Militia を組織して某州空港を取り囲めという grass roots が沸いてくる予感……。アメリカで内戦じゃ~~!

 Sebastien Roblin 記者による2017-2-4記事「Russia’s IL-2 Sturmovik ‘Flying Tank’」。
 陸軍の電撃戦に直協する攻撃機の先鞭をつけたのはユンカース87シュトゥーカである。しかし低速で、地上火器から射たれやすい。そこでセルゲイ・イリューシンは、装甲された対地直協機を考えた。シュトゥルモヴィクである。
 ただし鋼鈑をボルトで貼り付るという装甲ではなかった。座席より前方のバイタルパーツ(エンジン、ラジエター、燃料タンク)を囲むモノコックボディそのものをスチール鈑でこしらえ、他の部分、すなわちボディの後半部や主翼は木材合板としたのだ。
 試作された単座の「イリューシン2」は、自重1万ポンド弱になった。シュトゥカが7000ポンドだから、ずいぶん重い。携行できる爆弾の重さはシュトゥカと変わらぬ1100ポンド。速力はややシュトゥカを上回った。
 固定武装は20ミリ機関砲と7.62ミリ機関銃を2門づつ。
 コクピット周りの鋼鈑厚は5ミリから12ミリ。
 キャノピーの防弾ガラスは、厚さが6センチもあった。
 イリューシン2はバルバロッサ作戦の緒戦(1941-6)から投入されている。すぐさま、それが小火器AAに対しては万全であることが知られた。
 ただしドイツの戦闘機に後方から射たれたときに、どうにもならなかった。シュトゥルモヴィクは、10回出撃するごとに1機喪失するという損害率だったが、1943年にはやや向上し、26回出撃するごとに1機喪失するペースになった。
 最前線にあったソ連第四飛行連隊の65機のシュトゥルモヴィクのうち55機は最初の1ヵ月で消えた。それから2ヵ月かけてイリューシンの工場はウラル山地まで疎開。その間、生産は止まった。
 WWII中に6万6000機もの「イリューシン2」が作られた。過去、これよりたくさん製造された航空機は「セスナ172」だけである。軍用機では、歴代世界第一位なのだ。
 スターリンは、前線パイロットから、シュトゥルモヴィクを複座にして戦闘機に対し自衛できるようにして欲しいという手紙を受け取ると、それを実施させた。
 これが「イリューシン2M」で、1942から製造されている。
 旋回機関銃は単装のUBT 12.7ミリだった。
 同時に、主翼の20ミリは23ミリへ強化された。この機関砲は初速も20ミリより大である。
 シュトゥルモヴィク用の機関砲としては複数の候補銃が試されている。そのひとつを設計し、不採用となったヤコフ・タウビン技師は、「劣悪な兵器を製造させようと企んだ罪」により、銃殺された。
 シュトゥルモヴィクの後部ガナーの死亡率は、パイロットの4倍であった。後席には防弾鈑が無かったのだ。
 また、全重が増えたことで速力も落ちている。
 イリューシン2のパイロットの中から複数の「エース」が出た。ドイツの低速の輸送機、爆撃機、連絡偵察機などを撃墜することができたからだ。
 なにせ6万機だから、女のパイロットも珍しくはなかった。アンナ・ティモフェイェワ・エゴロワは243回出撃して、1944-8にAAで撃墜された。生きて捕虜になったので、対敵通牒の嫌疑をかけられている。
 スターリングラードに対する独軍の経空補給がうまくいかなかったのは、シュトゥルモビクのせいだ。72機の輸送機がスカルスク飛行場で駐機中に破壊された。空中で撃墜された輸送機も多い。
 シュトゥルモヴィクは82ミリ径ロケット弾×8発、もしくは132ミリ径ロケット弾×4発も吊るしたこともあるが、これらは弾道がばらけすぎるので効果は乏しかった。
 それよりも「PTAB」が著効があった。これは3ポンドの成形炸薬弾子を200個、翼下から撒布する装置で、長辺70m×短辺15mの地域内の敵AFVを破壊できた。
 37ミリ機関砲(15発弾倉)×2門を吊るしたタイプは、3500機だけ製造された。あまりにも命中精度が悪いので、これはダメだと分かって量産は打ち切られた。
 ※ドイツの場合は超低速で急降下というところがミソだったのだろうね。イリューシンは緩降下だから、薄い天板でもはじかれやすい。その違いに気付くのが遅れた。
 クルスクでは、イリューシン2の編隊は、戦場上空で環を画いてロイタリングするようにした。こうすれば互いに後方をカバーできるのでドイツの戦闘機に食われずに済む。地上に攻撃目標を見つけたら、その環からいちどに1機づつ飛び出して攻撃し、すぐまた環に復帰するようにした。
 クルスクにおけるシュトゥルモヴィクの戦果報告は当てにならない。ドイツ第3機甲師団と第17機甲師団は、それぞれ90両、67両の戦車を擁していただけなのに、シュトゥルモヴィクのパイロットたちは、それぞれ270両と240両を破壊したとフカしている。
 WWII中の航空兵による戦車撃破報告は、世界中、どこでも大げさであった。地上から確認されているところによると、すべての戦車の損害のうち、航空機によるものは、1割未満だった。
 ある推測統計によれば、ドイツの戦車を1両やっつけるまでに、イリューシン2は、5機から10機、損なわれたという。単価は航空機の方が高いのだから、困ったもんだろう。
 1943年に、「イリューシン2M3」が仕上がった。やっと、後席銃手のために厚さ13ミリの防弾鈑が設けられた。主翼には15度の後退角がつけられて、後席増設によって後方にずれて狂ったままであった重心にマッチさせた。これでようやく、パイロットの操縦はマシになった。
 エンジンもAM38からAM-38Fに強化された。
 ベルリンをめぐる4日間の戦いには、数千機のイリューシン2に、全金属製の「イリューシン10」も150機加わった。外見は類似するが、空力的にもっと洗練されており、エンジンもAM-42で強力、したがって高速であった。「イリューシン10」は、1954年まで量産されている。
 ※朝鮮戦争では全く活躍できずに、もはやこのコンセプトでは役に立たないことが理解されてしまったため、休戦と同時に製造中止。
 ソ連の記録では、WWII中に戦闘で失われたイリューシン2は、1万1000機だったという。しかし共産圏では「嘘2倍」の原則があるから、じっさいは2万2000機だったとも疑える。
 シュトゥルモヴィクはWWII後に、モンゴル、ユーゴスラビア、ポーランドにも供与されている。
 朝鮮戦争の緒戦では「イリューシン10」が93機投入されたものの、米軍機によって70機以上が撃墜/地上撃破されてしまうと、以後、二度と戦場には姿を現していない。
 中共は1972年まで254機の「イリューシン10」を持っていた。1955年には金門島を、1958年にはチベットを爆撃している。