「読書余論」 2015年1月25日配信号 の 内容予告

▼防研史料 砲兵監部『改訂 砲科教程 弾丸之部』M16-3
▼防研史料 『砲兵操典 七珊米山砲々熕操砲之部』M18-2
▼防研史料 『野戦砲兵射撃教範』M34-4-8改正
▼防研史料 『野戦砲兵射撃教範』M32-11-15(第3版)
▼防研史料 『野戦砲兵射撃教範草案』陸軍省M33-12-12
▼防研史料 『野戦砲兵操典』M33
▼防研史料 『野戦砲兵操典草案』M33-12
▼防研史料 陸軍兵器学校『弾薬参考書』S15
 13ミリの92式焼夷弾は、弾頭に黄燐が詰まっている。下から三分の一のところに噴気孔あり。ハンダで塞がれていて、バレル内で熔ける。噴気が始まると、空気に触れて自燃。それが曳光・曳煙の代わりになる。ただし、敵機の油槽上部、ガソリン・ガスが充満した部分へ、連続数弾が命中する必要がある。曳光は夜は1300m見えるが、夏は早く燃え尽きる。 ※海軍では曳光と言わずに「曳跟」と言う。
▼史料調査会海軍文庫ed.『海軍 第一巻 海軍黎明期』S56 の前半
 なぜ古賀のGF司令部が『武蔵』からパラオの陸上に移ったか。燃料油はスマトラ東岸にしかない。だから艦隊はそこで訓練させるしかない。かたや絶対国防圏の前線は東正面である。そのため指揮所は東に出すしかなかった。
 1853のフィルモア大統領の書簡。カリフォルニアから日本までは、蒸気船で18日で着く。しかし石炭の消費が甚だしい。だから、日本列島が、石炭の中間供給拠点になって欲しい。
 ※石炭の中間補給が目的だったから、清国への最短ルートである津軽海峡に面した箱館が最初に目をつけられ、開港させられた。そこに貯炭場を置くことが甚だ便利だった。津軽海峡を抜けないとすれば、本州東岸に沿って南下しないとシナに辿り着けない。その場合、太平洋側にいちばん突出した港である下田で給炭するのは合理的であった。いずれも、北極点中心地図か地球儀を眺めないと、すんなり理解できない。
 1860に横井小楠が松平慶永に進呈した「富国論」。まず藩札を発行してそれを百姓に貸し、養蚕を始めさせる。その生糸を開港に輸送して洋商に売る。さすれば、藩札の額面と同じくらいの正金を、1年もしないうちに得ることができるだろう。
 安政5(1858)年3月6日、佐久間象山が梁川星巌へ宛てた手紙。こうなったら、「司馬法に申す所の、両之[りょうし]の手段に仕り候の外無しと存じ候。」 ※象山は勝海舟が見抜いたように「ハッタリ」好きの人。古典からの引用はいいかげんであった。文字は正確でも意味をつかんでいないと思われる場合と、文字の引用そのものが不正確な場合とあり。たとえば天保13年11月24日の「海防に關する藩主宛上書」とよばれる文書の中の「兵法に所謂 以勝予敵 と申ものにて 必敗の道に可有之候」とあるところ。
▼『海軍雑誌』vol.1(M16-10)~
 国会図書館に所蔵されている海軍省の定期刊行物で、ほぼ全部が、海外の海軍雑誌の記事翻訳。
 サハリン島に石脳油が出ると日本海軍が知ったのはM19で、それは英誌情報によったことなどが分かる。
▼『偕行社記事 36号』M23-5
▼『偕行社記事 37号』M23-5
▼『偕行社記事 38号』M23-6
▼『偕行社記事 第8号』M22-2
▼『偕行社記事 第10号』M22-4
▼岩堂憲人『機関銃・機関砲』S57
▼本居宣長著、鶴見誠校訂『石上私淑言』雄山閣文庫S12、原・文化13-7
 ※著者が敢えて書いてないことを「書いてない」と指摘する書評がいちばん腹が立つ――と発言した丸山眞男が晩年、小林秀雄が『本居宣長』の中で触れていないことを批判して腐していた。すなわち古今集の時代の日本の指導層はすでに漢意を注入されてしまっているのに、なぜ宣長は万葉集の方を絶対視しないで古今集などをプラスに評価したのかと丸山は問い、その答えを小林が書いてないことをもって小林を評価しない。兵頭いわく。万葉集時代は、日本がシナから直接侵略のみならず言語による間接侵略を受ける恐れの強い時期だった。また平安末以後になると、宋学の悪影響が日本に及ぶようになった。古今集の時代は、その中間に位置して、万葉集時代からスタートした間接侵略排除の言語政策そのものである和歌の洗練はピークに達し、かつまた、直接侵略の脅威は最も低かった。宣長はそれをありがたがったのだ。
 「うた」という日本語が先にあり、あとから漢字の「歌」を借りている。したがって「うた」を「訓」と言うのは間違いである。古言に「訓」などないのである(p.45)。
 「倭歌」の初出は万葉集の書殿餞酒日倭歌四首。天平2年である。
 したがって万葉集のことは「和歌集」とはいわない。古今以後の題号である。
 「やまと」はもともと今の奈良県あたりの一国について言ったが、神武天皇の橿原宮以降、帝都が次々とそこにできたため、後にはおのずから天下の総名にもなったのである(p.64)。
 おおかた地名というものは、もとは「別名」(固有名詞)だったものが、後に惣名(一般名詞・全体名詞)になるケースが多く、その逆は無い(p.65)。
 うらやすという地名のうらは「うらがなしい」のうらと同じで、「浦」という意味は無い。しかし当て字として「浦」が使われる。
 天上からこの地をさして「あしはらのなかつくに」と形容したのだろう。この地に居て言う場合は「おおやしまのくに」だろう。
 「やまと」に「倭」という字を当てたのは日本人ではなく、唐人である。その初出は「前漢書地理志」である。
 そして『古事記』では、世にあまねく書きなれていない用字にはすべて音声の注記がしてあるのに、「倭」の字には注記がない。よほど昔から普及したのであろう(p.73)。
 その後の日本人が「倭」という字は美名ではないと気付き、「和」に改めた。しかし隋朝では改めてはいない。唐朝になって、「和」と書くシナ人も出てきた。
 その改めた時期だが、『古事記』や『日本(書)紀』には一例もないので、もっと後の時代である。日本紀の第五巻に一例がみえるのだが、それは伝写したときの誤りにちがいない。
 宣長の調べでは、勝寶4年11月から、寶字2年2月までのあいだに、改められたようである。記録は残っていないが、きっと、詔命で公式に改められたはずだ。『拾芥抄』に、その手掛かりがある。
 日本という国号は、わが国の内側で使ったものではなく、わが国の人が外国に示すときに使った国号である。ではわが国の内側ではなんといったかというと、「大八洲」であった。古い詔命には「大八洲天皇」といっている。
 「日本」の使い初めは大化元年秋7月だと思われる。それ以前の用例は後代の改竄である。
 万葉集に「日本」という字があるのは、後代に、古いうたが5文字によめないので「ひのもとの」と無理に読もうとして改竄しているのである。すべて「やまとの」と4文字によんだものである。
 日本という号は、孝徳天皇のときにはじまった。しかし一般化するのに時間がかかった証拠には、それから70年後の和銅5年にできた『古事記』にも、一例も使われていない。
 国号には「おほ」だとか「とよ」だとかを頭にくっつけることが多かった。「おほやしま」「とよあしはらのなかつくに」など。
 唐朝では、当代の国母を「大后」と書いた。それに対して本朝では、当代の嫡后を「大后」と書いていた。このことは、「大」という字の用法もシナ人とは一致させないことに平気であったことを意味する。
 色にそむこころが人を失敗させることは、昔も今も数しらず。だが、人みな聖人ならねば、この思ひはなきことかなはず。
 『魏志』には「其風俗不淫」と日本人を評しているぐらいで、さかしらなことをぬかすシナ人のほうがよっぽどエロきちがいなのである。
 よろずのことに、シナにはよからぬ人がやたら多い。あれほど法令罰則でいましめても悪人悪事はちっともあとをたたないのはなぜだ。「もとより國のわろきゆゑ也。」
 これに対して日本では、人のふるまいを儒学者のようにほめたり謗ったりしないにもかかわらず、悪人は少ないじゃないか。これは「神の御國の故ぞかし」(p.103)。
 法師も恋歌をよむ。みな仏菩薩の変化じゃないんだから、それを心に思ったって、恥ずべきことじゃないだろう(p.104)。
 百両の小判は欲しく思うが千両の小判は欲しいとも思わん、なんてやつはおらんだろう。花鳥風月にすら心を動かされるのならば、女にはその百倍心を動かされてあたりまえである(p.105)。
 詩文によって、上を諷し、下を化するなどという、ウザいマネは、日本人はしないのである。歌をもって教誡にするなんてことは、上代から誰も考えなかったのである(p.113)。
 シナ人は詩を書かせることでそいつが頭がいいか悪いかを判定しようとする。日本国ではそんなためしはいちどもないのである。
 どんなことにも、そのもとのありようと、それをもちうる上での功徳[こうとく]とのわきまえがある。これをシナ人は「體用」というのだ。
 歌の體とは、ただ物のあはれなることをよみいずる、それより外になし。
 歌の用にはいろいろとあるが、思うことをよみ出れば、心につもりてたへがたきあはれも、をのづからなぐさむ。これが第一だ。
 歌というものは、それを見聞くときは、わが身のうへにつゆしらぬ事も、心にしみてはるかにをしはかられる。
 そしてその結果として、世の人のためにあしかるわざは、すまじきことと思うようになる。
 いかにさとり深く、才[ざえ]かしこきも、人の心は をよぶかぎりのあるものなれば、いにしへの聖人が考え定めて言い置いたこと、後代にははるかに違ってしまい、思いの外になっている。
 日本では、日の神は姫神であり、月の神は彦神である。シナの陰陽思想の逆である。だからシナ渡りの五行説などはすべて日本ではひがごとなのであり、それで和歌の31文字の理由を説明などしてはいけない(p.141)。
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