「無意識過剰」とは「無知全開」のソフトな言い換えであったのだと覚る。

 本日、全国の書店で新刊の『「地政学」は殺傷力のある武器である。』が並ぶはずです。
 次のようなニッチ疑問を抱いておられた方々は、本書を手に取ることによって、積年の疑問が晴れ、スッキリされることと存じます。
一、防大はウェストポイントをモデルにしたというが、そのウェストポイントはフランスの士官学校をモデルにしているという。そのあたりの実態はどのようなものだったのか? →マハンの章をごらんください。すべてハッキリします。
二、加藤友三郎提督はそんなに偉い軍人政治家だったか? →266ページ以降をごらんください。2.26事件の遠因も、ロンドン条約などよりもむしろ、加藤友三郎が大正時代に承引したワシントン条約、なかんずく太平洋防備制限条項にあったのです。この仮説はわたしが大学院1年生のときに抱き、資料を集中的に読んだものの2年間では結論が出せず、まとまった文章にすることができたのは、じつは今回が初めてです。遅れ馳せの修論のような気がしています。
三、なぜ戦前のドイツ軍のAFVとトラックはガソリン・エンジンにこだわったのか? →159ページ以降をごらんください。以前わたしは、精密な航空エンジンを量産できるメーカーに余計な仕事をさせないためだろうと想像しましたが、間違っていました。
四、B-29の空襲を阻止する簡単な方法はあったか? →310ページ以降をごらんください。マリアナのB-29だけじゃない。日本が戦前から航空機や潜水艦による機雷散布戦術をしっかり研究していたなら、浜松市や水戸市や室蘭市を沖合いから艦砲射撃されるなどといった事態はまず絶対になかったでしょう。特攻機を出す必要もありませんでした。敵軍の泊地に機雷を投下して帰ってくる戦法に資源を集中した方が、はるかに効率的に米軍の動きは止められたからです。機雷や衝撃爆雷の研究が遅かったことが、幕末史もゆがめました。南北戦争時代の技術を再現できていただけでも、嘉永年間に「黒船」が品川沖まで到達する事態は拒止できました。江戸市街を砲撃圏外にでき、不平等条約を呑む必要もなかったのです。もちろん「薩英戦争」で鹿児島市が艦砲射撃されることもなければ、四ヵ国連合艦隊が下関海峡を横行することだって不可能だったでしょう。機雷は、歴史を大きく変えられる技術だったのです。その認識を、本書によってあらたにしてください。