残存する唯一の形式の旧軍の「火薬庫」(地上棟)か?

 谷地頭の「函館八幡宮」の敷地に接した土手際に、やたらに古そうな、そして小さくて奇妙な、窓に赤錆びの鉄格子の嵌まった薄いコンクリート壁+錆びまくったトタン拭き方形屋根の、独立棟が現存する。
 見た目は、質屋の土蔵とも違うし、一般人の普通の倉庫にしては設計が凝りすぎた印象。とにかく用途の見当がつかず、不思議なもの。(ブログの「なんだか函館」の銀ぎつねさんも、分からないと書いておられた。)
 現地には、戦前は、「津軽要塞司令部」があった。今は道営団地になっている。それを知っていれば、旧軍の施設であることは想像できた。
 答えは、函館産業遺産研究会編の『函館の産業遺産』No.7(2002-7-1発行)に書かれていた。
 三方を土手で囲んだ「火薬庫」であった。
 同資料によれば、津軽要塞司令部の構内には、地上式の大きな納屋のような「弾丸本庫」、同じく大きな「弾丸庫」、山裾の斜面に埋め込むようにコンクリートで造られた「地下倉庫」(これは貴重な産業遺産として市が保存措置をとっている)、そしてこの「火薬庫」があったという。
 函館山には24cmから75mmまでの各種要塞砲が据えられていた。弾丸庫はその砲弾を収めていただろう。
 「地下倉庫」は、特に威力の大きい高性能炸薬入りの重砲弾の倉庫だったかもしれない。(28糎榴弾は黒色火薬なので、むしろ湿気がよくなかった筈だ。)
 問題はこの小さな「火薬庫」だが、要塞砲兵といえども小火器を装備していろうたから、小銃弾などを収めたのではないかと、兵頭は想像する。
 明治30年代設計の火薬庫ゆえ、今のように四方を土手で囲まなくともよかったのだ。
 横須賀の猿島のように、わが国内には、旧陸海軍の弾薬庫/火薬庫は各所に現存している。が、地下部分の無い、建設当初から地上部分だけの独立棟というのは、現物がそのまま残されているのは、この谷地頭の「火薬庫」だけではないか。
 函館八幡宮の禰宜の土田紘司さんから兵頭が直接にうかがった話によると、かつて、この建物を夏期のストーブ置き場にしていたこともあったそうだが、今は、屋根からは植物が侵入し、床は土手の土砂が押し寄せて半分埋めているという状態で、中は完全な廃屋だそうである。
 ただ、木造でないために、こうして腐朽をまぬがれて建ち続けているのだ。
 教育委員会か誰かが、案内板を設置すべきじゃないだろうか。人に知られず埋もれさせておくのは、みんなが損である。