ポケモンGOの三次元情報融合技術は、巨大工事現場の諸管理を劇的に合理化するので、次の米空母建造で試みられる由。

 2016-7-18記事「How About a Coast Guard Sink-Ex?」。
  米海軍の年次演習に「Sink-Ex」という廃船の実弾撃沈テストがあるのだが、今回、コーストガード船の将来の固定武装についてについてもデータを得たいんだと。
 つまりLCSで採用されているボフォースの57ミリ無人砲塔はコーストガード船の武装としても適当か、という。
 港、水路、沿岸のセキュリティを総称してPWCSという。コーストガードのミッションである。
 PWCSをコーストガードがキッチリと実践するためには、相手船がいかに巨大でも、その行き脚を強制的に砲撃によって止められなくてはならない。
 今回、空荷で9000トン、満載で1万8500トン、長さは176mの軍用貨物船が2隻、実射撃沈される。1960年代後半にはまだ強力な商船向きの舶用ディーゼルがなかった。そういう時代の古船。
 いま、米コーストガードの武器選択には、12.7ミリ、25ミリ、57ミリ、76ミリがある。
 もし57ミリでも76ミリの仕事ができるのだと実験で判明すれば、今後、コーストガード船は57ミリ自動砲を積む。できないと判明すれば、76ミリ自動砲がこれからも残されるだけでなく、他の非砲熕兵装の追加も考えねばならない。
 退役船に対する実弾射撃テストでは、いちど弾薬を撃ち込んだターゲットシップ内にはもう人間は立ち入らない。危ないので。そのかわりにカメラとセンサーを残置して、リアルタイムのデータを取るようにしている。
 圧力センサーがボイラーやタービンや液圧操舵系にとりつけられ、被弾破孔によって減圧が生じたかどうかをモニターする。その減圧が認められぬ限り、試験砲弾は不審船の行き脚を止める力が足りないということである。
 わたし(原記者)の個人的な信念だが、コーストガード船は、不審船からは4000ヤード以上、離れているべきである(旧ソ連製の両用火砲や、対戦車ミサイルを隠して装備しているおそれがあるので)。しかし25ミリ機関砲は、3000ヤードまで接近しないと敵船制圧に有効ではない。
 砲側の即応弾薬数は、25ミリなら150発、57ミリなら100発、76ミリなら80発というところだろう。それ以内の弾薬消費で、大型船の行き脚を止められるか?
 われわれコーストガードは、127ミリ砲や、「グリフィン」のような軽量汎用ミサイル、はたまた、「軽量の魚雷」を装備することも、検討すべきかもしれない。実験する価値はある。
 というのは、敵船が巨大であった場合、機関や舵を破壊して停船させるためには、水線下に被弾させる必要があるのだが、それは中口径砲の射撃によっては無理なので、魚雷等の他の手段によるしかないはずだから。
 ※なぜその前に「91式徹甲弾」……否、無炸填の平頭ソリッド弾を試してみないのか? ちなみに英国とアイスランドの間の「鱈戦争」では、40ミリ・ボフォースの炸薬を抜いた特注弾で船体射撃が加えられた実例あり。
 次。
 Eric Schlosser記者による2016-7-17記事「The H-Bombs in Turkey」。
  トルコのインシルリク飛行場にはB-61水爆が約50発貯蔵されている。それはNATO用ストックの25%以上にあたるという。
 イールドは可変式で、0.3キロトンから70キロトンまで変えられる。
 そもそもインシルリク基地は、米陸軍の工兵隊がWWII前後に設定してやったものだ。
 トルコが1952にNATOに加盟すると、この基地は途方も無く重要になった。
 そこから1時間飛行すれば、もうソ連領空なのだ。だから、爆撃機も、空中タンカーも、U-2も、そこに並べられた。※核爆撃機が敵領空へ突入する直前のタイミングで空中タンカーから満タンにしてもらう。だからロッド式で急速給油できる空中タンカーをカーティス・ルメイが開発させた。米海軍はむしろ着艦直前の空中給油が死活問題なので、授油機の選択幅が広がるプローブ・アンド・ドローグ式にこだわり続ける。こちらは急速満タンは不可能だが、戦闘機同士でのバディ給油や、輸送機吊下ポッドから回転翼機に対する給油は、この方法しかない。そもそも日本の戦闘機は空自の洋上制空第一主義からして、後者の方式にするべきだったはずだよね。
 1960年代なかば、米国は7000発以上の各種戦術核兵器を西欧に置いた。ギリシャにも置いた。
 これら核兵器は米軍が現地で管理していたが、対ソ有事の際には、NATO同盟諸国に使わせるためにすぐに手渡されることになっていた。
 しかし1960年にその実態を調査した米連邦上院の訪欧議員団はショックを受けた。事実上、平時から、それら核爆弾/戦術核ミサイルが、西ドイツ軍、イタリア軍を含む、非米軍によって、取り扱われていたからだ。アラートに応ずる使用訓練を繰り返していたから、それは当然のなりゆきであった。
 上院議員団の秘密報告書は、これら核爆弾の警備者は、現地国政府に忠誠であって、米国には忠誠でないのが自然だ、と警告した。
  ※核爆弾の「コア」「ブースター・ガス」等は、さらに別な場所に保管されているはずだ。それは米兵が直接警備しているはずなので、この記事は杞憂を煽るもののように思われる。
 1962のキューバ危機でマクナマラ国防長官が焦ったのは、トルコが対ソ戦にやる気満々となってしまって、勝手に国内貯蔵分の核兵器を先制使用せぬかということだった。そこでマクナマラは現地の米軍管理部隊に、トルコから持ち出し要求があったら徹底サボタージュせよと電報した。
 核爆弾の中にはPALスイッチがついている。パーミッシヴ・アクション・リンクといい、コード番号を入力しないと動作しない。
 しかし高度な技術があればこれは迂回できる。
 だから1974にトルコとギリシャが戦争しそうになったとき、米国はギリシャからは全部の核兵器を引き揚げ、トルコの核爆弾については「アーミング・ワイヤー」を切断して、使えないようにした。
 ブッシュ父大統領とブッシュ子大統領は、欧州からどんどん核兵器を撤収させてくれた功労者である。いまや欧州NATOには、180発のB-61があるだけ。他の戦術核兵器は、1発もない。
 ※この流れに反対し、核トマホークを米SSN内に常置してくれと懇請したのが日本の外務省(と日本の軽佻浮薄保守論人)だった。空自基地内にB-61が無いのならばそんなものは「核の傘」ではないという常識を、彼らは承認したがらない。防衛省は、B-61の運用を将来可能にするためには、どうしてもF-35を買うしかなかった。F-35は、勝手な出撃ができないように、ミッションコンピュータをペンタゴンからいつでも遠隔操作し得るので、米国としてはとても安心できるのだ。B-61貯蔵地としては三沢基地周辺しかないだろう。
 欧州におけるB-61の貯蔵場所は、現在は、インシルリク、ドイツの基地、オランダの基地、ベルギーの基地、そしてイタリアである。
 これを置くことによって、ドイツやイタリアやオランダやベルギーが、独自核武装する気をなくすることができるのである。
 B-61の貯蔵場所は、すべて、現地軍によって警備されている。※さもなくば「核の傘」ではないから。
 もちろん貯蔵場所は地下である。
 2010年、反核活動家が、ベルギーのクレイン・ブロゲル空軍基地に侵入し、B-61貯蔵場所〔の地上部分?〕に到達し、反核ステッカーを貼って、その模様をユーチューブにUpした。この動画は、かけつけたベルギー兵の小銃に弾倉が付いていない実態も示した。
 インシルリクはシリア国境から70kmしか離れていない。2015-10から米軍はこの基地から対ISの航空作戦を展開中である。※クーデター騒ぎいらい停電が連続3日以上続いているという。自家発電機で対応中。
 クーデター騒ぎの数ヶ月前、インシルリク基地の米軍家族はペンタゴンの指図で全員退去していた。いま、基地には米軍人2000が所在する。
 次。
 Ece Toksabay and Paul Taylor記者による2016-7-16記事「Turkey’s bungled putsch: a strangely 20th century coup」。
  トルコ陸軍の将軍たちは今回のプッチを時間をかけて準備していた。ただし手法は70年代の古臭いものだった。
 1973年のチリや、1980年のトルコならうまくいったろう。だが今は2016年なのだ。
 金曜夜、エルドアンがアンカラを出て週末保養地へ向かった隙に蹶起。
 空港を制圧。ポスポラス海峡大橋を封鎖。戦車を国会議事堂とアンカラへ送り出し、幹線道路の結節点をおさえた。
 昔だったら国営放送局を占拠して、市民の外出禁止令を布告すれば、クーデターは成功だった。
 ところが彼らは与党AK党の要人を逮捕できず、民放テレビ局の電波送出を止める方法がわからず、携帯電話サービスも止めさせず、SNSシャットダウンの措置も講じられなかった。首謀層は、メディアのことに通じていない、えらく気の利かない軍人たちだった。
 エルドアン大統領は、スマホの「フェイスタイム」というアプリを利用し、民法テレビ局の「CNNトルコ」から声明を発することができた。これで8000万国民にエルドアンのメッセージが届いた。
 エルドアンが宿泊した南西部のリゾート地マルマリスのホテル。ここではエルドアン派の警察部隊と叛乱軍の交戦があった。※パラミリタリーを強くして優遇しておく。これがクーデターを防ぐ要諦である。学びたい人は戦後のインド軍と警察軍について調べるとよい。最良の教材だ。
 叛乱第一報から20分以内に、首相のイルディリムは、軍の最高幹部は叛乱を支持していない事実を、ツイッターで拡散させた。
 顧みれば1517にマルチン・ルターは新メディアたる印刷媒体を使ってローマカトリックに反抗した。アヤトラ・ホメイニはパリからカセットテープをイランに運ばせて、イラン国内で彼の肉声によるアジ演説を流布させ、1979の革命に繋げた。メディアと連繋した者が、革命に勝利する。