浜松に投下されたという「缶詰爆弾」についてのリサーチ報告。

 3月26日の会場で「罐詰爆弾」について訊ねられましたが、遺憾ながら「わかりません」としかお答えができませんでした。
 わたしがその名称からすぐ連想をいたしましたのは、一種の謀略兵器です。つまりわざと食品の缶詰に似せた物を落としておいて、それを拾う人間を殺傷しようという、悪意に満ちた兵器。1980年代のアフガニスタンの山村に、ソ連軍がヘリコプターからバラ撒いたとされる「玩具の人形爆弾」「文房具爆弾」みたいなものですね(子供が拾うと爆発する)。
 本当に米軍がそれに類するものを第二次大戦中に敵国に落としたのか? 世界に公表されたら米国の名誉が傷付くだけと予見できるのに? ……すいません。わたしの先入観のフィルターがそこで働いてしまいました。
 じつはそういった過去のさまざまな謀略兵器については、今日ではインターネットの普及のおかげもありまして、ほとんど、史実は白日のもとに曝されているのであります。まして、現物を落としたのであれば、何十年も隠し通し続けることは不可能であろうと思われます。
 もし「かんづめ爆弾」が米国内で製造されたのであれば、大概、資料がヒットするはずだ。
 そこで「tin can」(ブリキ罐)をキーワードに挿入して、英文ネットをあれこれ捜索してみましたところ、ある事実を承知することができました。
 バタフライ・ボム(蝶々爆弾)と綽名された対人用クラスター爆弾があり、それを第二次大戦末期に米海軍が使っているようなのです。この外見が、罐詰に見えなくもありません。
 蝶々爆弾の開発者はドイツで、1940年に英本土を空爆するときに「SD2」という子弾を集束投下したのが初使用です。
 子弾は1個が2kg。集束コンテナ内に6個から108個を詰め、コンテナごと投下し、それが空中でバラけました。
 子弾SD2は、長さ8センチのシリンダー状で、外殻は鋳鉄製。
 落下中に展開翼が反時計廻りに風圧でスピンし、10回転すると信管がアームド状態になる。
 缶形の爆弾本体には225gのTNTが充填されていました。
 信管には三種類あって、アームド状態になってから5秒で空中炸裂するか、もしくは着地のインパクトで起爆するもの(どちらかを選ぶスイッチ式)。
 最大30分までセットできる長延時時計信管。
 そして、着地後、動かそうとすると起爆するブービートラップ信管。
 なんでそんなものを考えたのかというと、敵の航空基地にバラ撒いて、その基地機能をできるだけ長時間、妨害してやるためのようです。
 翼が錆びて失われると、ブリキの缶詰のようにも見えたそうです。
 英国ではこの子弾による被害を報道統制しました。ドイツに、有効な兵器だと知らせないためです。
 しかし英国人は、回収した不発弾のリバースエンジニアリング(分解模倣)を早くも1940年から実施していたようです。
 おそらくそれが、真珠湾攻撃後に英国に進出してきた米軍関係者から着目され、技術情報が譲渡されたのでしょう。あるいは北アフリカで米軍も現物を取得したかもしれません。
 地中海のマルタ島ではこの不発弾を金槌代わりにしていた男が1981に爆死しているそうです。
 そしてウィキペディアによれば、米軍もこのドイツ製のSD2をコピーし、第二次大戦中に使いました。それを「M83」子弾と呼ぶそうです。
 そこで、米海軍が1944年5月31日に制作したマニュアル『NAVORD OCL AV14-44』を見てみましょう。ネット上にあります。
 M83子弾は、重さ4ポンドである。これを、100ポンドクラスター爆弾、または、500ポンドクラスター爆弾の殻に詰め込んで投下する。
 子弾にはTNTが7オンス入っている。
 径は3インチ。長さは3.25インチである。
 100ポンドクラスターには子弾が24発入る。
 500ポンドクラスターには子弾が90発入る。
 信管には、三種類ある。
 クラスターから放出されたあと2秒~2.2秒で空中爆発するか、さもなくば着発させる、切り替え信管。
 クラスターから放出されたあと3分~30分で爆発する時限信管。
 着地したところでアーミング状態になり、それから誰かが動かせば起爆するブービートラップ信管。これはM131信管である。
 この三種類の信管をまぜこぜに装着して投下することを推奨する。
 ただし、エアバースト・モードは使わぬこと。
 また、味方地上兵が進出する予定地へはM131信管をつけては投下しないこと。
 投下高度は、5000フィートより低空、2000フィートより高空とせよ。5000フィートならばクラスターはリリース後8秒でばらけるように。2000フィートならば、リリース後5秒でばらけるようにする。
 このマニュアルの添付写真は1944年1月に撮られています。米海軍は昭和19年6月以降ならいつでもこの「罐詰爆弾」を対日戦で使用できたと考えられるでしょう。
 昭和20年に浜松の陸軍飛行隊の飛行場を狙ってM83を落としたのだとすれば、納得もできます。
 どうやら、謀略兵器ではなく、当時としては合法的な爆弾のひとつであった――と、考えていいのではないでしょうか。
 おかげさまで、またひとつ勉強させていただきました。