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  MICHAEL E. RUANE 記者による2017-6-5記事「Unsealed 75 years after the Battle of Midway: New details of an alarming WWII press leak」。
  『トリビューン』紙の1942-6-7付、ミッドウェー海戦大捷報道。メインストーリーは問題なかったのだが、サイドストーリーでこれが海軍暗号解読班の手柄である――日本側の作戦計画を事前につきとめていた――ことをバラしてしまった。
 それは、詳しすぎた!
 14パラグラフもあって、WWII中の最悪の報道リークだったとアメリカ政府では回顧している。
 米海軍とFDR政権高官が激怒したのは当然であった。
 この機密リーク報道の責任者は誰であって、どのような罪に問われるかを判断する予審(大陪審)での証言内容は、70年以上も秘密にされていた。
 やっと2016-12に、海軍史家のエリオット・カールソンが、その記録を情報公開させるところまで漕ぎ着けた。
 これは、米国政府が「エスピオナージ法」にもとづいてメディア関係者を裁判にかけようとした、米国史上で唯一件のケースとなっている。
 『トリビューン』の記事はバラした。米海軍内部では、ミッドウェー諸島へ来攻する日本軍の兵力は海戦よりもセベラルデイズも前からよく知られていたと。この予告のおかげで、米軍は持てる全航空戦力を日本艦隊の邀撃にさしむけることができたのだ、と。
 また記事はバラした。日本艦隊は3本編成になっていたと。まず攻撃艦隊。その後方に支援艦隊〔戦艦などがウロウロしたのみ〕。そして上陸占領部隊を輸送する艦隊。
 その艦数や、艦名・艦種までが、記事には表示されていた。
 ただし記事は、「日本軍の暗号を破っていた」とは明示していない。
 とはいえ、海軍の世界に詳しい者がこの記事を一読すれば、米海軍が日本海軍の作戦用暗号を破ったことは明瞭であった。
 史家のジョン・コステロによれば、米情報当局は、日本軍がミッドウェー方面で攻撃を開始する日を、誤差わずかに24時間で、事前に言い当てていた。
 攻撃目標がミッドウェーであることを確かめるために、「海水蒸留装置が壊れた」という偽の緊急無線をミッドウェー島から平文の英語で打電させた話は有名。
 『トリビューン』の記事は、『ワシントンタイムズ-ヘラルド』紙や『ニューヨークデイリーニューズ』紙等によっても短く引用された。
 『トリビューン』紙の元記事を書いたのは、スタンリー・ジョンストンという太平洋特派員だった。ただし記事にはその署名は無い。
 ジョンストンは豪州人で、記者時代には口ひげ野郎だった。
 ジョンストンはWWIでは十代にしてアンザック部隊の一員としてガリポリで戦闘したベテランだった。
 戦間期にはニューギニアで金鉱を掘っていたこともある。
 英国の『トリビューン』紙の特派員となったのは1940のこと。英国滞在中、ドイツ軍機の爆弾であやうく死にかけた。
 米国が参戦すると、新聞社は彼を太平洋へ送り出した。そこで彼は『レキシントン』に同乗取材を許された唯一のリポーターとなった。そして1942-5の珊瑚海海戦を体験。
 『レキシントン』は沈むまでにかなりの時間があったので、3000人近くの水兵もジョンストンも、泳ぐ必要なく、安全に退艦できた。同艦は最終的に米駆逐艦が魚雷で沈めた。
 ジョンストンと元『レキシントン』乗組員たちは、米海軍の輸送艦『バーネット』に乗せられてサンディエゴ軍港へ向かった。
 この航海の途中で、ジョンストンは偶然に決定的な情報に接することができたのである。
 ニミッツが、これから4日もしくは5日の間に、ミッドウェーで海戦が起きる、という予報を、海上の全指揮官に対して、無線(暗号電信)で事前に通知したのだ。
 さらにニミッツは別の電報で、やってくるであろう日本の攻略隊の構成について詳細に通知した。
 この海軍高緊急度電報311221番は、ミッドウェー海戦には用のない『バーネット』宛てに来るべきものではなかったが、受信され、その電信室で〔おそらく暇だったのと興味本位から〕暗号電文が翻訳され、その電報紙が、艦内の元『レキシントン』座乗の司令官・セリグマン准将まで回覧された。そして『バーネット』艦内では、セリグマンは、ジョンストンと同じ臨時居室をあてがわれていたのである。ジョンストンは、その内容を書き取った。
 ジョンストンがサンディエゴに上陸したのは6月2日。そしてシカゴには6月4日に着いた。
 そこでジョンストンは、ミッドウェー海戦大勝利についての政府公式発表を知り、ただちに『トリビューン』の編集長に対して「わたしは日本艦隊に関する特ネタを持っています」と申し出た。こうしてあの記事が、東部の有名新聞をぜんぶ出し抜いて、活字になったのである。
 ニミッツ電報が「秘」であることをジョンストンが知っていたかどうかが、予審の焦点になった。しかしそれを証拠立てるものはなかった。
 この一件の捜査を海軍省と司法省から任された、元連邦検事総長ミッチェルは、もしジョンストンを訴追すれば、裁判の過程でまた別な軍の秘密がどんどん表出してしまうだろうと懸念した。
 しかしFDR政権はなんとしてもジョンストンを起訴させたがった。よってシカゴで1942-8に、連邦大陪審が開廷された。
 けっきょく、大陪審は誰も起訴しなかった。証言は封印され、2016-12まで世間から隠されていたのだ。
 1962-9-13に62歳のジョンストンが心臓発作で死亡すると、『シカゴ・トリビューン』紙は追悼記事を1面に掲げた。