「読書余論」 2015年8月25日配信号 の 内容予告

▼防研史料 『航空機雷要目 性能一覧表』
 沈底式もあれば、浮標浮遊式もあった。
▼防研史料 『爆弾関係』
 敗戦後にケミカル関係の爆弾の統計を米軍に提出したもの。
▼防研史料 『火工部(爆撃兵器関係)』
 支那事変から敗戦までの爆弾信管や発火装置の諸元、開発経緯一覧。
▼防研史料 『基地準備標準』 S18より以降?
▼『実戦ヨリ得タル射手心得』木更津海軍航空隊 S15-8
 空中戦後、パンクを点検し、もし片車輪だけパンクしているのを発見したなら、もう一つも拳銃で撃て。
▼防研史料 『七粍七焼夷弾薬包ノ保存取扱ニ関スル件 申進』S15-8
 焼夷弾には黄燐の自然発火という厄介なトラブルがつきまとった。その詳細。
▼防研史料 『海軍航空本部報(部内限)』S16-11-1~S16-12-29
▼防研史料 『海軍航空本部部報』S17-1-7~S17-12-29
▼防研史料 『海軍航空本部部報(部内限)』S17-1-7~S17-12-29
 S17-2-24、九九式3番3号爆弾を外戦部隊の戦闘機が搭載できるよう特急で改造せよ。「弾底発火装置用風車抑」を新製改造せよ。
 ※航本に事実上の最高幹部として迎えられた大西瀧治郎は、早くも「爆装零戦」を構想して、実施までさせていたことがわかる。これがMI作戦に間に合っていれば……。
▼防研史料 『野戦砲兵士官手簿』野戦砲兵射撃学校 M36-6-6印刷
 31式野山砲および欧州強国の野戦砲兵の比較表。
▼防研史料 『砲兵戦術講授録』野戦砲兵射撃学校 M43-3印刷
▼沼田 多稼蔵『日露陸戦新史』大13
 M37-7月下旬に、野山砲弾々体を独国「クルップ」会社 其の他に注文。12月より3月に至る間、45万発を受領する筈也。
 M38-2月27日から3月10日の奉天会戦で、野山砲弾28万発、三十年式歩兵銃の実包2000万発、村田連発銃の実包238万発が消費された。
▼長谷川正道『国民参考 兵器大観』S9
 ※キリトリだらけである。
 発射時に自爆しないように雷管と撃針を確実に離しておくのが「支筒」「支耳」である。
 「活機」は、撃針または雷管を持つピストンのようなもので、当たったときに動く部分。
 「加量筒」は、古い着発信管にある。弾頭にも弾底にも使う。
▼『水交社記事 vol.45 』(M27-3)
 水雷艇の速力を進歩させたのは、機砲と速射砲だった。
▼松永榮[さかえ]『大空の墓標 最後の彗星爆撃隊』1999-8
 急降下爆撃の現実が詳しくわかる好資料。
 実戦では、水平爆撃よりも急降下爆撃の方が被撃墜が多かった。
 彗星の上昇限度を10500mなどと書いているカタログスペックなど何の意味もない。ありていは、3000m以下でなくば使えぬ機体だった。
▼増戸興助『彗星特攻隊』1999-7
▼橋本・田辺、他著『証言・ミッドウェー海戦』1992
 月刊『丸』の記事をコンパイルしたもの。
▼金沢秀利『空母雷撃隊』S59-8
 昼間雷撃をやって生き残った者による、唯一の単行本回想記。S30の初稿を校訂した。
▼伊藤正徳・他監修『実録太平洋戦争 第二巻』S35-6
 牧島報道員の証言。芝山中尉が全扉を開けさせたので、『赤城』だけ2000名のうち1200名が助かったが、他の空母では、乗組員の半分が死んでいる。
▼手島丈夫『日米空母戦力の推移』H7
 1942、米国は、護衛空母×50隻の新造を、バンクーバーのカイザー造船所に一括発注。
 S19-12-18の台風で、米駆逐艦3隻が沈み、空母の艦上機186機が海中に転落。700人死亡。
 S20-6-5、荒天のため重巡『ピッツバーグ』の艦首切断。他に、米空母艦上機142機が全損し、6名死亡。※南シナ海もヤワな海じゃないということ。
▼山本智之『主戦か講和か――帝国陸軍の秘密終戦工作』2013-6
 酒井鎬次や服部卓四郎等についてよくわかる本。
 1943-9-16に戦争指導課が立てた終末方策。ソ連に譲歩する必要があるなら、満ソ国境を非武装化してもよく、さらには満州国を非武装にしてもよく、また、防共協定を廃棄してもよい、等とした。
 著者いわく。非武装化とは、実質的には満州をソ連に渡すことを考えていたのだ(p.94)。
 ※著者は「亜欧連絡ノ打通」が意味するところを、米国の対ソ物資援助のことだと解釈しているが、それはウラジオ経由でもとっくに実現していたので、そんなことではあるまい。米陸軍と陸軍航空隊が、堂々とウラジオや大連から上陸し、シベリア鉄道を使って東部戦線へ援軍となってかけつけることができる、という意味であろう。
 ※この本を読んでいるうちに呑みこめたこと。なぜソ連に仲介を頼むのが日本の国益になると省部エリートは考えたのか。それは、ソ連は英米とはナチュラルには敵だから、米英からは与えられない満州という大きな餌を日本がソ連に与えてやれば、ソ連は利己心・強欲から、米英の戦後経営方針に逆らって、日本をすこしは庇ってくれるのではないかと妄想した。
▼太田猛彦『森林飽和』2012-7
 江戸時代から戦後まで、かつては日本の山もほぼハゲ山であった。だから海に多量の砂が押し出され、それが飛砂や河口閉塞をもたらしていた。今は日本の歴史上、珍しい山林緑化時代なので、海の砂は逆に足らなくなり、汀線[ていせん]が後退している。
 古事記によれば、雄略天皇が460年頃に葛城山に行幸したとき、周囲の山にはすでに樹木はなかった。
 立ち木をことごとく利用してしまうから、中世の東国には広大な「牧」があちこちにあったのである。鬱蒼とした森は、すでに東国地方でも、かなり遠く離れた山地まで行かないと、見られなくなっていたのだ。
 ※この本により、日本の馬術や「巻き狩り」がどのような環境で発達したのか、初めて理解できた。「武蔵野」は、立ち木などほとんど稀な大草原だったのだろう。
 日本の森林破壊は1500年以降に急加速した。15世紀中葉から18世紀初頭までに日本の人口は3倍になった。江戸時代は山地荒廃の時代だった。
 ※幕末に「ゲリラ戦」は不可能だった。隠れられる森林など東北にも無かったのだ。
 ヒノキの伐採だけを禁止しても、犯人が、ヒノキによく似た他の樹種と間違えました、という言い訳ができるので、そのような言い逃れを許さぬように、サワラ、アスナロ、ネズコ、コウヤマキも一緒に禁止した。
▼土肥一夫、他ed.『海軍 第八巻 航空母艦 巡洋艦 水上機母艦』S59-9
 ※先月の続きで、今回は巡洋艦。
 「1号連携機雷」は『球磨』型以降の5500トン軽巡の艦尾から投下するようになっていた。水線下の艦首材が垂直より30度傾いていれば、この連携索を安全に乗り切ることができた(pp.170-1)。
▼佐藤優『ナチス・ドイツの崩壊を目撃した吉野文六』2014-8
 大島浩についてよくわかる本。
▼経済雑誌社pub.『国史大系第十六巻 今昔物語』M34 つゞき
 今回は巻第24まで摘録。
 平維衡と平致頼の私闘。射殺互いに数人。そこで詮議になった。「明法に勘へ」るところ、先に攻撃した方が悪い。「請け戦たる維衡が罪軽し」。※これは「自衛」「正当防衛」が「正戦」に近いとする価値観が示されている稀な文献ではないか。
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 「読書余論」は、主に軍事系の古本を、兵頭が注目した一斑の摘記や読書メモによって紹介し、他では読めないコメントも附しているものです。(配信されるファイルはPDFスタイルです。)
 あまりに多すぎる過去の情報量の中から「兵頭はここは珍しいと思いました」というポイントだけ要約しました。
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 また、ミリタリーしか読んで来なかった人には、他分野の情報が、何ほどか有益かもしれません。
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