恵山の賽の河原はいっそのこと、野外お化け屋敷にしてしまったらよいのではないか?

 昨日Upした写真特集を見て欲しい。「日本のアフガニスタン」と言える地形が、恵山(えさん)にある。そしてその麓は既に勝手に「地蔵ミュージアム」にされている。だったら徹底的に改造して怪奇の荒れ地墓場を演出したらおもしろいのではないか。
 ここは火山帯なので植生だっていつも荒らされているようなものだろう。
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 JULIANNE STANFORD 記者による2018-5-20記事「Famed mini sub’s control room to become future exhibit」。
   1963に『スレッシャー』が沈没して潜水艦の乗員全員が死亡した遭難事故を承けて、リッコーバー提督が、深海で何時間でも沈船を探索できる有人潜航艇が必要だと考えて実現させたのが『NR-1』だった。
 全長145フィート、胴径13フィートの原子力潜航艇は1969-1-25に進水した。
 『NR-1』はそれから40年間、現役であった。
 公開されているミッションには次のものがあった。
 1976の大西洋におけるF-14探し。
 1986のスペースシャトル残骸探し。
 1995に沈船『ブリタニク』号(タイタニックの姉妹船)探し。
 90年代後半に地中海にて、古代ローマの沈船3隻を発見。また、南北戦争で沈没した鋼鉄蒸気軍艦『モニター』の残骸捜索。
 ※90年代から余裕をかますようになったのがわかる。海底ケーブル工作などの機微なミッションは、90年代にはすでに他の正規SSNが実行するようになっていたと見ていいのだろう。
 2008-11-21に『NR-1』は機能停止させられた。
 船体はピュージェットサウンド海軍工廠に運ばれ、バージ上でずっと解体工事を待っていた。
 解体作業は2017-1からスタートしている。
 その操縦室部分はげんざい、「Naval Undersea Museum」にてレストアされている。
 機微な部品や文書はぜんぶ、撤去済みである。
 元乗員いわく。この艦での勤務は、若くなければできない。当時は面白かったが、もういちどやるかといわれたら断る。そういう環境。
 なにしろおそろしく少ない人数で原子炉系を含むあらゆるメンテナンスをするしかないから、軍港で休暇を楽しむ暇などないのはもちろん、夜に寝る時間すらほとんどない。
 同型艦もゼロなので、出来合いのスペアパーツというものがない。何か部品が壊れたら、僚艦からガメてこい、というわけにはいかない。
 たいがいのモノは、ゼロから工作して創り出すしかなかった。
 『NR-1』は乗員15名。しかし特別なミッションで出航するときには、お客さんが11人も加わることもあった。
 寝台は4人分のみ。シャワー設備は無かった。
 たいていは、通路にマットを敷くか、天井から吊り床を下げて寝た。
 だから通行者は足元と頭上によくよく注意して歩く必要があった。
 原潜なのに、洋上で頻繁に補給してもらう必要があった。特に新鮮な野菜と果物。あとは全部冷凍食品で、それを電気ヒーターか電子レンジで解凍して食べた。15分以内に加熱調理を終われないものは、積まれていなかった。
 原潜なのに、航洋速力が遅すぎるので、現場海域までは、航洋型タグボートで曳航してもらっていた。『Carolyn Chouest』という。平底なので、このボートはひどく揺れた。
 ※……と回想しているということは、曳航中は乗員の一部も曳船の方へ移乗していたのか。
 退官したコーストガードの長官が、戦前の喪失飛行船『アクロン』号の残骸探求に執心だった。この海軍飛行船は1933に強風のためNJ沖のどこかに墜落し、当時は残片すら見つからなかった。
 『NR-1』による探索は、グリッドを決めて精密な海底3D地図をつくる。海中で正確に一定間隔の平行線を描くように往復する必要があるので「原っぱの草刈り運動」と呼ばれる。数日がかりの作業である。
 まさに予定の最終日に、アクロン号の尾部の形状がモニターに現れた。そこを端緒として、胴体部も発見することができた。
 メキシコ湾に沈んだ19世紀のガレオン船の写真を撮影するために2週間潜ったこともある。学者が言うには、あと10年もすれば嵐の作用で跡形もなくなってしまうはずなので、いまのうちに撮影して記録を残しておいてもらいたい、と。
 スラスターを使って表面の堆積物を飛ばし、船体の残骸のクリアな写真をうまく撮ることができた。
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 Bill Hayton 記者による2018-5-16記事「China’s Claim to the Spratly Islands is Just a Mistake」。
  戦前~戦中のシナ人は、じぶんたちで探査もしないで、英国が作製した地図をもとに勝手な島嶼領有主張を展開した。だから暗礁でしかない2つの海図上の表記が、彼らの脳内で「島」に化けてしまい、それが今日の「南シナ海は全部ウチらのもの」というトンデモ主張に結びついているのである。
 シナ政府のクレームの始まりは1907年である。
 にしざわ・よしじ が、香港と台湾の間にある「Pratas」群島でグアノを採掘しはじめたので。
 フィリピン防衛のために警戒した米国が北京に通牒してやるまで、シナ政府は気付いていなかった。通牒されたあとも何年も放置した。
 1909に日本政府はプラタス諸島の支配権がシナにあると認めた。
 シナ政府は初めて、パラセル諸島が日本から狙われるという可能性に気付いたわけである。
 1931-12にフランスがパラセルの領有権を主張。仏印の範囲だとして。9ヵ月後、シナ政府は抗議。
 フランスは1933-7にはスプラトリーの6つの島も併合したと発表。
 しかるに支那政府は、あきらかに、パラセルとスプラトリーの違いもわかっていなかった。
 支那海軍は支那外務省に、スプラトリー諸島など存在しない、との電報すら打っている。
 ※補足しよう。小倉卯之助『暴風の島――新南群島発見記』(S15-12)によると、S8-7-25に、フランスが、新南群島のうち7島の領有を宣言した。これに国府が抗議し、フィリピンも騒いだと。
 マニラの米政府が地図をめぐんでやり、支那政府は認識し、スプラトリーについてのクレームを放棄した。
 それから支那政府はあわてて、英語名を直訳して島に名前をつけるようになった。
 ちなみにスプラトリーというのは、英国人船長のリチャード・スプラトリーに基づく。
 シナ政府が当時参照したのは、1906の英国の海図だろう。
 シナ人はこのとき、bankもshoalも「灘」と訳した。
 ※記事には古い地図のコピー写真が添えられているのだが「サンズイに堆」であるようにも見える。だとすると読み方は「dui」になるかもしれない。 ベトナム政府が大注目しているというBBCのこの記事は、私をスッキリさせない。
 「ジェームズ Shoal」は、「曾姆灘」(Zengmu tan)になった。
 「ヴァンガード Bank」は、「前衛灘」(Qianwei tan)になった。
 シナ人はじぶんたちで調査せず、とりよせた海図で論じていただけなのだろう。だから海面下の浅瀬が、ことさらとりざたされることになった。
 1936に「中華建設新圖」が制作された。このシナ政府版の海図に、それら暗礁が、島である如く記載されてしまった。
 ※シナ地図では南シナ海を「中國海」と書いているのも分かって面白い。
 1943まで中華民國政府はパラセルより先の島に領土クレームしていない。同政府が1943に公刊している公式シナ案内ハンドブックにも、中国領土は、北はサヤン山脈、南はパラセル群島の「Triton Island」まで、と明記されている。
 中華民國が南洋の島の名前を変えたのは1947である。
 暗礁のことは暗沙と書くようになった。新語である。
 James Shoal は Zengmu ansha になった。
 1948にシナ政府は初めて公式に、James Shoal までのスプラトリー諸島はシナ領である、と主張した。
 ※補足しよう。日本軍が海南島を占領したとき、フランスはあわてて西沙島の領有を確認声明している。これが活きていると思われてはまずいので、蒋介石政府はハッキリさせておきたかったのだろう。
 整理しよう。シナ政府がスプラトリー諸島の存在そのものに気付いたのが1933年7月である。
 また、シナ領土の南端は「James Shoal」であると考えるようになったのは1947-4であった。
 ※補足しよう。S14-4-18に日本政府は新南群島を大日本帝国の領土だと宣言し、それを台湾総督府の管轄下においた。だから蒋介石は台湾逃亡後に、スプラトリー全部が国府のものだと主張したくなった。それに対抗上、中共政府もまったく同じ主張をしないわけにはいかなくなったのだ。尖閣問題と、パターンがよく似ている。主張をひっこめると、そっちの政府の正当性がなくなるように、シナ人には感じられるのだ。
 ※これを機会に漢和辞典で「灘」を調べたら「沿岸につらなる」といった意味もあることがわかった。ならば、難所ではぜんぜんない「熊野灘」という表現にはべつだん矛盾がなかったわけだ。