あの肖像を見て、まず「若い!」と思わなきゃ、どうかしてるだろう。

 Vanya Eftimova Bellinger記者による2015-10-23記事「A Portrait of Clausewitz as a Young Officer」。
  これまでよく知られているところの、クラウゼヴィッツ(1780~1831)のたった一枚の肖像画は、画家の Wilhelm Wach によって1830年代の前半に描かれたものだった。
 すなわち死後の製作である。
 この記者(♀)によれば、その肖像は陰気で老けているという。※いきなり、まったく同意できない。現存肖像はクラウゼヴィッツの若いときの姿のイメージを夫人が画家に頼んで描かせたものだと想像ができる。なぜならクラウゼヴィッツはロマン主義の申し子であって、その精神は死ぬまでも若々しかったからだ。あれが50代の円熟した思想家風に見えるか? そう見えないようにわざと描かせているんだと、なぜ察することができぬ?
 今回発見された肖像(スケッチ)は、若い。
 この肖像画は Bernd Domsgen と Olaf Thiel が見つけ出した。2人はクラウゼヴィッツのホームタウン(Burg bei Magdeburg)でクラウゼヴィッツ協会に所属している。
 この2人は昨年、クラウゼヴィッツの家系図を完成した。クラウゼヴィッツ夫妻には子供はいなかったから、残存する親戚係累の残存者に総当りした。
 彼らは屋根裏や地下室を捜索してくれるよう片端から頼んだ。おかげで、大発見があった。
 このスケッチ画は3インチ×4インチの小さいもの。背面には「陸軍少将、軍事執筆家Carl フォン クラウゼヴィッツ少将、1780年6月1日ブルグ生まれ、1831年11月15日ブレスラウ没」と書き込まれてあった。※カールはCで始まる。Kとするのは間違い。これはピーター・パレットも結論している。
 この書き込みの没DATEは誤記だろう。公式にはクラウゼヴィッツは11月16日に死んだことになっている。
 過去のドイツ軍の軍装について詳しい、ドレスデンのブンデスヴェー軍事史博物館に勤務するゲルハルト・バウアー博士いわく。
 これが描かれたのは、1808年から1810年までの間じゃろう。しかし断定は不可能じゃ。カラー(襟)の肝腎な徽章が、無いでのう。
 19世紀のプロイセン陸軍においては、襟章や袖章〔の模様と色〕で所属聯隊と兵科が分かるのじゃ。
 推量するに、このクラウゼヴィッツは参本勤務将校の制服を着用しておるのじゃろう。
 将官たちと、その幕僚たちだけが、組み紐素材の肩章と、右肩の飾緒(fourrageres フーラジャー)を付けていた。※この記者は参謀と司令官の違いが分かっていないようだ。飾緒は参謀の印であり、参謀には軍隊の指揮権が無い。東條のようにそれを無視した不法軍人も多かったが、参謀が勝手な指揮ができないように正面からよく目立つ印で飾る意味があったのだ。
 おそらく上着は青地に銀ボタンと銀襟章であろう。そして襟と袖は臙脂色(深紅色)だろう。
 このことから推定して、スケッチが描かれたのは、1807年のフランス国内における捕虜生活を終えてプロイセンに帰国した時ではないか?
 クラウゼヴィッツはアウグスト親王(現王の従兄弟)の副官職も、引き続いて兼務していた。親王は陸軍省の軍事改革委員会のメンバーになっていた。
 と同時にクラウゼヴィッツは、シャルンホルストの私設秘書のような仕事も引き受けていた。
 1809年の前半にクラウゼヴィッツは親王の副官は辞め、シャルンホルストの専属になった。
 バウアー博士によれば、1810-8にクラウゼヴィッツは少佐に進級している。それにともない、左肩の肩章は変わらねばならぬはずだという。
 しかしスケッチにはその兆候が認められない。
 だからバウアー博士は、スケッチが描かれたのは1810年の前半より前であり、且つ、1808年より後だろうと見積もるわけだ。
 もしそうであれば、ここに描かれたのクラウゼヴィッツの年齢は28歳から30歳ということになる。
 作画者の署名は、無い。
 マリー夫人はアマチュア画家で、軍事博物館には彼女が1816年に描いたグナイゼナウの肖像画が掲げられているほどなので、可能性として、ある。
 しかし、夫人がクラウゼヴィッツの命日を間違えるだろうか? ※軍の公式記録と、夫人が思い込んでしまった日付と、1日ずれることぐらいあるだろう。
 マリー夫人には、対象人物を実際以上に格好よく描いてやる、プロの画家ならばある、サービスの心得というものはなかった。肖像のグナイゼナウは、疲れた腫れぼったい目をしている。プロ画家なら、絶対にそんな風には描かないものである。プロ画家は、人物の目を生き生きとさせる等の技巧を熟知しており、必ず肖像画にはそうした商売的な技巧を使うものなのだ。
 新発見のクラウゼヴィッツ・スケッチも、同じ商売技巧の無さが看取される。だから画家はマリー夫人であろう。すなわちこのスケッチは、クラウゼヴィッツの「生き写し」の絵なのである。
 マリー夫人が描いたとするならば、さらに製作時期は絞り込める。すなわち、1809年後半から、1810年の半ばまでの間だ。
 そうだとすると、ではなぜマリー夫人は、公的には、クラウゼヴィッツの暗い印象の肖像画だけを流布させたのだろう?
 ※だからその見方がおかしいんだって。疲れ果てた50歳代の男じゃなくて、40歳以前の若い青年将校のイメージだけを夫人は世に残そうとしたんだよ。なぜなら『戦争論』は情熱がほとばしった叫びの書なんだから。いまのところそれを理解してるのはオレだけだが……。
 ピーター・パレットが『クラウゼヴィッツとその国家』に収めているマリー夫人の書簡。それはクラウゼヴィッツの死の直後のものだが、マリー夫人の認識ではクラウゼヴィッツの一生は苦労のしっ放しであり、大成もできなかった。
 ※この記者はマリー夫人の伝記を最近書いたようだ。やがて邦訳も出るかもね。
 次。
 Kelsey D. Atherton 記者による記事「Video Shows Bomb-Carrying Condom Balloons In Syria」。
 ISは、阻塞気球代わりに「コンドーム+水素+手榴弾」を空に飛ばしているという。新たなる防空兵器。
 コンドームはふくらますとほぼ無色透明なので、パイロットは視認できないで衝突してしまう可能性がある。
 このビデオ動画は「ロシア・インサイダー」というサイトにアップロードされた。
 撮影場所はイドリブ郊外だという。そこはISではなく、ジャバト・アルヌスラの支配地なのだが……。
 ちなみにWWIIの日本の気球による爆撃では米国本土で6人が死んでいる。
 また、欧州でWWII中に使われた阻塞気球は、そこから吊り下げたスチール・ワイヤーによって、敵機の低空攻撃を不可能にするものであった。