なぜ self-defense の proportionality が、自衛隊に関しては「必要最小限度」と意訳されたか?

 これはベースに昔の警察の考え方があった。
 たとえば犯人がピストルを擬して向かってきたとき、警察官が拳銃を発射してその犯人を制圧しても、「プロポーショネイト」であり、正当防衛が成り立つ。
 では多数の暴徒が警察署を取り囲んでダイナマイトを投げつけてきたときに、警察署内からも、致死性の爆弾を多数投げつけて、これに応戦してよいか?
 普通の軍隊ならば、それも十分に「プロポーショネイト」である。
 しかし日本の警察はそこまでは許されない。可能なのはせいぜい、低威力のけん銃、非致死性のガス銃、放水銃の使用までであろう。
 かかる警察流の伝統が「必要最小限度」という翻訳の観念の根底の発想だったのだろうと兵頭は見る。
 自衛隊は創設の当初は「警察予備隊」といって、19世紀のドイツ司法学(西洋法学のなかでプロポーショナリティを最初に論じた)に詳しかった元内務省官僚たちが、20世紀の安全保障のことはあまり考えないで、いやむしろ、敢えてミスマッチな運用理念として導入させた。それは世界の安全保障の常識とは、いたしかたのないズレがあった。
 相手がもし大量破壊兵器を先に使ってきたなら、こちらも同じような手段で反撃しても、それは「プロポーショネイト(比例的)」な自衛と認められるのが、戦時国際法の標準的な釈義だ。
 個別的自衛の遵守綱目たるプロポーショナリティを「必要最小限度」と警察風に意訳したのがそもそもボタンのかけ間違いであった。「集団的自衛権を行使しているわが日本軍」というイメージと、「必要最少限度の」という日本語のイメージは、常人の頭の中では合致し難いだろう。
 九条2項の中でなぜ「交戦権」がわざわざ念を入れて禁じられたかの理由は、拙著『「日本国憲法」廃棄論』で推測した。1941年12月8日の開戦を「戦闘状態に入った」とだけ伝えた、世界に対して無責任すぎるラジオ放送原稿の空虚さが、原因である。あれと同じ、説明責任ゼロの流儀での侵略は二度と日本にさせないと、アメリカが豪州を説得する必要があった。
 その2項の縛りと「集団的自衛権」はマッチさせようがないと法制局はずっと思ってきた。それは文法的には正しい。つまり日本国憲法は、国際法違反なのである。
 話を戻す。
 「均衡性」という日本法学界の半公定の訳語も、(特に昭和生まれ以降の世代に対して)ミスリーディングで、よくない。それは「プロポーショナル」の訳語としては似つかわしいだろうが、「プロポーショネイト(proportionate)」を訳すなら、どうして「比例的な」「比例した」を選ばないのか? 反軍的な文官たちに、何か底意があったのではないか。
 あらためて、「釣り合いを失して過剰にわたらざること」等と、誤印象の余地が無いように、丁寧に訳し直されるべきだろう。
 さすれば、その言葉のイメージと、日本軍が集団的自衛権を行使する姿とは、内閣法制局の人々の頭の中でも、違和感なく整合するだろう。
 わたしたちはもともと、proportionality のイデアを、とりそこなっていたのである。