北海道の夏が、もう終わっちまった……。

 こう凉しくっちゃよぅ……と、かこちたくなる、昨日今日の陽気……。
 ある年の夏ピーク(7月末~8月初)がいくら暑く感じられても、その年末からの冬シーズンが緩和されるとは限らないことを、この地方の住民なら知っている。
 それどころか、むしろ、今まで以上の過酷な厳冬が来ることを、もうすでに敏感に予想しているのである。
 おそらく長期的には、日本列島は、極熱地と、非極熱地に分かれる。
 温暖化と寒冷化が、同時に日本を襲う。北海道は寒冷化にさらされる。
 それにともない、日本市場で販売される自動車の断熱仕様を、これまでとはすっかり変えなくてはなるまい。
 非極熱地仕様の自動車は、やはり北海道で製造するのが合理的である。北海道からならば、最短航路でカナダへも輸出できるから。
 そのように工場を二地域で思い切って分離するなら、断熱仕様だけでなくて、基本レイアウトも、根本から寒地向きにしてしまえる。
 極寒地用には、ミッドシップエンジンが、具合がよくなるかもしれない。
 エンジン停止後の熱量をすこしでも多く、長く、保存利用できるとすれば、ガス欠で凍死する人だって、減るだろう。
 また早朝の始動も、いささか安心かもしれぬ。
 次。
 Vanya Eftimova Bellinger 記者による2018-8-6記事「Clausewitz’s Library: Strategy, Politics, and Poetry」。
     クラウゼヴィッツと出身地を同じくする例の研究家女史がまたも大発掘。ポツダムの公文書館にマリーの遺言状があった。そこには、夫妻の遺産である蔵書の総目録も付属していた。
 1831のクラウゼヴィッツの病死に続き、マリーも子無しにて1836に没したことから、役所としては細密な資産目録を作る必要があったのだ。
 1836時点での夫妻の蔵書は380冊であった。
 すでに、その蔵書リストの英語版が、ネット上に公開されている。
 まず驚くのが、蔵書の数の少なさだろう。たったの380冊なんてありえるか?
 たとえばマリーの実父はドイツの一小邦の首相だったが、その蔵書は6万2000冊あった。
 また、裕福であったジョージ・ワシントンの死亡時の蔵書は1200冊強。マウントヴァーノンに現在までも実物が保存されている。
 まちがいなくマリー未亡人は、亡夫の知友に亡夫の蔵書の大部分をプレゼントしてしまったのだ。それが当時の慣行である。
 ピーター・パレットは示唆する。1818から1830までクラウゼヴィッツは陸軍大学校〔クリーグスアカデミー。直訳すると「戦争アカデミー」〕の校長であった。その付属図書館は欧州最大級の軍事蔵書量を誇っていたのだから、私物として所有する必要はなかったんじゃないかと。
 1815にクラウゼヴィッツは夫人に手紙を書いており、その中で、ヴァンデ叛乱についてのロシュジャクランによる回顧録の読後印象を語っていた。しかしその書名は、このたび発掘された遺品リスト中には見えない。
 このような例を幾つも挙げることができる。
 図書館や友人から借りて読んだのだとすれば、それらを所有していないことの説明になるだろう。
 ジョミニの著作が1冊も目録に含まれていないのも不審である。
 リストにはこんなものが含まれていた。
 ヴォーバンの築城書。
 モンテクコリの回顧録。
 ドゥサクスの研究。
 カルノーの工兵教範。
 師匠であったシャルンホルストが書いた野外令/統帥綱領。
 クリーグスアカデミーは科学と数学に力を入れている軍学校だった。ゆえにクラウゼヴィッツの個人蔵書遺品にも、数学、地学、物理学、天文学のタイトル多し。
 フムボルトの2冊の本あり。
 鉱物学、火砲の射表の較正、化学、地図作製学、複数の植物学の本。
 電磁学についての1821年のパウル・エルマンの論文は、おそらく、激情と機会と理性が戦争の性格を形作る三つの磁石だというクラウゼヴィッツ流メタファーに貢献した書物のひとつなのだろう。
 オスマントルコの探訪記、コサック史、クリミアの地理、アフリカの地理、西インドと東インドの植民地化史、ペルシャ諸王紀などもあり。
 1805刊の『手紙の書き方』は、マリーの所属階層に自己を合わせようとした若いクラウゼヴィッツ大尉の必死の努力を窺わせる。
 国家学、政治学、国際法と国内法、外交についての文献は1815以後に蒐集していることが分かる。
 商業、経済、税金の本もある。
 クラウゼヴィッツは1818年時点では『戦争論』をモンテスキューに倣ってまとめようと想っていた。
 蔵書には、全12巻からなるフランス哲学者全集が含まれている。
  ※ルソーの単行本は早々と処分していたはずだ。しかし全集の形状ならば、持っていても変に疑われない。
 フィヒテの本は2冊。
 エラスムス集もあり。
 ゲーテとシラーの文学作品が数冊。夫妻の好みが分かる。
 380冊のうち100冊が文芸書なのだ。
 ホメロス、ヘシオドス、シェークスピア、バイロン、トマス・モア、ノヴァリス。ヘルダーによる文学史叢書全32冊。
 クラウゼヴィッツはスイスで詩人のシュレーゲルらにも会って話を聞いている。
 英語で書かれている本もかなりある。それらはマリー夫人が購入したものに違いない。夫人の実母が英国外交官の娘であった関係で。
 ベルリンでマリーは、将来の米大統領となるジョン・クインシー・アダムズおよびその妻ルイザとも知り合いだった。
 マリーは個人的にバイロン卿の詩を愛好。またバイロンの影響でギリシャ独立運動も支持した。
 刊年からして、夫の死後に夫人が買ったらしい書籍も含まれている。ほとんどはシラーなどの文学系。
 夫妻は敬虔なキリスト教徒らしくはなかったのに、多くの宗教書もある。
 1820年代にプロイセンには敬虔運動が流行し、夫妻の友人たちの多くがそれにハマっていた。
 あるいは夫人が亭主の急死後に慰安を模索したのかもしれない。
 シュライエルマッヒャー、マルチン・ルターなどの宗教書は、クラウゼヴィッツが戦争と倫理の関係を考究しようとしていたことの証拠なのか?
 料理の本もなぜか1冊あった。
 しかしマリーは生涯、じぶんで料理したことはないはずである。
 この料理本は、誰かが夫妻にプレゼントしたのかもしれない。