「読書余論」 2015年7月25日配信号 の 内容予告

▼防研史料 『砲兵学 講本 第二版 巻ノ二』
▼防研史料 歩兵学校ed.『三一式山砲取扱上ノ参考』
 この大砲は反動で後退しっぱなしではなく、バネの力で車輪が逆転して元の位置に自動復帰するロボット設計であったこと。
▼防研史料 『試製90式野砲概説』陸軍技術本部 S5-9
▼防研史料 『野戦砲兵射撃教範 改正草案理由書』教育総監部 M39-11-20
▼西浦進・談『昭和陸軍秘録――軍務局軍事課長の幻の証言』2014-8
 1967~68に木戸日記研究会が服部卓四郎大佐の同期の西浦進に聴き取りし、近代史資料研究会から1968末に刊行した『西浦進氏談話速記録』上下巻・非売品を、改題したもの。いくつかの「聞き間違え」的な字がそのままである。1970-11の西浦氏の死後、この資料が2014までわかりやすいタイトルで市販されなかったことは遺憾だ。この資料を先に読んでおいたならば誤解しなくて済んだはずのことどもが、すこぶる多い。これから旧軍のエリート軍人について研究したい若い人は、まっさきにこの1冊に目を通す価値がある。
 西浦にいわせると、池田純久などは10月事件の黒幕でもなんでもない、雑魚である。あくまで巨頭は鈴木貞一なのだ。
 企画院は、機密保持ができないところ。出向者ばかりで、それぞれ親元があるから。
 西浦いわく。青年将校はきれいではなかった。隊務をろくにやってない。普段から仲間としても尊敬されていなかったのが集まって、そこで志士気取り。そんなのが過半数だった。
 陸大へ行く人間は、隊務においても優秀。
 米人のグリッフィース准将は、戦後、西浦のところにまでインタビューに来た。『米国極東政策史』を書いている。ベトナムについても上院で証言している。ロンドン大学で孫子の研究をして本を書いたのと同一人物。
 ※前の新書版を若干改訂の上、あたらしくPHP文庫に入った兵頭編『新訳 孫子』は、本日書店搬入です!
 中共の暗号はロシア仕込みで、解けなかった。
 フランコは、反政府軍であるゆえ、みずから「革命軍」と名乗っていた。戦力の中軸は、外人部隊とモール人〔ムーア人〕。このモール兵の下士官は指に10個の指輪をはめている。もちろん略奪品。キリストの像以外は、なんでも持っていく。
 盧溝橋事件が「事変」に昇格したのは、杉山陸相が、政友会の白髪農相・島田俊雄から焚きつけられて、その熱弁に共感してしまったのである。
 田中新一は、当時、軍事課の入口のところで地図を前にして立ち、「点と線だけを持っておればいいのだ」と言っていた。しかし戦後になり、「日本軍は点と線しか持っておらんから支那事変は解決しなかったのだ」と言うようになった。
 対ソ戦に動員する予定の半数でしかない15個師団の動員でいきなり小銃が不足してしまった理由。シナ戦線では前線が錯綜し、後方兵站部隊や傷病兵までが小銃で自衛しないと危なかったため。対ソ戦では、砲兵など小銃は持たぬつもりでいた。その流儀が対支戦では通用しない。
 日独防共協定は、岩畔高級課員がひとりで進めて実現した。
 ナチスは情報統制ができる体制だった。ドイツ・スクールの日本の武官たちは、国防軍から情報をとらず、ナチス党からの情報だけに依存しており、そのため、現実離れした報告だけが東京へ送られた。欧州の他国駐在武官からの報告も、ベルリンの大使館でとりまとめてスクリーニングして握りつぶされていたので、その時点で終わっていた。※西浦と服部はフランス語スクール。田中新一はロシア語スクール。
 戦前は、本省費と軍事費が別である。軍事課だと、2~3人以外は、本省費が足りない。それでしかたがないから、技術本部付兼軍務局課員とか、兵器本廠付兼軍務局課員ということにして、軍事費から俸給を出すようにしていた。本人は、じっさいは技術本部になんか挨拶にも行かないし、覗くことすらなし(p.249)。
 三国同盟は、スターマーと松岡と大島(前大使で無職時代)が膳をつくり、陸軍大臣と陸軍省は、その据え膳を食わされた。武藤局長も食わされた。
 加藤軍神。あれは、隊長も部下も最優秀な奴を揃えて、かろうじて、脚の短い一式戦で、上陸直前までの掩護ができたという話。南部仏印の、そのまた沖のフコク島に飛行場をつくらねばエアカバーは届かなかった。
 飛行場は、夏から昼夜兼行で数ヶ月かけて建設した。飛行場設定隊長たちは、飛行場の中で露営をしてやりとげた。
 この一式戦は量産させようとしてもなかなか増えなかった。
 プロ軍人は、青年将校時代から、ものごとを計画的にやれと鞭撻され、先制主導が習い性になる。戦略でも戦術でも。だから、「そのうちどうかなる」という態度は問題外だったのだ。石油を取るために南方へ行かないとか、南部仏印に入らないという選択は、米国の経済制裁を受けている中では、もう省部幕僚の誰も考え得なかった。※しかしハイオク・ガソリン以外の油脂は輸入できていたはずで、インタビュアーがなぜそこを突っ込まないのか、もどかしい。
 西浦はなぜ関特演には反対したか。対ソ戦をやれば、対ソ戦のための油がガッツリ消耗するから。
 当時、陸軍は、半年分の油しか確保していなかった。
 ソ連と戦争して半年でカタがつくか? 絶対無理である。だからヒトラーに呼応してまずシベリアを叩くなどという選択はなかったのだ(p.335)。
 田中隆吉は空襲恐怖症で神経衰弱になったのである。S17の中頃。彼が防空の主担任局長だった。木村次官もこいつは神経衰弱だ感づいたが、「よし辞めろ」とはなかなかいえなかったところ、何かのときに向こうから「私は辞めさせてもらいます」と来たものだから、すぐに事務処理をして辞めさせて、入院させた(p.370)。
 広島の一報が来たとき、軍事課の部下で、いまは山一證券の支店長をやっている若い参謀が「あ、これは原爆だ」とすぐ言った。そのくらいには、わかっていた。終戦の頃には、常識化していた(p.382)。
 陸軍省は、参本に向かって「この作戦をやめろ」とはいえない。統帥権がないので。そこで「船はやれない」の一点張りで、ガ島作戦を中止にもちこもうと図った。
 戦陣訓にいちばん熱心だったのは阿南。阿南と岩畔でつくって、東條にラジオで放送させた。
▼土肥一夫、他ed.『海軍 第八巻 航空母艦 巡洋艦 水上機母艦』S59-9
 ※今回は空母と水上機母艦の章を摘録。巡洋艦は来月に。
 米空母は、格納庫の側面をできるだけすっとおしにした。これは爆弾の爆圧を逃がしてやり、飛行甲板が膨らまぬようにするためだった。と同時に、火災時に、格納庫内の燃えそうな物はどんどん舷側へ投棄できる。設計の最初から、そこまで考えてたのである。
 水上機母艦はなぜ廃れたか。波浪が高いときに、多数の水上機を短時間に揚収する方法がない。これでは艦隊決戦向きではない。
 水上機母艦の『神威』には、ドイツで考案された「ハイン・マット」=ハイン幕が一時期とりつけられていた。水上機を8ノットで航行中にデリックとスプールで揚収する。
▼経済雑誌社pub.『国史大系第十六巻 今昔物語』M34
 ※巻第16から。
 わらしべ長者は原話だと別に富豪にはなっていない。中流の上くらいで、そこそこ楽に暮らしたというだけ。
 ◆  ◆  ◆
 「読書余論」は、主に軍事系の古本を、兵頭が注目した一斑の摘記や読書メモによって紹介し、他では読めないコメントも附しているものです。(配信されるファイルはPDFスタイルです。)
 あまりに多すぎる過去の情報量の中から「兵頭はここは珍しいと思いました」というポイントだけ要約しました。
 大きな図書館に毎日通えない人も、最低費用で、過去の軍事知識のマニアックな勘所に触れることが可能です。
 また、ミリタリーしか読んで来なかった人には、他分野の情報が、何ほどか有益かもしれません。
 「読書余論」は、毎月25日に「武道通信」から最新号が配信されます。1号分の購読料は500円です。
 バックナンバーも1号分が500円で、1号分のみでも講読ができます。
 過去のコンテンツは、配信元の「武道通信」のウェブサイト
http://www.budotusin.net/yoron.html
 で、タイトルが確認できます。
 PDF形式ではない、電子書籍ソフト対応の「一括集成版」もできました。詳細は「武道通信」で。
 ウェブサイトでわからない詳細なお問い合わせは、(有)杉山穎男事務所
sugiyama@budotusin.net
 へどうぞ。