秋まつりには スーパーヒャッハー音頭

 Kathryn Tolbert記者による2016-9-23記事「Japanese war brides married the enemy, then created uniquely American lives」。
 WWII直後の占領期間中に進駐軍将兵と婚姻して渡米した日本人妻は4万5000人くらいいるらしい。
 『七転び八起き』というドキュメンタリー・フィルムをつくったボストン在住の女性も、そうした日本人妻ヤマグチ・キミコの子。
 キミコが婚姻した米兵はイタリア系で、NY州北部の養鶏場から出征して日本占領軍に加わっていた。
 その娘。すでに子持ちになっていたが、20年前に気付いた。実母の人生のタイムラインを自分はなんにも知らないと。
 そこで母校ヴァッサー大の支援を得て、全米に存命の六十数名の日本人妻に取材し、オーラルヒストリーを残してやろうと考えた。
 ほとんどの人はもう80代から90代なので、今証言をとっておかないと、史料として埋もれてしまうだろう。
 ヤマグチ・キミコは、帝国陸軍将校〔おそらく予備大佐以上〕の娘だった。育ちは半島。しかし父が病死したので、戦中に日本に戻っていた。生活費を稼ぐために東京のデパートに勤務していて、路面電車の中で声をかけられた。
 ※この記事では数例のサンプルしか紹介されていないので統計もなにもないわけだが、それでも見当のつく共通点は、まず、敗戦時点で実父が死亡していた家庭に所属していたこと。かつまた、日本人が最もよく映画を観ていた1950年から53年にかけて求婚されたこと。そしてまた、兄弟姉妹が複数あって、家計の制約から男子1名以外は高等教育を受けずに就労しなければならなかったというケース。
 米兵にとっても日本人妻の連れ帰りは高いハードルだった。1924年の差別的移民法が生きており、アジア人は米国に移民できなかったのだ。
 しかし1945年以降、複数の法律が整備されて、書類さえ完全なものを提出するなら、連れ帰りは可能になった。ただしその手続きは面倒で、若い兵士に途中で翻意を促すように仕向けられていた。
 1952の「マクレラン-ウォルター法」は画期を為す。※おかげで1953以降の婚姻が増えたわけである。
 上官たちはそれでも部下の兵に、それを勧めなかった。連邦法ではOKとなっても、州法ではダメということがあり得るからだ。
 だいたい米国の半数の州では、まだ人種間の雑婚を、1952年でも、法律で禁じていた。
 連邦最高裁が、そのような州法は違憲であるとの判断判例をつくったのは、じつに1967年である(ラヴィング対ヴァジニア州訴訟)。
 当事者の男たちは、諦めず、地元選出議員たちに手紙を書くことで、事態を動かした。
 たとえばキミコの夫は東ボストンから出征してきていて20歳になったばかりだったが、地元マサチューセッツ選出のJ・F・ケネディ議員に手紙を書き、その結果、ケネディが「キミコ・ヤマグチ救済法案」を1950-5-18に成立させてくれたという。
 黒人兵と婚姻したケースでは、汽車でアトランタに着いたとたん、妻は白人用ホテル、亭主は黒人用ホテルへと隔離されてしまったそうである。
 日本赤十字社は、米兵と婚約した女性のために「嫁入り学校」を開催していて、ケーキの焼き方その他一切を事前に指導してくれた。
 インタビューした60人の誰も、二度と日本に戻れるとは考えたことがなかったという。
 1960年代のベトナム戦争中、本国からの出征将兵がメリーランド州アバディーン基地近くに集結した。偶然に、そこにはたくさんの日本人妻も集まった。彼女らは「会」をつくった。
 いまでも12人くらいが毎月集まって会食している。※60年代にまだ現役ということは、相当の下士官か将校。
 ディープな日系コミュニティのある西海岸でも、これら戦後渡りの一世の子たちは、じぶんたちのルーツが日本にあるとは少しも考えていない。母親は、そのように徹底して教育したのだ。
 誰も、わが子に日本語を教えようとした者もいなかった。