釜山で500ktが炸裂しても夏なら対馬にフォールアウトは来ない。ならば冬は……? 詳細は年末売りの某ムック寄稿で。

 APの2017-10-28記事「Putin Himself Fires SATAN 2 Nuclear Ballistic Missile」。
  このたびの演習でプーチンが核ミサイル発射を直接に指揮したようだ。
 ロシア北西部のプレセツクからカムチャツカの「クラ」射爆場に向けて「トポリ」が発射された。2017-10-26に。
 バレンツ海からは1基のSLBMがやはりカムチャツカに向けて発射された。
 オホーツク海からは2基のSLBMが、逆向きに、アルハンゲリスクの「チジャ」射爆場に向けて発射された。
 同時に、カムチャツカ、北極圏のコミ州、そしてカザフスタン内のそれぞれ演習空域において、ツポレフ160、ツポレフ95、ツポレフ22(バックファイア)が巡航ミサイルを発射している。
 次。
 MIKE STOBBE 記者による2017-10-28記事「Opioid epidemic shares chilling similarities with the past」。
    米国の最初の麻薬禍は、南北戦争直後に起きた。新薬のモルヒネで中毒になった元負傷兵たちだ。
 1900年代の前半、このモルヒネ中毒患者を救済しようと開発されたのがヘロインだったという。
 コカインもやはり同じ目的で製薬会社が開発したのだという。
 じつはコケインは鼻腔の通りを良くする。だから花粉症の公式治療薬だった時期もあるのだ。
 1910年、ウィリアム・タフト大統領は、コカインは米国が直面した最も深刻な薬禍だと議会に訴えた。
 1800年代の麻薬といえば阿片だった。それはローダナム=アヘンチンキという液体の薬として、鎮痛目的や睡眠薬として処方された。
 リンカーン大統領の妻マリーは、頭痛薬としてアヘンチンキを処方され、中毒患者になっていた。
 サンフランシスコのチャイナタウンには阿片窟があった。
 目た人が伝えるところでは、阿片窟は地下埋葬所のように静かで、ヤク中どもの重々しい寝息が聞こえていたそうだ。
 鎮痛薬としてのモルヒネはドイツのE・メルク社が開発した。南北戦争中にその依存症になった者たちが多いため、モヒ中を「軍隊病」と呼ぶこともあった。
 メルク社はコカインを、薬局で処方箋無しで客に売れる強壮薬用の主成分として、メーカー向けに出荷した。さまざまな最終製品をさまざまな症状の患者が買った。
 醸造会社はワインやソーダにコカインを混ぜた。米国南部では、労働者たちがみずから気付け薬として鼻から吸引した。
 バイエル社がヘロインを市販し始めたのは1890年代である。
 最初は錠剤の形で、処方箋なしで誰でも買えた。インフルエンザや呼吸器系疾患の患者に投与された。
 やがて、従来の麻薬にあきたりない者たちが、ヘロインを粉末にして鼻から吸ったり、水に溶かして静注するようになった。1905年頃だ。その方が効果は劇的だからである。
 それは2015年におけるオピオイドのひとつ、ヴィコディン錠のような濫用のされ方であった。アメリカは、同じことを何度も体験しているのだ。
 1914年、連邦議会は「ハリソン法」を通した。コカインとヘロインは医師の処方箋なしに患者に売ってはならぬ。酒や食品に混ぜてはならぬ、とした。
 ただしハリウッドでは1920年代にもコカインは濫用されている。
 大恐慌は麻薬の買い手を文無しにしてしまった。さらにWWII中のUボートは、海外産のドラッグの米国流入を阻止してくれた。
 しかしWWIIが終戦した結果、米国の闇市場には、海外産のドラッグが自由に流れ込むようになった。
 覚醒剤アンフェタミンは1930年代にバローズウェルカム製薬会社により開発され、1950年代の米国に溢れた。
 痩せ薬としてもそれは販売されたのである。
 これを注射したドライバーは猛速度を出すので「スピードきちがい」と呼ばれた。
 60~70年代に、ベトナム戦争が若い兵隊をドラッグに近づけ、米本土でのヘロイン禍を招いた。
 1970年と71年のニューヨーク市において、黒人とプエルトルコ人の死因の第一位は、ヘロイン絡みであった。
 黒人やプエルトリカンのヘロイン中毒患者など、誰も同情しない。
 そこでニクソン大統領は1971年に国家事業として「麻薬に対する宣戦布告」。
 ドラッグディーラーに対する量刑が跳ね上がった。
 70年代後半にヘロイン濫用は減った。代りにコカインが再浮上。最初は粉末だったものが、80年代には高純度に精製した結晶固形物状に。これを「クラック」と呼ぶ。
 供給はふんだんであり、末端小売価格が1塊5ドルに値下がり。買い手は、平滑なガラス表面の上で、剃刀の刃を用いてクラックを適量に分割する。
 注射の必要がなく、マリワナのように蒸発物を鼻から吸収できることが、若者の間にクラック=結晶コカインに対する警戒心を弱めさせた。大流行。
 法的対策として、粉末状コカインの所持および販売よりも、結晶状クラックの所持および販売の量刑の方が重くされた。
 警察の取り締まりが奏功して、クラック濫用も1990年代に沈静化した。
 米国社会による「村八分」も効いている。クラック絡みで殺人を犯したり逮捕された者が所属する家族やコミュニティを、市町村が排除するように努めた結果だった。
 政府・自治体は、クラックが青少年の脳を破壊するというイメージ宣伝をTVでガンガン打った。「クラック頭」のイメージは米国社会に定着し、クラック濫用者は人外のものであるかのように差別されるまでになった。
 ある研究者の試算では、1900年時点では米国人の300人に1人はドラッグ中毒者だったと見られる。現在、米国人の133人に1人がヤク中であり、しかも中毒源は昔のクスリよりもヤバイ。
 ヘロインが最も蔓延した1970年の全米の過剰摂取死者は3000人未満であった。
 クラック蔓延のピークだった1988年の全米の過剰摂取死者は5000人弱だった。
 しかるに2016年、6万4000人以上のアメリカ人が、各種の麻薬過剰摂取で死んでいる。
 オキシコンティンという新麻薬(オピオイド=阿片もどき)が登場した1995年から事態が急に悪化したのだ。
 それはモルヒネやヘロインのような強烈な効き目がありながら、その依存症の危険度は低いのだと思われた。
 というのは、もともと疼痛治療薬である。長期連用が前提だから、中毒作用も弱いだろうと思われたわけだ。
 しかし一部の患者はもっと薬効を欲するようになり、錠剤を砕いて鼻から吸ったり、水に溶かして静注すれば、もっと劇的にイイことを発見した。
 量を多くすれば効き目が強いのは当然で、末期癌患者の激痛を緩和するために、モルヒネの100倍近くも効くものなのである。終末医療に使うのならば、どうせすぐ死ぬ人たちだから、量が多くても問題はないのだが。
 オピオイドはすっかりヘロインを駆逐したようだ。2016年のヘロイン濫用者は、過去41年間で最低だった。