土壇場で1割負けさせるのはインド人の常套値切り術。

 David Hambling記者による2016-11-5記事「Drones Fight Back Against Laser Weapons」。
   実験でレーザーでドローンを撃墜したのは1973が最初。
 『ポンセ』にレーザー兵器LaWSが搭載されたのは2014のこと。
 対ドローン用のレーザーは、イスラエルでも開発中。
 果たしてドローンはレーザーから身を守れるか?
 鏡を使ったらどうか。
 問題は、鏡の反射率は決して100%ではないので、ミラーは一定率で熱を吸収してしまう。それによってミラーの損壊が起きる。
 そこで、X線でも反射できるブラッグ(Bragg)式の断熱ミラーの利用ですよ。
 微細なスペースが設けられているため互いに熱を伝えない、そういう多層構造によって、エネルギーを反射する。
 この構造を使うと、ある特定波長のレーザーに限れば、99.99%の反射率を実現できる。
 全波長のレーザーを断熱的に跳ね返せるような構造は、実現は至難である。
 しかし現用になっている兵器級レーザーの波長はそんなに広帯域ではない。だからなんとかなる。
 これから研究が進めば、敵のレーザー波長をつきとめた後から、戦場にて、自軍のドローンに最適のブラッグ・ミラー層をスプレー塗布できるようにもなるであろう。
 ナノ粒子の開発が、これを可能にしてくれる。
 米海軍研究所のONRでは、鏡の他にも、レーザーを受けると塗料が蒸散することによってその熱エネルギーを奪ってしまうというしくみでの防護も考えている。
 微細な空隙を設けた多層状の機体外皮材も研究されている。これは鏡のようにレーザーを反射はしない。そのかわり、最上皮層で受けた熱がスペース層で次々と断熱されることにより、最下皮層まで熱が伝わる時間を稼いで、バイタル・パーツを防護してくれる。
 ボーイング社の対ドローン用レーザーは、撃墜までに15秒もの照射が必要である。
 さすれば、もし自爆型ドローンが2マイル先から時速120マイルで飛来するなら、自衛する軍艦には迎撃交戦時間は1分間しかない。
 ということは、敵がもし5機以上のスウォームで突撃してくれば、わが軍艦の1基のレーザー高角砲はアウトナンバーされてしまう。
 今日では、同時30機のドローン・スウォーム運用が可能である。
 レーザー光は、ミスト状の粒子雲の介在によっても、散乱・減衰を余儀なくされる。 ※第一波のドローンが空中で自爆して煙幕を展張し、その雲の間から第二波の爆装ドローンがスウォームで突っ込めばよいのか。
 ONRでは、遠い将来の目標として、光をねじまげてしまう「メタ物質」の開発も狙っている。
 ※空間をねじまげればいいんじゃね?
 米海軍と契約しているベンチャー企業アヅィスは、無人機に搭載可能な、レーザー発射源を逆探知できるステレオ式センサー「ヘリオス」を開発中だ。敵のレーザー砲の破壊力に耐えてその発射源を瞬時に標定するや、即座に、その発射源に対して無人機の側から出力の弱いレーザー光を照射してやる。敵のレーザー砲の照準器は、幻惑されて目標を見失う。
 次。
 Matt Schudel記者による2016-11-6記事「Gene R. La Rocque, Navy admiral who became Pentagon critic, dies at 98」。
  「ラロック証言」で知られた退役海軍少将ジーン・ロバート・ラ・ロックが98歳で死去。10-31に。腎臓疾患で。
 ラロックの初任は1940年のパールハーバーだったので、日本軍機による空襲も見ている。
 1960年代に統合幕僚本部の戦略プランナーになった。しかし68年にインドシナの前線を視察したことで、彼は政府に対する批判者に転向した。
 なぜ米国がベトナムに関与しているのか、そしてまた、われわれはインドシナで一体何を達成したいのか、さっぱりわからなかった。
 ラロックの昇進は止まった。1972年に少将で退役した彼は、米国初の、退役将校たちで構成する、政府政策に翼賛的ではないスタンスの独立系国防シンクタンクを組織した。CDI(国防情報センター)といった。
 CDIは、政府や、軍需産業からの資金提供をすべて謝絶しながら、三十年以上、活動した。
 CDIが発行したニューズレターの『ディフェンス・モニター』は広く読まれた。ラロックらはそこで、ペンタゴンの兵器開発プログラムや調達中の兵器のどれが「無駄」なものであるか、忌憚なく指摘した。
 ラロックの考えでは、政府と軍がみずから兵器を開発するより、民間兵器メーカーに外注した方が、よいものが安くできる。
 こうした彼の所見は連邦議会内のリベラル派議員たちに支持された。
 ラロックは東西両陣営の全面核戦争を心配していた。
 〈敵はソ連ではなくて核戦争である〉と発言していた。
 CDIは、米ソが保有している核弾頭の総数はいまや5万発である、と推定して公表した。これは信拠するに足るデータとしては初であった。
 しかしレーガン政権3年目の1983にソ連のテレビに出演したことで、ラロックは米軍関係者のほとんどすべてを敵に回した。ただちに500人以上の退役海軍将官たちが右派系新聞『ワシントン・タイムズ』に全面広告を載せて、ラロックとCDIを非難した。
 かつてラロックの上官であった、元海軍作戦部長〔=軍令部総長〕のエルモ・ズムウォルト提督は、「もしラロックの考えがその通りに実現するならば、わたしの子供たちは自由世界で一生を送ることはできなくなるであろう」と声明した。
 ラロックとズムウォルトは1985に同時に連邦議会での証言を求められた。ズムウォルトはそこでラロックとの握手を拒んだ。
 ラロックは1918-6-29にイリノイ州で生まれた。父は自動車販売業だったが1929からの大不況で失職し、家具店を開いた。
 ラロックはイリノイ州立大学に進み、卒業を目前にして1940に海軍入りした。
 真珠湾が空襲されたとき、彼は在港の軍艦『マクドノー』の士官だった。
 彼の第二次大戦の体験は愉快なものではなかったようだ。彼は第二次大戦を舞台にヒロイズムを画いた映画は観ようとしなかった。
 1963に彼はジョージ・ワシントン大学で学士号を得、ジョージタウン大学からは国際関係論の修士号を得ている。
 現役最後の3年間は、マクネア基地にある全米国防大学校の校長として勤務した。
 ラロックはCDIを2000年代半ばまで運営した。2012にCDIは、PGO=「政府の見落としを見張る」という団体に吸収されている。
 先妻の死後、再婚したが、後妻にもまた先立たれている。
 先妻との間の3児は存命。他に養子が2人いる。孫もひ孫もあり。
 ニクソン大統領はラロックの電話を盗聴させていたという。ラロックは、それは望むところだったと後に語っている。なぜなら、たとえ盗聴を通じてでもよいので、一人でも多くのホワイトハウス高官や議会人たちに、われわれの得ているすべての事実を知って欲しかったからだ、と。