インドのラファール選択の決め手は、核爆弾投下能力だった。

 ストラテジーペイジの2016-9-28記事。
  じつはソ連=ロシアの最大のダメ兵器が、ピストル。
 ようやく2015前半に「PL-14」という新型を公表し、2016になって「PL-15」に進化させてきた。
 実包もようやく9mmパラベラムにした。メーカーは国営カラシニコフ社。
 PL-14は、スチール製なので0.8kgと重い。バレルは5インチ。マガジンは15発。
 バレルの下にレールをしつらえてある。
 そのPL-14のユーザー反応を反映してPL-15を出した。アルミ合金とポリマーで軽量化。両手利き可。
 やはりグロックがベンチマークになっている。
 8連発のマカロフPM拳銃は1950年代に出た。タマは9ミリながらパラベラムとは違う薬莢のものだった。
 ついで2003にMP-443が出た。
 このMP-443から、ロシアも9mmパラベラムに切り換えたのである。
 ただし寸法はパラベラムと同じながら特殊な徹甲弾である「7N21」という強装実包も用意。
 MP-443 は590グラム。4.4インチバレル。マガジン17発。
 要するに西側製品よりもバレルを短くすることで軽量化を図った。
 1951のマカロフで7.62ミリを9ミリ化したのは WWIIで鹵獲したドイツ拳銃に惚れたから。ところが愚かにも、パラベラムにしないで、ロシア独自の実包を制定してしまった。マカロフ初期型の94ミリのバレルは、処刑用には十分だが、それ以上の用途だと、怪しくなる。
 次。
 Craig Beutel記者による2016-9-28記事「The Conduct Of War, 1789-1961」。
  記者は豪州の軍人学者である。J.F.C.フラー著の『The Conduct Of War, 1789-1961: A Study Of The Impact Of The French, Industrial, and Russian Revolutions on War and Its Conduct』について解説する。
 本作はフラー将軍の最晩年の戦史総括であり、未来展望の書であった。
 フラーは、兵器は常に戦術に新しい形を与えると書いている。凡人読者はここにばかり注目する。
 違うのだ。フラーはもっと大事なことを言っている。それは、兵器のタイプが問題なのではなく、それをどう使うかを左右する「使用者の狙い」が肝腎だということ。
 フラーはクラウゼヴィッツの所論に刺激され、1789いらい西洋の政治と社会に革命が起きたから、それが戦争の性格を変え続けているのだと見た。
 フラーは標題よりも前の時代から説き起こす。まず15世紀は傭兵頼みだった。しかし17世紀と18世紀は常備軍が戦争を変えたと。
 30年戦争後の大著は、ホッブズの『リバイアサン』と、ヴァッテルの『諸国民の法』である。約150年間の、欧州体力回復期に。
 ところがそこに革命的な書籍が投ぜられる。ルソーの『社会契約論』だ。
 これ以降、戦争はプロ常備軍から素人大衆軍の問題に。
 戦争が大衆化すると、プロパガンダが戦争に燃料を与える。それで戦争が政府の一存では終わらせ得なくなった、とフラーは言う。
 それは、戦争が政治的な目的を喪うことである、とフラーは考えた。
 ※思慮が浅い。大衆が政治主体なのだから、それはまさしく政治的なのだ。
 フラーはクラウゼヴィッツに反発して言う。戦争の究極目的は破壊ではなく、平和である、と。
 フラーは「べき」論を展開する。平和が政策の中心発想でなくてはならず、したがって勝利とは平和の達成に近づいたときのことを言うんだと。
 ※フラーはキリスト教から哲学に入っているので、こういうことになる。人間の性善説に、アプリオリに立つ。
 モンテスキューを引用しながらフラーは説く。
 国家は戦争中も、それぞれの真の国益は傷つけないものだ。
 平和とは、〔ドイツ人が考えるように〕戦争と戦争の間のつかのまの停戦状態ではない。それ以上のものだからだ。
 次にマルクスとエンゲルスの著作が戦争を変えたという。
 マルクス主義によれば、戦争と革命は互換である。国家間の戦争や、帝国主義的抗争を、そのまま、資本主義国の内戦、そして革命へ転化せしめるべし。
 フラーいわく。いまや平和は政府によってはもたらされず、人民によってもたらされる。平和もまた革命によってつくられねばならないはずだ。
 フラーいわく。WWIは君主間の政治的戦争ではなかった。貿易によって、世界とダイレクトにつながった人民が、その生存のために、相互に死闘した。経済的戦争だった。
 ※いや経済活動も政治の一部なのだと考えれば、やっぱり政治戦争だろ?
 ドイツも英国も間違ってはいなかった。政府や君主の特別な強欲が大戦をひきおこしたのではない。大衆が自然に世界大戦をひきおこしたのだ。それが、工業革命後の戦争の普通の姿なのだ。
 記者いわく、もしフラーのいうようにWWIが非政治的目的のために戦われたのだとしたら、最終的にWWIは、英国の非軍事的な、経済ブロケイド、およびプロパガンダによった勝利したわけである。
 ※この記者も分かっていない。経済も政治の部分集合なのだということが。最初に政治の定義をしないから話がどこまで行っても迷走する。
 非政治的に戦争するということは、妥協は排するので、敵政体を除去することにまで至るしかない。
 WWIでは政治葛藤は残された。ドイツの経済葛藤も、ドイツ流の戦争世界観も、そのまま残された。
 ヒトラーいわく。戦争が永続することは決してない。平和が戦争の永続であることもない。
 フラーいわく、WWIIは、理想信条の戦いであったと。そしてWWII後もその構造は続いていると。ある理想信条が優っているとして人民によって受け入れられる。その結果、そうでない理想信条は消去されてしまう。そんな戦いなのである。
 英国式民主主義社会では、戦争と平和が概念上、切り離される。
 国家社会主義のドイツでは、平和は戦争のための時間稼ぎである。
 ソ連流マルクス主義では、平和は戦争の別形態にすぎない。平時がそのまま戦時なのだ。
 フラーはFDRの無条件降伏要求宣言を とても残念だと嘆いた。
 フラーいわく。WWIの軍人たちはまったく農業文化段階時代の頭で参戦した。前装単発銃時代の頭しかプロ軍人たちは持っていなかった。だから塹壕戦でメガデスが生じた。そのうちに手探りで「工業化時代の戦争」が掴まれた。
 記者いわく。いまわれわれは情報時代の戦争を手探りしている。
 ※記者は示唆する。ところがプロ軍人たちは、産業革命段階時代の頭で参戦しようとしているのだと。
 最晩年のフラーは、階級間の闘争などそのうちに問題ではなくなると見た。それよりも、年寄りのエスタブリッシュ世代と、「あたらしい社会」との葛藤に注目していた。
 フラーは83歳でこの本を書いたのである。
 ※やはりフラーの無音爆撃機には、青木光線しかないのか? 戦前の日本のIF小説にまで影響を与えた稀有な英軍人がキューバ危機の頃まで生きていた。
 次。
 並木書房さんから、上田篤盛氏著『中国戦略“悪”の教科書』が刊行された。メルマガの「軍事情報」の連載企画が活字化されたものだという。
 「明末~清初」の作とされるがあるいは清末の作かもしれない『三十六計』が、今日ただいまの中共の対外施策の根底にあるという。
 儒教圏人の正体が大衆レベルの日本人にまで察せられつつある目下の時勢に投じた好企画であるとお見受けした。解説書として、また中共がこれまで仕掛けてきた反日クロノロジーの資料集としても、とても充実しており、誰でも一読すれば裨益され、手元に置く価値があろう。
 ところで「三十六計」というシナ兵書のおもしろさは、それが政治や軍事のマニュアルというよりは、すでにシナ人たちが日常的にあらゆるレベルで実践しているところのビヘイビアを短い言葉でまとめてくれていることにある。「三十六計」というテキストが先にできて、それを学んだ者が現代の術策を案出しているのではない。その逆なのだ。およそ兵書の類など読んだこともないというシナ人でも、昔から息でもするようにこうした術策をナチュラルに繰り出すことができるのである。よってわれわれにとり、儒教圏人とはどういう連中なのかを、言語表現で意識しておくために、「三十六計」の解説書は、大いに役立つわけだ。
 ひとつ注意を喚起すると、外国を「中国」と呼んでいる時点ですでに日本人は敵の術中にハマり「敗戦」しているのである。江戸時代のインテリはそこは分かっていた。大正時代以降の日本の役人には、そこからしてもう分からなくなった。日本人の「ロゴス」理解力のレベルは、江戸時代よりもマシになったとは言えないのである。