We need a sloven war. The only way to prevent ‘em. Forget about the exit. The lingering state will also be an ideally end for us.

 Sebastien Roblin 記者による2017-9-3記事「America’s Worst World War II Fighter Was the Star of the Russian Air Force」。
 なぜベルP-39エアラコブラはソ連の対独戦線でのみ大活躍ができたか?
 XP-39はインターセプターとして設計された。37ミリ自動砲を中心にして機体をまとめるという、逆転発想のデザイン。
 この自動砲のタマは30発のみ。
 機首には12.7×2、主翼には7.62ミリ×4も付けた。
 液冷V型12気筒のアリソンエンジンはコクピットの後ろに据えた。その排気管はキャノピーのすぐ後ろに突き出している。
 プロペラシャフトはパイロットの股の間を通っていた。
 量産D型には自動防漏燃料槽と、重さ200ポンドの防弾鈑も。
 しかるに1938年の試作機のスピード380マイル/時に陸軍は不満。空気抵抗を減らせと言ってきた。
 メーカーは、腹に突き出したターボチャージャーの空気取り入れ口を撤廃するしかなかった。
 過給器無しにした結果、高度1万5000フィート以上でこの戦闘機は活躍できぬことになった。
 独軍戦闘機は、高度2万5000フィートで空襲を仕掛ける米軍重爆を、さらに高い場所から待ち受けた。米軍の護衛戦闘機は上昇力がよくないとどうしようもなかったが、P-39はその点、最低だった。
 37ミリ砲弾は機首に蓄積されていたが、それを射耗してしまうと、リアエンジンの方に重心が移って、P-39は危険なスピンを起こし易くなった。
 米国が対独参戦する前、P-39のスピナー銃を20ミリに減口径した「P-400」が英国に供給されている。200機以上。
 しかし上昇性能の悪さは同じなのでRAFパイロットはこの機体を嫌った。
 1942夏に英本土に、米陸軍飛行隊がP-39とともにやってきた。英国人は「それは格納庫に入れておいて、われわれの『スピットファイアMk.5』を使うといい」と、親切に薦めてくれたという。
 北アフリカとイタリア侵攻作戦では、P-39には対地攻撃任務が割り振られた。
 ガダルカナルとニューギニアでは、P-39とP-40が中心になるしかなかった。
 それでも日本軍機とのキルレシオは1:1だった。
 インターセプターのため、とにかく作戦行動半径が短いので、苦労した。
 ビル・フィードラー中尉は、米国人のP-39乗りとして唯一のエースである。彼はニューギニアとソロモン諸島で日本機を5機落とした。うち3機の零戦は、立て続けである。が、本人は滑走路上の衝突事故で死んだ。
 アッツ島、キスカ島でも、日本機と闘ったのはP-39である。みんな、忘れているが。
 P-39に乗っていた1人のイタリア人エースと、1人の自由フランス軍人エースが、それぞれ事故死している。
 P-400を早く手放したかった英国は、そのうち212機を輸送船に詰め込み、北海経由でソ連へ援助した。ムルマンスク港に陸揚げしたのだ。
 ソ連は1941末の冬にそれを戦力化した。
 スターリンはP-400を絶賛し、もっとくれ、とFDRに手紙を書いている。これはお世辞ではない。ソ連はレンドリース法で供給された米国製M3中戦車については「家族七人分の棺桶」と悪口しているし、英国から贈られたスピットファイアは寒地では扱い難いシステムであった。
 ソ連のP-39部隊はボロネジ戦線の最初の2ヶ月間で独爆撃機(主にユンカース88)×18機、独戦闘機(主に109)×45機を撃墜し、みずからは8機を失っただけだった。
 東部戦線では独軍爆撃機は低空をやってきた。それで高空の苦手なP-39は大活躍できたのだ。
 また、陸上戦線のすぐうしろに航空基地があるので、航続距離の短さも補われた。
 ソ連戦闘機にはめったに搭載されていない無線機も付いているし、シート素材は良いし、パイロットはごきげんだった。コブルーシカ(小さいコブラ)という愛称もついた。
 P-39は5000機前後がソ連に贈与された。うち1000が損耗している。
 2500機はNY州バッファロー市からまずアラスカへ女子パイロット等によってフェリー飛行され、そこからベーリング海越しにシベリアにフェリー飛行。そこから転々と離着陸を重ねながら東部戦線まで辿り着いた。
 別な2000機は、イランに陸揚げされてソ連へ渡されている。
 ソ連軍が運用したP-39のうちQ型は、7.62ミリ×4の翼下銃を12.7×2に換装した。7.62ミリは、敵機の塗装を剥がす力しかない、と言われた。
 対地攻撃では翼銃そのものが嫌われた。前線のソ連軍はしばしばP-39の翼銃をぜんぶ下ろしてしまい、機首銃だけで精密に地上銃撃しようとした。
 ただし、ソ連のP-39は対戦車攻撃はしていない。というのは、37ミリ自動砲用の徹甲弾をソ連は入手できなかったからである。
 P-39に与えられた主任務はあくまでドイツの爆撃機殺しであり、ついで、シュトルモビクの護衛であった。
 ソ連のP-39乗りは、体当たり空戦をよくやった。エース級ですら、プロペラでメッサーの尾部を切り落として撃墜するということをやっている。
 第二次大戦のドイツ空軍が1945-5に撃墜した最後の連合軍機は、ボヘミア上空でMe262が撃墜したP-39だったという。
 そしてその翌日、ソ連のエアラコブラが、双発のフォッケ189をプラハ上空で撃墜。これが戦争中最後に撃墜されたドイツ軍機だったという。
 性能が全面的に改良されたキングコブラ(P-63)の開発についてはソ連からも助言のためのパイロットがベル社へ送り込まれている。
 米軍はP-51を選好してP-63を採用しなかったが、ソ連はキングコブラを1945-8の満州で使っている。米国が2400機も引き渡したからだ。
 朝鮮戦争中、ウラジオ近郊のP-63部隊を米空軍のP-80が掃射した事件があった。
 フランス軍はインドシナで1951年までP-63を使った。