一人旅に「つまらない旅」は無い。

 SEBASTIEN ROBLIN 記者による記事「The Legend of the Vietnam War’s Mystery Fighter Ace」。
  ベトナム空軍エース、グエン・トーム大佐は実在したのか?
 トーン大佐は13機の米軍機を撃墜したとされている。
 『チャックイエーガーのエアーコンバット』という昔のPCゲームに登場した唯一のベトナム人パイロットでもあった。
 ベトナム戦争での米人パイロットの最多エースは5機である。
 米軍の北爆は時間が読めた。対するベトナム空軍は、地上からのレーダー管制により、この上なく有利な待ち伏せ地点へ誘導されて待っていた。だから超音速のF-105ですら喰われた。
 米側はROEによって、目視できない未確認飛行機へのAAM発射を禁じられていた。
 ベトナム側の迎撃は、米攻撃機に爆弾をとっとと投棄させることになり、有効だった。
 トーン大佐を有名人にしたのは、NSAによるベトナム防空無線傍受である。
 傍受解析情報によって、ベトナム軍パイロットは、そのひとりひとりが、コールサイン、所属、階級、過去の戦歴まで、記録されていたという。
 トーンがエースであるという確認も、傍受解析記録によるものである。
 NSAは、トーンのミグ17がいつ出撃するか、第七空軍司令官に予告することができた。司令官はどうしても撃墜しなくてはと圧迫された。
 ミグ17はF-4よりずっと遅れた飛行機である。
 水平飛行ではマッハ1を出すこともできなかった。
 しかも、AAMも無し。37ミリ機関砲×1と、23ミリ×2門だけなのだ。
 また操縦系に油圧が使われていない。腕力だけで操縦せねばならないのだ。
 強みは、低速域での機動力にあった。
 F-4の携行したAAMは信頼性の劣ったものだった。ミグ17はしばしばそれをかわしてしまい、F-4の後ろを取る。F-4は高速離脱すれば助かるが、格闘戦に応ずれば、トーンに負けた。
 1972年、ラインバッカー作戦。6ヶ月連続の集中北爆だった。
 5月10日、11機の北ベトナム機と、4機のF-4が一度の空戦で撃墜された。
 海軍のカニンガム中尉はトップガンスクール出で、すでにベトナムで2機を撃墜していた。彼の操縦するF-4Jは、この日、まず1機のミグ17をサイドワインダーで落とした。
 そのとき彼のウイングマンは8機のミグ17と交戦していた。
 そこでカニンガムは僚機の後方についている複数のミグ17のさらに後方についたが、すぐサイドワインダーを発射すればシーカーがむしろ僚機F-4の強いツインエンジンの熱放射にひきつけられ、味方殺しになっちまうんじゃないかと懸念した。
 そこで僚機に対してボイスで「ブレーク」を命じ、サイドワインダーの軸線に敵機しかいなくなった瞬間にロックオンして、2機目を撃墜。
 カニンガムはここで帰投に決し、基地を目指す。
 すると単機のミグ17が向かってくるのが見えた。
 カニンガムはヘッドオンコースに乗せた。そのミグ17は先に機関砲を撃ってきた。
 当時のF-4には機関砲が搭載されていない。カニンガムは急上昇した。
 カニンガムは格闘旋回中に敵機にペイントされた番号「3020」を視認した。それはトーン大佐の乗機として周知であった。
 カニンガムのローリング・シザーズの動きにもミグは翻弄されなかった。
 急旋回を連続させたことで、重いF-4はしだいに、失速速度に近づいた。
 これはミグ17にやられるパターンである。後席のドリスコル中尉は、格闘をやめて高速離脱しろと叫んだがカニンガムは無視した。
 カニンガムはアフターバーナーに点火し、はるかに敵機に先行してから旋回し、2マイルの距離でふたたびヘッドオンに持ち込んだ。こんどはミグの方からは射撃できないアングルであった。※それはどんなアングルなのか、記事では不明である。
 ところがミグはまたしてもカニンガム機の後ろを取った。
 カニンガムはふたたびふりきって二度目の大旋回。こんどは、ミグが後ろにつこうという機動をしているさいちゅうに、カニンガムはエアブレーキを展開した。
 これにより、ファントムがミグのすぐ後ろをとった。
 ところが距離が近すぎてサイドワインダーをロックオンできない。
 ミグはロールを打って急降下。
 ミグが十分に地面の近くまで降下してしまえば、地面の熱が高いのでサイドワインダーのロックオンは難しくなる。しかしそうなる前にカニンガムはサイドワインダーを発射してミグに命中させた。ミグは地面に激突した。トーン大佐は脱出したようには見えなかった。
 その直後、SA-2地対空ミサイルがカニンガム機に命中した。カニンガムはなんとか海岸まで飛行し、そこでドリスコルとともにイジェクト。沿岸で味方にレスキューされた。
 すでに2機落としていたこの2名は、この日、3機を落としたので、ベトナム戦争における初エースとなった。
 その後、ドリスコルはトップガンの教官になった。
 カニンガムは加州議会の共和党の代議士になり15年勤めたが、2005年に汚職で収獄された。
 米空軍博物館に展示してあるミグ17Fは、エジプト空軍から寄付された機体を、トーン大佐乗機風に再塗装したものである。
 さて、ベトナム戦争が遠い過去となり、米越関係が好転すると、空戦史家があいついでハノイへ赴き、かつてのベトナム空軍パイロットたちにトーン大佐について尋ねて回った。
 ベトナム人たちは一様にとまどった。「ハア? 何……大佐? ……ですと?」
 トーン大佐などという人物はベトナム空軍内では誰にも知られていなかったのである。そんな軍人がいたという記録も、ひとっつもありはしなかった。
 そもそもトームとかトーンとか、そんな苗字はベトナム人にはないのである。
 ある人は憶測する。NSAの無能な傍受者・解析者は「ツァン」とか「トン」という名を勝手に英語化していたんじゃないだろうか、と。
 さらに、ほとんどのベトナム人エースはミグ21を操縦していたことや、いちどミグ21に乗ったパイロットがまたミグ17にもどるなんてことはないはずであることも分かってきた。
 ベトナム側には、彼らの最高のエースの存在を秘密にする理由があるだろうか?
 疑われるのは、朝鮮戦争時代にソ連人パイロットの存在が秘密扱いだったように、じつはトーンがソ連人だったから、ベトナムとしては隠す必要があるんじゃないか……ということ。
 ところがこれも否定される。いまだにロシア内からそれを証言する者がひとりもいないことによって。
 ジェット時代に敵機と空戦中に敵パトロットの髪の色や目の色が分かるもんじゃない。そんなことを回想録で書いている元パイロットもいるが……。
 ロシア人でベトナムに派遣されて6機の米機を落とした指揮官は、ちゃんと戦後に明らかになっている。いまさら隠す必要などないのだ。ただしSAM基地勤務であった。
 第二の仮説。トーン大佐は二人の実在パイロットの合成ではないか。ひとりはディン・トン。もうひとりは、ダン・ゴック・グ。
 ただ、どちらもミグ21乗りであった。そして1972-5-10の空戦にはどちらも参加してない。
 三番目の仮説。シギント係が、6機撃墜エースのレ・タン・ダオのコールサインを、人名と勘違いしたのではないかというもの。しかし彼もミグ21乗りであり、かつまた、その日には撃墜されていない。
 情報公開請求で知られたのだが、NSAはこうも傍受しているという。〈空戦が終わったとき、同志トーンは、最前線の陸上からミグ機を米機に対して誘導する、グラウンド・コントローラーに昇進していた〉。
 それじゃカニンガムが交戦したと主張している相手は誰なんだ?
 ベトナム空軍ではこう言っている。グエン・ヴァン・トーというパイロットだ。しかし彼は飛行機から脱出して生還していると。
 以下、伝説の元になったと思しい三人について紹介する。
 機体番号4326のミグ21に乗ったグエン・ヴァン・コクは、ベトナム空軍最大のエースで、ミグ21によって米機を9機落としている。しかし機体にはマークが13。
 じつはベトナム空軍の慣行では、機体の撃墜マークは、その機を操縦した過去すべてのパイロットの戦果が累計されている数なのである。つまり1人でそれだけ落としたというわけではない。
 1966年に26歳のグエンヴァンコクは、他の数十人のベトナム人パイロットとともにソ連でミグ21の操縦訓練を受けた。しかし1967-1-2にいきなり撃墜されてしまった。それでも4-30には太陽を背にした攻撃でF-105を落とす。初撃墜。1969-12にはさらに8機を落とした。いずれもソ連製の赤外線誘導式R-3アトールAAMを用いた。
 9機のうち2機はRPVであった。残り7機のうち1機については米側史料で確認できない。
 しかし6機撃墜は米側からも認められているので、文句なしにベトナム空軍のトップエース。
 グエンバンコクは空軍教官にされて次の世代を育成した。その弟子の中から1972年のエースが出ている。ひとりは、6機撃墜のグエンドクソトだ。
 また、グエンヴァンバイはミグ17を操縦し、7機撃墜を記録している。
 そのうち1機は朝鮮戦争のエースであったケイスラー少佐の機であり、また、F-4より機動性が高いF-8クルセダーも2機含まれている。
 グエンヴァンバイとその僚機はまた、米艦『オクラホマシティ』と『ハイビー』に爆弾を命中させており、これはWWII後の米海軍史で特筆される。
 これら3名はベトナム戦争を生き残っている。
 トータルではベトナム空軍には16人ものエースが生まれている。
 ※一連の調査は何を教えてくれたか。米戦闘機パイロットの自己申告にはおそれいった手のこんだ作り話が平然と混ざるのだということ。彼らは面白半分に神秘的な敵エースを無から捏造し、勝手にドラマを盛り上げ、その登場人物になろうとすること。それに地上の傍受部隊までが加担をすること。どうやらガンカメラ映像以外は、何も信用できないようだ。
 次。
 David Szondy 記者による2016-9-17記事「US Army developing first new hand grenade in 40 years」。
   40年ぶりに米陸軍が新型手榴弾を採用する。
 「ET-MP」という。破片を発生させない爆発と、破片を発生させる爆発とに、「ひねりスイッチ」によって簡単に切り換えることができる。
 ※写真を見ると、いちおう、リングのついたピンを引き抜くようにはなっているように見える。
 破片を発生させない爆発は、野外での味方の突撃局面で用いるのに便利。しかし陣地での防禦局面や、閉所に投げ込む用途では、破片をおもいきり発生させてやりたい。
 従来はこの二つの用途のために、軽量の「攻撃型手榴弾」と、防禦用の重手榴弾が存在した。こんかい米軍はこれを1つにまとめた。
 1975年いらい、米陸軍には、1種類の殺傷性手榴弾しかない。それはM67といい、破片が飛ぶタイプである。
 じつはもうひとつ、Mk3A2という、破片が飛ばないコンカッション手榴弾(破片こそ飛ばないが、至近では殺傷威力あり)もあったのだが、これはアスベスト被害があるというので、廃止されてしまっている。
 開発と評価確定にこれまで5年をかけた。
 ET-MPはまた、米軍が採用する最初の、「左右の利き手を問わない」投法を可能とした手榴弾である。
 従来の手榴弾は、左利きの者も、右手で投げる必要があったのだ。
 ※フライオフレバーを親指で押さえるのは危険だからだろう。ET-MPにはフライオフレバーが無い。
 ET-MPは、爆発までの秒時は電子制御されており、その製品誤差はミリセコレベルである。そして、ひねりスイッチを「アームド」にしない限りは、ぜったいに爆発しない安全設計。※おそらくピンが抜けない。また、無理に抜いても起爆しない。
 この新型手榴弾は、これから5年で全陸軍に普及させる。
 ※フライオフレバーの廃止、そして「電池」への依存は、どちらも問題あり杉内? むしろフライオフレバーを親指で握っても安全なデザインを工夫し、アスベストを用いないコンカッション手榴弾を開発する方が先だろ?