東郷を動かしたのは小笠原長生のほかにはありえまい(神風を吹かせたのは日蓮だとでも言ったのか)。
 石原はしかし智学よりも理路整然とした風のある日生の教団ではなくて、〈期限付きの切迫した予言〉でインパクトが勝る智学の教団のメンバーとなった。石原は、佐藤鉄太郎の国防論のスタンス(日本は東洋の英国であり海軍国であるべきだから、満州方面にあまり深入りすべきでない)や、佐藤のキャラクターも、気に入らなかったと思うけれども、それは小さな問題だった。
 大正9年の3月に、日蓮の言う「前代未聞の大闘諍」(この句は法華経には出てこない。日蓮の発明)が現代または近未来に起きて、その結果、日本の天皇の軍隊により、世界の宗教的統一が成るのだとする田中智学の話に賭けた石原は、某日に国柱会に正規に加入し、5月前半に漢口へ単身赴任した。
 その時点ではまだ石原は、明治時代にインド研究を深化させた宗主国イギリスを筆頭とする西欧の考古学者たちが、ゴータマ・シッタールダの歴史的没年についての正確な絞り込みをしつつあったことに無頓着だった。その年代は今日では、紀元前383年から500年のあいだで収束(すなわち「北伝」と近い)しているようだが、いずれにしてもシナ天台が持ち上げ、最澄や日蓮やその信徒たちが疑いもしなかった『周書異記』の紀元前949年仏滅説とは500年前後ものズレがあることは、明治時代に分かったのである。
 さてそうなると、「正像二千年過ぎて末法の始二百余歳の今時は」(法華初心成仏抄)とか「今末法に入って二百余歳」(撰時抄)とか「当世は末法に入つて二百一十余年なり」(教機時国抄)とか「仏滅後二千二百二十余年」(文永10年7月6日の手紙)とか「仏滅後二千二百二十余年一閻浮提之内未曾有之」(佐渡始顕本尊とよばれる曼荼羅の讃)とか「仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未有大曼陀羅也」(文永12年4月の讃)とか幾度も書き残している日蓮は本当に上行菩薩の生まれ変わりなのかと、石原のような俄か信者ならば疑うだろう。石原がこの問題の所在に気がつくのはしかし、昭和13年である。
 大正12年9月2日にベルリンの新聞が伝えた「横浜・東京が大地震で全滅」のニュースは、石原をやきもきさせた。
 石原は、「一閻浮堤未曾有ノ大闘諍」も「立憲養生会ノ天下」も「数十年」以内に切迫しているのだと信じようとした。大正13年2月7日の妻への手紙の中で、〈ドイツの社会党は、結党から30年で政権を握ることができた。わが立憲養生会は20年でそれができてもおかしくはない〉といっている。これはザクセン邦に大正12年10月に誕生した、ドイツ社会民主党と共産党の連立政府のことで、もともとマルクスは反資本主義革命はドイツかイギリスでまず起きると予言していたのだから、先には皇帝を放逐して共和国化したドイツ連邦が、まもなく共産化するとしてもいまさら不思議のない話であった。やがて台頭するナチスも、レッキとした社会主義標榜政権に他ならない(マルクスが階級だけを問題として国家を否定するのに対して、国家または民族の中に階級を解消しようとした。ソ連政体も実質は類似)。このドイツ世相の劇的な変化は、一方では永田鉄山を刺激して日本のソ連化(=ナチス化)を図らせることにつながったし、他方では石原莞爾を刺激して独自の〈日蓮主義石原派〉に向かわせた。
 期限を決めて、それまでに日本の国教を日蓮教にする――など、国柱会幹部が論定して宣伝しようとしたテーゼではない。石原だけの思い付きであり予言であった。
 里見岸雄は石原に対して直接に、本門戒壇の建立までのタイムスパンを「まあ考えたことはないが、二、三百年位は……?」と見解を述べたという。石原はそれに絶対に同意せず、今から「三十年位」で田中智学に政権を獲らせるつもりだと力説した(大正12年11月1日)。
 田中智学は大正13年の第15回衆議院議員選挙にみずから立候補するのだけれども、5月10日に落選(次点)した。だが石原は、じぶんの予言を修正し続けるだけで、決して撤回しなかった。
 石原は、地震前の大正12年8月28日の妻への手紙の中では、米国を「平ノ左ェ門」(平頼綱)になぞらえている。北条家の家臣の身で鎌倉幕府の実権を握った頼綱は、文永8年に日蓮を佐渡島へ流した。しかし正応6年(1293年)4月、鎌倉大地震の混乱を利用した執権側の奇襲に遭って自刃した。日蓮宗内では、悪役のキャラクターだ。
 大正12年9月14日の石原から妻への手紙には、こんどの地震は「地涌の大菩薩」が東京に出現する兆なのだというじぶんの見解を披瀝している。その大菩薩は「東宮殿下」(昭和天皇。この時点では摂政宮)だとも示唆する。そして、真の世界戦争は、二、三十年後に切迫しているという。「三十年とするも六十五歳。未だ少々御役に立つ年也」とも打ち明けている。おそらく発想の順番はその逆なのだ。自分のトシから逆算をして、遅くも1953年(30年後)までには日米決戦がなくては困ると思いつめた。自分の思い通りに地球が回るべきだと石原は考えた。
 第一次大戦末にフランスのフォッシュ元帥が67歳で連合軍の総指揮をとったこと、そのフォッシュを抜擢したのは76歳のクレマンソー首相であったことは、戦前の日本軍将校として知らぬ者はなかった。石原はしかし、そこまで己の肉体への自信は持たなかった。
 大正13年3月16日の妻への手紙中では、ベルリンの新聞の夕刊が、日米の国交が断絶するかもしれない〔排日移民法が5月にクーリッヂ大統領によって署名されるから、その問題だろう〕と報じているのに対して、「自界叛逆難に次いでいよいよ他国侵逼難か?」と反応している。
 「他国侵逼難」および「自界叛逆難」は、日蓮の遺文に出てくる熟語で、末法の初めの二百数十年の今(鎌倉時代)は、内乱や外患があいついで至り、まさにシナ天台教の言う「闘諍堅固」の時代であり、唯一有効な良薬として法華経ばかり弘まるに違いない、という文脈だ。…… 《後略》
 ……このあと、石原が思いついたスーパー・ソリューションである「仏暦二重用説」だとか、国柱会がそれから距離をとった次第、石原は「人類のテロの発達」についてまるで想像力が働かなかったがゆえにシナ人のテロ流儀に対してなすすべがなかったこと、なども、くわしく解説してあります。カットの無い全文は、PHPの文庫本でお確かめください(難読漢字にはすべて編集部がルビを振ってくれてあります)。
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